映画批評
是枝裕和『空気人形』
2009年に公開された是枝裕和監督の『空気人形』。
10年前の作品だが、DVDを借りて、やっと観ることができた。
「空気人形」、すなわちラブドール。
なにしろ、自分には変態的なところがあって、この「ラブドール(高規格型ダッチワイフ)」というものに、昔からちょっと関心があるのだ。
もちろん買ったことはない (高い ! そしてカミさんに誤解される)。
カタログを取り寄せたこともない。
でも、ときどきネットで、そういう商品を開発している会社のHPを無心に眺めたりすることがある。
でも、エロスを求める … ってのと、ちょっと違うんだなぁ。
“物” と交信することへのアブナイ期待 ?? つぅか … 。
相手はただの無機質な「玩具」なんだけど、話しかけているうちに、自分の脳内に「交信回路」が生まれて、玩具との「会話」が始まるんじゃないかという妄想。
そういう妄想の誘惑に勝てないことがあるのだ。
だから『空気人形』という映画には、封切り時から興味があった。
で、観ていて、
「あ、これは俺の思い描いていたとおりの映画だな」
と思った。
なにしろ、人形が「心」を獲得して、人間に語りかけてくるのだから。
言ってしまえば、メルヘン。
メルヘンというのは、
「人形が意識を持つことの科学的な根拠が乏しい」
… なんていう突っこみを “無用とする” ジャンルだから、観客はノーテンキに画面の流れに身を任せていればいいのだけれど、創る方は大変だろうな。
手を抜くと、「荒唐無稽じゃねぇか」とか突っ込まれるからね。
突っ込まれないメルヘンに仕立てるには、やっぱり創り手に「美意識」が要求される。
この映画は、そこでまず成功している。
あらすじをひと言でいうと、中年独身男の性欲の “はけ口” として買われたダッチワイフ(空気人形)が、あるとき「意識」と「運動能力」を獲得し、持ち主が仕事に出ている昼間に勝手に家を飛び出し、いろいろな人に会うという話。
そして、出会う人たちの「心」触れるうちに、体の中には空気しか入っていない人形にも人間が持つ「心」というものが、次第に形を取り始める。
すでに幾多の苦渋を経験している人間たちの「心」は幾重にもガードがかけられ、屈折している。
しかし、生まれたばっかりの人形の「心」は屈折を知らない。
彼女には、人間たちの「心」の奥深いところに隠された悲嘆も、悔恨も、憎悪も見えない。
彼女は、出会う人たちに、みな無垢な自分の姿を投影する。
出会う光景にも、新鮮な驚きを感じる。
太陽はどこまでも暖かく、優しい。
道ばたの花は、限りなく美しく、愛らしい。
▲ 空気人形のぎこちなさと愛らしさを見事に演じたぺ・ドゥナ
そんな真っ白な人形の「心」に、あるときインクのシミが一滴だけこぼれ落ちる。
ある青年に恋心を抱くことによって、彼女の「心」に、はじめて痛みが走ったのだ。
彼女が好きになった青年には、かつて愛した人間の女性がいるらしい。
「まだ、その人のことが好きなのだろうか ?」
「自分はやっぱり代用品(ダッチワイフ)に過ぎないのだろうか ?」
「あの人は、私の正体を知ったら逃げ出すだろうか ?」
人形は、はじめて心にも「痛み」があることを知るようになる。
ま、そこで、その人形が接する人たちのサブドラマが展開されるわけだけど、みんな何かしらの屈折した心情を抱えているんだよね。
それは、「人生相談」以前の取るに足らない悩みだったり、煩悩だったりするんだけど、その人たちにしてみれば、その “取るに足らない悩み” が、けっこう「やるせない人生」としてのしかかっているわけ。
純度100%のイノセンスに輝いていた人形の「心」にも、次第に人間というものが抱え込んでしまう「やるせない人生」がひたひたと足元を浸していく。
そして、人形は、「心」を持つことは「孤独」を知ることだということを理解するようになる。
「私は、 その『孤独』を理解してくれる伴侶を持つことが出来るのだろうか …… 」
後半は、そういうドラマなんだね。
で、伴侶であってほしい青年を、彼女はなくしてしまう。
なんで、なくしたのか … ということは、この映画のカギだから、ここでは書かない。
▲ 空気が抜けてしまうと、ただのビニールの塊り
薄幸の人形は、最後に、自ら「燃えないゴミ」になることを選ぶ瞬間、まるで『マッチ売りの少女』のような夢を見る。
自分に関わったすべての人たちが、「ハッピーバースデー」の歌を唄いながら、人形の最初の誕生日を祝ってくれるのだ。
人形が「心を持った人間」であることを、みんなが認めてくれた最初で最後の晩。
それは、あくまでも一瞬の幻想にすぎないが、彼女にとっては自分の周りにいた人たちに祝福される唯一のシーンなのである。
概要を語るのはこれでとどめるけれど、何が印象的かというと、全編に漂っている「透明な空気感」。
もうこれだけ!
それがすべて。
舞台として選ばれた東京・隅田川寄りにある湊公園のシュールな空虚感。
高層ビルと、うらさびれたアパート街が雑居した光景のかもし出す淡い寂寥感。
それらの生命力が乏しそうな空気感が、逆に中身が「空気」でしかない人形をそっと抱きすくめて守っている。
まるで、「人間の厚かましさ」を除去した静かな街の空気だけが、人形のかぼそい「生命」を支えているという感じで、なんとなく切ない。
「爽やかで、明るい、さびしさ」
強いていえば、そんな空気が流れる風景が随所に挿入される。
♪ 街のはずれの背伸びした路地。
がらんとした防波堤には、緋色の帆を掲げた都市が停泊し、
摩天楼(まてんろう)の衣ずれが、舗道をひたす。
この映画の画像をずっと追っているうちに、はっぴいえんどの『風をあつめて』という曲が脳裏に浮かんだ。
はっぴいえんど 『 風をあつめて』