アートと文藝のCafe

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陳腐な言葉の新鮮なニュアンス

謡曲批評
よこはま・たそがれ

 

 五木ひろしの『よこはま・たそがれ』という曲をはじめて聞いたのは、もう50年くらい前の話になる。
 私はまだ二十歳だった。

 

 最初に聞いたのは、五木ひろしの歌ではなかった。
 友人の一人が、マージャンの牌をつまみながら、この歌を口ずさんでいたのである。

 

 場末の暗いマージャン屋で、牌をかき回す音に混じって流れていた『よこはま・たそがれ』は、妙にもの悲しく聞こえた。 

 

 私はつもってきた牌をリーパイしながらも、歌に託された情景の方に心を奪われていた。

 

 東京の中央線の西側に住んでいたから、横浜などにはあまり行ったことがない。
 なのに、横浜という街がどんな街であるのか、すぐさま明瞭なイメージが頭のなかに湧いた。
 
 木枯らし
 水色
 冷たい夜明け
 海鳴り
 灯台
 一羽のかもめ

 

 なんという荒涼とした、 また、なんという寂寥感の漂う街なのか。

 
 私は、ほとんど知らない横浜に、まるで詩の中か、夢の中で出遭った街のようなイメージを持った。

 

 結局、その後自分で横浜に遊びに行くようになってからは、さすがに歌にうたわれた情景は詩人(山口洋子)の創作であることを知った。

 

 しかし、今でも自分が「横浜」という街を頭の中に浮かべるときは、まずこの歌の情景が真っ先に浮かぶ。

 

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▼ 「よこはま たそがれ」 五木ひろし

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謡曲の転換期に登場した歌

 

 山口洋子(写真下)がこの詞を書いたのは1971年。
 昭和歌謡の転換期であった。

 

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 この年、南沙織小柳ルミ子天地真理がデビューし、フォーク畑のミュージシャンたちが、『戦争を知らない子供たち』や、『花嫁』などをヒットさせ、阿久悠が『また逢う日まで』や『ざんげの値打もない』などの新しい歌謡をつくり、その翌年には吉田拓郎が『結婚しようよ』、『旅の宿』などのヒットを飛ばすようになっていた。

 

 そんな歌謡シーンが変化していくなかで、『よこはま・たそがれ』に使われる言葉は、聞いている方が恥ずかしくなるくらい古かった。

 

 徹頭徹尾、当時の若者が辟易とする陳腐な演歌調の単語だけで構成されていたのだ。

 

 なのに、それらの単語の使用を名詞だけにとどめ、ぶつぶつとコマ切れに並べていくことで、まったく新しい情緒が生まれていた。それは、どのような若手シンガーソングライターの作る歌詞よりも新鮮だった。

 

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 後に聞いた話では、山口洋子は、歴代の歌謡曲で使われた歌詞のなかで「もっとも陳腐な言葉」として批判されていた言葉を、あえて拾い集めてつなげてみたのだという。
 
 だが、それらの陳腐な言葉は、ぶつぶつとコマ切れに並べられることによって、単語と単語の間に<余白>を生み出した。

 
 この<余白>のところに、歌でうたわれた情景が濃密に滴り落ち、それが “見えない言葉” となって、歌全体に複雑な陰影を与えることになった。 

 

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見事に「物語」を構成している歌詞
 
 一番の歌詞。


 よこはま たそがれ ホテルの小部屋
 くちづけ 残り香 煙草のけむり
 ブルース 口笛 女の涙

 

 ここには、濃密な情事の後の匂いが立ち込めている。
 
 情事がどのようなものであったかは一切描かれていないのに、女の体から離れた男の冷めた動作が浮かび上がり、快楽の余韻を体にとどめながら、別離の予感に打ちひしがれる女の未練が立ち昇ってくる。

 

 そのような “情感” は、「くちづけ」、「残り香」、「煙草のけむり」、「ブルース」、「口笛」といった単語と単語の<余白>に、歌われない言葉として描き込まれているのだ。

 

 その情感を、一言でいえば、切ないアンニュイ(もの憂さ)。
 生命を燃焼させた情事の終わりに二人を襲うものは、本来は満ち足りたアンニュイであるはずなのに、ここで女が感じているのは、もの憂い感情の底をひたひたと浸す別離の切なさである。

 
 それが、さばさばした男の所作と対照的に描かれているから、よけい悲しい。

 

さまよい出す女
 
 二番の歌詞は、

 裏町 スナック 酔えないお酒
 ゆきずり 嘘つき 気まぐれ男
 あてない 恋唄 流しのギター

 

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 おそらく、男が去ってから、もの憂くベッドから立ち上がった女は、ホテルを出ても家に戻る気になれず、街をさまよい歩いたのだろう。
 
 「裏町」、「スナック」、「流しのギター」
 いかにも、今は廃れた “昭和” の情景が続く。

 

 ここでは、男がどんな男であったのかが、「嘘つき」、「気まぐれ男」という言葉から伝わってくる。 

 

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 三番は、


 木枯らし 想い出 グレーのコート
 あきらめ 水色 つめたい夜明け
 海鳴り 燈台 1羽のかもめ

 

 女は結局、裏町のスナックを渡り歩いて飲み明かしたわけだ。

 

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ホテルに戻って朝のカモメを眺める

 

 そして、夜明けに、男と別れたホテルの前まで戻る。
 そこに、男のよすがを求めて。

 

 しかし、目の前に広がる光景は、木枯らしが吹き、海鳴りがとどろく冷たい海。
 一棟の燈台と一羽のかもめには、一人ぽつんと置き去りにされた女の孤独感が投影されている。

 

 たそがれから明け方までの、半日にわたる女のドラマは、こうして幕を閉じる。

 

 この歌が、いまの若い人たちにどう聞こえるのか、私には分からない。
 たぶん、「いかにも昭和臭い歌だ」と敬遠されるのだろう。
 それでいいと思う。

 

 流行歌は、「個人史」だと思っている。
 「個人史」は、他人が読んでも面白くない。
 本人だけに意味がある。

 
 私にとっては、自分の半生を綴るよりも、これらの歌を記憶の中から引きずり出して味わうことが、大事な「個人史」なのだ。