絵画・歴史批評
ナチス芸術の空虚さとメランコリー
ナチス・ドイツの悪名高き総統アドルフ・ヒットラーが、もし青年時代に夢みていたとおり、「画家」としての人生を歩んでいたら、20世紀の歴史はどう変わっていただろうか。
それは、現代史に関心を持つ多くの人々が一度は考えた「歴史上の I F 」であるかもしれない。
実際に、ヒットラーが画家になることを目指し、ウィーンに赴いて熱心に絵を描いていたことは、あまりにも有名な話である。
このとき、彼が残した絵画は700点。水彩のようなものを含めると2,000点から3,000点ぐらいに及ぶのではないかと推測されている。
しかし、それほどの作品数を数えながらも、彼は美術学校を受験しても合格することがなかった。
その理由は、「風景画ばかりで、人間を描いたものが極端に少なかった」とされているが、要は “才能がなかった” ということだけなのかもしれない。
▼ 画学生時代にヒットラーが描いたとされる 「山の風景」 (1936年)
ヒットラーは、自信満々で受けた美術学校の試験に落ちて入学を拒絶されたことを、のちに『わが闘争』において「晴天の霹靂(へきれき)だった」と書いている。
その一言からも、彼が自信満々の野心家であったことが推測される。
美術への挫折が、ナチス党結成に向かう
画家になる夢を打ち砕かれたヒットラーは、自分の内に燃え盛る表現衝動を、政治活動と文筆に向けた。
そして、それが政治活動へのめり込んでいくきっかけを彼に与え、やがて “20世紀の悪夢” が始まるわけだが、美術を偏愛する彼の欲望は、ナチスの総統になってからも鎮まることはなかった。
実際、ナチスの幹部には、ヒットラー、ゲーリングをはじめ、ルドルフ・ヘス、ヒムラーなどの “美術愛好家” が多く、戦争は、彼らの美術品収集の趣味を満足させる手段だったかのような印象さえ受ける。
彼らがかき集めた美術品は、ヨーロッパ各国の美術品の5分の1にも及ぶとされたが、その多くは、ナチス党幹部の私的所有物にされるか、秘匿されるか、軍事費調達のために売られるかして散逸してしまったといわれている。
ナチスから美術品を守る人たちとの駆け引きも熾烈をきわめ、その経緯(いきさつ)は、ドキュメンタリー映画をはじめ、実話や虚構を交えた数々の映画のテーマともなった。
『ミケランジェロの暗号』、『大列車作戦』などは、その代表作といえるだろう。
しかし、美術好きであったナチス幹部たちには、奇妙な偏向があった。
それは、徹底した「近代美術ぎらい」という傾向である。
彼らは、20世紀になって台頭してきた新しい絵画の潮流をことごとく否定した。
特に、キルヒナー、ノルデのような表現主義的な絵画を、蛇蝎(だかつ)のごとく嫌悪した。
▼ エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー『月明かりの冬景色』。ナチスはこの絵を「歪んだフォルムと毒々しい色にまみれた野蛮な絵」 として非難した。
それだけでなく、モジリアーニ、ピカソ、シャガール、パウル・クレー、ゴーギャン、ゴッホといった、「近代絵画」を支えるビッグネームの作品まで嫌ったというから、ナチス幹部の “美術品好き” というのが、いかに奇妙なバイアスのかかったものであったかということが分かる。
近代絵画に対する呪詛 「頽廃芸術展」
彼らは、近代アートの何を嫌ったのだろうか。
「頽廃的(たいはいてき)だからだ」という。
その多くは、彼らに言わせると、
「不健全で、病的で、背徳的で、刹那的であり、そのまま放置すると、ドイツ人の倫理感や美意識が損なわれる」
ということだったらしい。
