マスコミでは、ピエール瀧がコカインを使用して逮捕されたという報道でにぎわっている。
逮捕されたため、彼が出演している作品が “お蔵入り” になったり、撮り貯めしていた作品を修正しなければならなかったりと、いろいろ大変な問題が出てきているようだ。
そのことによる被害総額は何十億円にものぼるという試算も出ていた。
ピエール瀧が出演した作品には罪はない
しかし、朝日新聞の社説でも取り上げられていたが、ピエール瀧の犯した犯罪には厳罰を科さなければならないことは明白だが、出演していた作品まで断罪するというのは行き過ぎではなかろうか、という見方もある。
そういう見方にもうなづける。
映画やドラマなどに携わっていた人々にとっては、自分たちのそれまでの努力が、ピエール瀧の不始末によって葬り去られるというのは無念であろう。
そういう人たちは、ピエール瀧のことを恨むだろうから、そこにはドロドロした負の連鎖しか生まれない。
そうなると、世の中は殺伐としてくるだろう。
なぜ彼はコカインなどに手を出したのか?
それにしても … である。
バンド活動を順調にこなし、役者や声優として世間の賞賛も浴び、今後さらに明るい未来が待っていそうなピエール瀧が、なぜコカインなどに手を出したのか?
それが謎である。
海外で音楽活動をしたときに、向こうのミュージシャン仲間に誘われ、警戒心もなく手を出してしまったことがきっかけになったのでは? … という人もいる。
コカインというのは、覚醒剤などと比べると持続時間は短く、切れても禁断症状が出にくいため、使用しても発覚しづらいという計算があったのではないかという人もいる。
そういうことがどれだけ正確な情報なのか、私にはよく分からないが、少なくても、ピエール瀧が薬物を使って “現実逃避” をしたがっていたということだけは確かだ。
彼は、何から逃げたかったのか?
“からっぽの自分” から逃げたかったのだ。
おそらく、彼は、自分の「心の中」には何もないことが分かっていた。
コカイン吸引事件の後、ピエール瀧がいろいろなメディアから取材を受けていた過去のシーンが連続して放映された。
若い頃から現在まで、彼のイベントの場での挨拶やインタビュー時のトークなどが次々と繰り返された。
内面のないタレント
それを漫然と見ていたときに、ひとつ判ったことがある。
「この人は、自分というものを持っていない人なんだ !」
しゃべっているときの表情、トークの内容。
自己韜晦(じことうかい)が多すぎるのだ。
記者たちの質問が自分の核心に触れそうになると、必ずヘラヘラと笑って、人を煙に巻く。
自信がないことを人に悟られないように、余裕たっぷりの笑顔で自分の経歴を語るのだけれど、発言を支える「確固たる自己」がないことへの不安感が、ぎこちない照れ笑いの形をとっている。
その自信のなさは、「ピエール瀧」という芸名に落ち着くまでに、なんと4度も名前を変えていることからも分かる。
「畳三郎」
「ピエール畳」
「ジョルジュ・F・ピエール三世」
「ポンチョ瀧」
…… (Wikipedia より)
仕事を確立させるために、必死になって改名したという感じではない。
生き方への迷いを吹っ切れない弱さが、芸名を決めかねているのだ。
「やりたいことがない」ままバンド活動を始め、さほどの決意もないまま役者になり、いつのまにか人気ドラマやNHKの大河で重要な役をこなすようになったが、その中心となるべきところには、いつも “自分” がいなかった。
それをプロデューサーも、監督も、共演者も、マネージャーも、事務所も、そして観客も視聴者も、誰一人見抜けなかった。
誰もがあの「顔」の存在感に騙された
すべては、あの「顔」のせいである。
悪役でも、嫌われ役でも、ひとたびピエール瀧が登場すると、セリフをしゃべらないうちから、観客は「こいつが悪役だ」と納得してしまう。
あれほど、存在感の強い「顔」を持つ役者はほかにいない。
究極の悪役顔だからこそ、逆に、真面目一徹の職人役などがピタリとハマる。
セリフ以上にモノを語る「顔」。
その「顔」の奥には “確固たる自己がない” ということを、当のピエール瀧がいちばん分かっていた。
コカインによるいっときの高揚感だけが、からっぽの心に、「ピエール瀧」という幻想の人格を呼び寄せたのだろう。
彼は「マルチタレント」といわれた。
ミュージシャンも役者も声優も、何でもこなした。
しかし、「何でもこなした」ということは、言葉を変えていえば、何一つ本物ではなかったということである。
コカインだけが、その空しさから目を逸らす逃避行を助けたのかもしれない。