そして、ナチスは1930年代後半、そのようなアートを非難して嘲弄するための「頽廃芸術展」をわざと公開する。
これは、実は、一部のドイツ人の共感を呼んだ。
“近代ドイツ人” といっても、すべての人々が「近代アート」という新しい潮流を好んだわけではない。
たとえば、下のノルデの描くキリスト像などは、古典的な宗教画しか知らない素朴な民衆の目から見れば、敬虔な「キリスト教」を冒涜するものだと映った可能性もあり、すべての人が、ナチスの “美意識” を歪んだものだと受け止めたわけでもなさそうだ。
▼ エミール・ノルデ 「昇天」
ナチスの呪詛の対象は、「爛熟した都市文化」に向かった。
彼らが嫌ったのは、何よりも、消費都市の無秩序と、狂騒と、刹那的な享楽であった。
だから、それをそのまま描いたようなゲオルグ・グロスの『メトロポリス』(下)のような作品が、真っ先に “目の敵(めのかたき)” にされた。
都市文化は、ナチスから見れば、“大地に根ざす伝統的なドイツ文化” を崩壊させるものであり、人々に軽佻浮薄な精神を植えつけ、堕落と頽廃へ誘うものとされた。
こういうナチス的な “倫理観” が生まれる背景には、第一次世界大戦後のドイツに誕生した「ワイマール共和国」への反発があったかもしれない。
ワイマール共和国が成立した時代というのは、確かに、芸術運動としてのダダイズムや表現主義、デザイン運動としてのバウハウス、さらに医学・思想的な運動としての精神分析学など、20世紀を代表する文化が一気に花開いた時代ではあったが、一方では、大戦の重圧から解放された人々の享楽主義、刹那主義がはびこった時代でもあった。
戦争によって心の傷を受けた人々の “やけっぱちな快楽主義” が容認され、街にはキャバレーや娼館があふれ、倒錯的な性文化も蔓延した。
この時代の雰囲気は、ライザ・ミネリが主演した映画『キャバレー』や、ヴィスコンティ監督の『地獄へ落ちた勇者ども』を見ると、よく伝わってくる。
▼ 映画 『キャバレー』 (1971年)
そのような “頽廃した都市文化” を憂う民衆も確かに存在したわけで、ナチスはそれらの声をたくみに利用した。
「不健全なワイマール文化は、戦勝国の英米政府とユダヤ財閥という黒幕によってもたらされたものだ」
と、ナチス党員が訴えれば、それに賛同する国民も多くいたのである。
農村共同体の倫理こそナチス思想の基盤
基本的に、ナチス思想というのは、農村文化に根ざしている。
農業もしくは牧畜業こそ、原始ゲルマンの時代からドイツ民族の “崇高なる精神” を養う基幹産業であるという意識が彼らにはあった。
ナチス・ドイツというと、フォルクスワーゲンのような自動車産業にも力を入れ、アウトバーンの建設も力を注いだことから、近代都市構想を推進した政権という印象が強いが、アウトバーンの発想の元になったのは、むしろ、地方農業を推進させるために、遠く離れた土地と土地を有機的につなげるためのものだったといわれる。
確かに、ヒットラーは「ベルリン改造構想(ゲルマニア計画)」なるものを持っていた。
彼は、古代ローマ都市の復活を意図したかのような巨大ドームや凱旋門の建築を、建築家のアルベルト・シュペーアなどと進めていたが、それは巨大モニュメントを主体とした “劇場都市” といったもので、都市が不可避的に抱え込む混沌や猥雑さはそこからは排除されていた。
都市は、あくまでもナチスにとって、民族の団結力と国力の誇示を表現するための象徴空間にすぎなかったといえる。
▼ 「ゲルマニア計画」のために模型化された巨大ドーム
このような「脱都市化」と「農村美化」は、ナチスの精神構造だけに限定されるものではなく、もともとゲルマン人の内陸的な性格によるものといっていい。
ほの暗い森と、その隙間に生まれるわずかな農耕地を生活基盤として暮らしてきたゲルマン人にとって、先祖代々から伝わる “大地” こそ自分たちの精神をはぐくむ場所であり、それを守ることが戦士としての男の義務であり、その戦士を産み育てることが、女の責務であった。
このような精神構造は、海洋交易を発展させてきたラテン人やアングロ・サクソン人の思想とは相容れない。
英米の資本主義文化を強く反映したワイマール共和国に対するナチスの嫌悪は、原始ゲルマン世界に郷愁を抱くドイツ国民にも通じ合うところがあったのかもしれない。
ユダヤ嫌いの本当の理由
農耕体質を持つゲルマン人にとって、海洋交易で鍛えられたラテン人やアングロ・サクソン人は、ゲルマン人から見ると、確かに自分たちとは異質な民族に思えたが、彼らにとってもっと “狡猾で信用できない民族” がユダヤ人であった。
ユダヤ人は、イスラエルという国家を持つまで世界中に分散しており、当然ドイツにも多数のユダヤ人が生活していた。
彼らは、ヨーロッパ社会で数々の排斥を受けた経験上、どこの国でも手っ取り早く商売を始められる金融業に手を染めることが多かった。
それは、「金貸し業」というものが、どこの社会においても忌み嫌われる傾向にあったため、成り手も少なく、新参者でも比較的手を出しやすい業種だったからである。
ナチスが政権を取った時代には、ドイツではユダヤ系の金融資本が大いに成長しており、ドイツの工業化は、そのユダヤ資本によって進められる傾向があった。
ナチスはそのユダヤ資本を強奪する方法を思いつく。
それこそが、「商人に嫌悪感を抱く、ドイツ人の農村共同体的な感情」を刺激することだった。
それには、
「ユダヤ人が運営する都市工業社会が、農村部から若いドイツ人男女を徴発し、地方産業を疲弊させている」
と訴えればよかった。
ここから、あの悪名高きナチスの “ユダヤ人狩り” が始まる。
ナチス芸術が目指したもの
彼らが推進したユダヤ人排斥運動は、先ほどの「頽廃美術展」にも反映されている。
「頽廃美術展」に作品を提示させられた画家の中にはユダヤ人も多かったが、ユダヤ人以外の画家が描いた絵においても、「ユダヤ的だ」という理由がつけば、それは頽廃芸術と見なされた。
ナチスは、徹底して、「頽廃」「背徳」「病的」「不健康」というイメージをユダヤ的なものに重ね合わせた。
また、それを政策として訴えるには、視覚効果の高い絵画を利用するのが手っ取り早いという計算も働かせていた。
では、「頽廃芸術」とは逆に、ナチスが推奨した芸術とはどんなものだったのだろうか。
近代アートに「頽廃性」を見出したナチス幹部は、それとは逆の、古典主義的な規範を持った美術に、自らの理想を託した。
具体的にいえば、ギリシャ的なものへの回帰である。
健全な肉体美をおおらかに称えるギリシャ彫刻に、彼らはユダヤ・キリスト教的な文化に “侵される” 前の「原始アーリア人」の “美” を見出した。
それは、レリーフでいえば、下のアルノ・ブレーカーの『勝者の出発』のような作品に代表される。
しかし、このレリーフには、どこか古典ギリシャ彫刻に見られる格調の高さがない。
何かが欠けているか、あるいは、何かが過剰になっている。
欠けているのは、美に対する純粋な追求心であり、過剰なのは、政治的プロパガンダを意識した “作為” だ。
「健全な魂は、健全な肉体に宿る」という理念を訴えるために、ことさら「強靭な肉体」や「戦闘的な意志」が強調されているが、そこには、きわめて政治的な意図も見え隠れしている。
なぜナチスは裸婦像を好んだのか
ナチス美術の特徴は、さらに女性の裸婦像を見たときに、より鮮明に浮かび上がってくる。
ナチス幹部は、裸体画を好んだ。
なぜなら、それこそが、ギリシャ彫刻のような “健全な肉体美” を訴える格好の素材であったし、近代アートを理解できない大衆に対して、見慣れた画像を与えて安心させる効果があると考えたからだ。
しかし、その裸婦像にも、何か奇妙な空気が漂っている。
上のヨハン・シュルトの描く『人生の春』は、そのタイトルに反して、なぜかはつらつとした勢いに乏しく、どこか物憂い。
古典絵画というよりも、彼らが嫌うアメリカ文化に登場するピンナップガールのようなチープなエロスが臭ってくる。
下は、イーヴォ・ザリガーの『ディアナの休息』。
ディアナはギリシャ・ローマ神話の「狩りの女神」だから、古典美術に範を求めるナチス美学のニーズに、見事にかなったテーマといえるだろう。
だけど、この絵にもやはり奇妙な違和感が漂う。
早い話、野暮ったいのだ。
これは、古典絵画の舞台を使いながらも、(当時の)現代ドイツ女性をそのまま押し込めただけの絵といっていい。
いわば、古典の規範と現代風俗を安易に結合させた野暮ったさがどうしても拭いきれない。
画家が手を抜いたわけではない。
むしろ、野暮ったさにこそ、ナチスの政治宣伝が塗り込められていると見るべきだろう。
一言でいえば、これは近代ドイツの農婦たちである。
ドイツ人の魂である「農村共同体」を支える女たちなのだ。
つまり、アルノ・ブレーカーのレリーフに登場するような男、すなわち日頃は農作業にいそしみ、戦時においては戦士として勇敢に戦う男たちの「母」なのである。
女性を “道具” と見なす家族観
このような絵画から、ナチスの「家族観」というものも読み取れるだろう。
それは徹底的に、ホモソーシャルな世界観に基づいている。
ホモソーシャルな世界とは、「女性を排除した男同士の社会」を指す。
“女性嫌い” という意味ではない。
女性を、「戦士を産むための道具」、「男の性欲を満たすための道具」と見なす思想をいう。
ナチス好みの裸婦像に登場する人物が、みな空虚なメランコリーを湛えて(たたえて)いるのは、彼女たちが、「男の性欲と生殖の道具」と見なされることに抵抗する気力を失っているからだ。
そして、それこそが、ナチス的な男たちの思い描く “女性美” であったかもしれない。
そのことを、さらに端的に物語るのが下の絵。
これは、ヒットラーに最も高く評価された画家といわれたアドルフ・ツィーグラーの「裸婦」である。
少女であることを思わせる小さな乳房。そして、ヘアリボン。
一目見ただけで、ロリータ趣味の男を喜ばせるアイコンが散りばめられていることが分かる。
それでいて、この女性の首周りと乳房の下には、成熟した女性が見せるような “たるみ” がリアルに浮かんでいる。
実に倒錯的なわいせつさに満ちた絵である。
このような絵画を愛好したナチス幹部の心情の方が、彼らが排斥した「頽廃芸術」よりも、さらに淫靡(いんび)で頽廃的であることはいうまでもない。
ナチス幹部の歪んだ性嗜好を映画として表現したものに、リリアーナ・カヴァーニ監督が撮った『愛の嵐』(1973年)がある。
ここでは、強制収容所に入れられた少女(シャーロット・ランプリング)が、ナチス幹部を喜ばせる余興として、ナチの軍帽をかぶり、サスペンダーで吊ったズボン姿で歌わされるシーンが出てくる。
痩せた肢体に、貧しい乳房。
しかし、それがゆえに、逆に際立ってくる倒錯的なエロス。
それはまさに、先ほどのアドルフ・ツィーグラーの描く「裸婦」とぴたりと重なる。
「健全な肉体美」を標榜していたはずのナチス芸術が、実は、もっとも淫靡であったということは、ヒットラーやその側近たちの計算違いだったのだろうか。
それとも、それこそが、彼らの求めていたものだったのだろうか。