アートと文藝のCafe

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書きたい原稿があったら今すぐ書け!

 
  堀井憲一郎さんの

『今すぐ書け、の文章法』 

 

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すぐに書けないものに、
面白いものがあった試しはない
 
 コラムニストとして、数々の名文を残している堀井憲一郎さんが、2011年に発表した文章読本の決定版。
 私などは、昔これを読んで、かなり勉強させてもらったものだ。

 

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 「いますぐ書け!」
 というのは、「定年退職を向かえ、時間ができたら、自己表現としての自分の半生記でも 」などと考えているような人たちに向かって、「いますぐ書け!」と言っていると思えばいい。
 
 つまり、そんな余裕をもって書こうとした文章に、面白いものがあったためしがない というアイロニーが、このタイトルには込められている。
 
 プロは、誰でも「いますぐ書いている」。
 締め切りに追われて、「いますぐ書かざるを得ない」。
 
 だから、このタイトルは、アマチュアの文章書きに向かって、「プロってのは、こういうものなんだよ」ということも伝えようとしている。

 
文章の面白さを決めるのは
人へのサービス精神

 

 では、堀井さんのような文章を書くコツとして、何がいちばん大事か?
 それは次のようなものだ。
 
 「文章を書くことの根本精神はサービスにある。サービスだと捉えられていた人だけが、お金を取れる文章を書けるようになる。
 サービスとは、“読んでいる人のことを、いつも考えていること” である。
 “文章を書く技術さえあれば、何とかプロの一角にもぐりこめるんじゃないだろうか” と思っている人が多いだろうが、大きな間違いだ。
 プロの一角に食い込めるのは “文章を書くことがほんとうにサービスだと思っている人” だけである」
 
 これがすべてである。
 この本に書かれていることは、基本的にこのメッセージの変奏曲にすぎない。

 
 
 「サービス」という言葉の意味を分かりやすくいえば、それは読者に「笑ってもらうこと」だ。
 決して、「心を打たれた!」「感銘を受けた!」「世界の構造を分析する新しい視野が獲得できた!」 ではない。
 でも、「笑えた!」は、そのすべてを含む。
 堀井さんは、そう言おうとしている。

 
 
 「プロになる」ことは、けっこう厳しい。
 要は、「お金をもらうこと」であるから、時には、自分の意に沿わないことも書かねばならない。
 「だったらアマチュアのままでいい」と思う人も多いだろう。
 しかし、堀井さんは、「自分の意に沿わない」と思う心こそ “読者” というものを考えたことのない人の発想だと言い切る。

 
 
 「アマチュアが文章を書いているときに設定している読者は、“きちんと読んでくれる読者” ですね。自分の意図に沿って読んでくれて、好意的に同調してくれる読者。
 しかし、それは読者とは言わない。自分の考えの反射でしかない」
 
 で、彼は、次のように続ける。

 
読者とは我がままで身勝手な人間のこと
 
 「雑誌を書くライターが想定しているのは “きわめて不親切な読者” である。
 私個人に興味などなく、私の書いたものを読もうとして雑誌を手に取ったわけではなく、たまたま偶然、私の文章を目にした読者。
 それが “プロの物書きが想定する基本読者” である。
 だから、文章書きの資質は、“さほど熱心でない読者をこちらに振り向かせる工夫が好きかどうか” で決まる。
 それが面倒くさいのなら、文章書きは目指さない方がいい」

 
   
 もちろん、人が何をどう書こうが、それは個人の勝手である。
 特に、ブログのように、別にお金をもらうわけでもない文章は、書き手の自分が気持ちいいままに書いたとしても、誰からも文句をいわれる筋合いはない。
 しかし、読者は得られない。
 「読者」の前に「多くの」という言葉をつければ、なおのこと正確かもしれない。
 
公的な立場に立った
社会的な発言は最悪の文章

 

 自分だけが気持ちよくなる文章の典型として、堀井さんは、「社会的な発言」という例を出す。
 
 「人さまに見られる文章を意識したとき、雑誌であれ、社内報であれ、新聞の投書欄であれ、人はいきなり社会的価値のあることを発言しようとし始める。“公” の立場に立って、人さまに間違いを指摘する存在と化す。

 いわく
 “ 現政権の場当たり的な政策はまさに憂慮すべきものである ”
 “ 地球環境を考えたとき、我々のとる行動はもっと自覚的であらねばならない ”
 “ 教育制度はまさに破綻し始めており、もっと現場の声を教育政策に反映せねばなるまい ”
 等々等々等々等々。

 こういう “社会的発言” こそが、文章を書くときの『敵』である。
 たぶん言っている本人はすごく高いところから発言していて気持ちいいんだろうけれど、でもそんなところからは人を動かす何かは絶対に生まれてこない」
 

 
 ま、耳が痛いよね。
 でも、自戒の意味も込めて、もう少し引用しよう。
 
 「公的な立場から話すと、何の迷いもなく立場を明確にできる。楽である。
 そう、公的な話題を選ぶというのは、ラクしてるのよ、あなた。
 社会正義は、とにかく人をげんなりさせる。社会正義を語るのは “逃げ” である。
 人は “他人の意見” なんか聞きたくない。聞きたいのは “他人のお話” だけである」
 

読者が読みたいのは、作者が
“血を流した” ときの体験記だ
 
 ここで、「他人のお話」と書いてあるところは、きわめて重要。
 つまり、他人の体験。
 書いた人が自分の “身体” を使って感じたこと、眺めたこと、驚いたこと、感心したこと、怖い思いをしたこと。
 それだけが、読者の興味をつなぎとめる。
 そういうことを、彼は言いたいのである。
 
 また、引用。
 
 「(社会正義を語るような)頭の中で発想したものは、自分なりに理路整然としていて、考えている当人にとってはとても気持ちがいい。
 でもその気持よさは “先人が開拓してくれた道” を苦労せずに歩んでいる心地よさである。
 それはふつう、“手垢にまみれた発想” と呼ばれる」

 
 堀井さんに言わせると、
 「事件は必ず身体に起こります。頭の中では起こりません。
 頭が制御して到達しようとしている世界は、なぜか “標準” です。
 頭は、ほうっておくと標準をめざす。頭はとにかく “みんなと共有できる部分をどれだけ増やすか” という訓練ばかりさせられてきたからですね。
 標準はわかりやすい。見ていて安心する。そのかわり、どこにも個性はない」
 


 まぁ、さっきから同じことを繰り返しているわけだけれど、この本はそういう本なのである。
 反復、繰り返し、言い換え。
 結局、同じような内容なのだけど、語り口の変化で、最後まで読ませようという本だ。
 
 こういうのを「洗脳」という。
 
 だけど、この「洗脳」は信じよう。なんだか面白い文章を書く能力が備わってきそうに思えるからだ。
 
 彼はいう。
 
 「では、どういう文章を人は面白いと思うのか。
 “知らなかったことを知る”
 そのとき、人は面白いと思う。
 知らなかったことを知ったとき、人は(自分の)何かが変わった感じがする」

 
読者は、
自分が変わることを求めている
 
 ここは大事なところかもしれない。
 確かに、「自分の何かが変わったと感じる」というのは、人にとって快感だ。
 退屈な日常生活が続くなかで、小さな変化が起きる。
 それは、明日につながる元気をもらうことになる。
 
 で、堀井さんは、「小さな変化でいい」という。
 
 「( 読者に変化を与えるというと)、まるでフランスの啓蒙思想社会主義の革命思想につながりそうな壮大な言葉に聞こえるけれど、もっと細かいことでいい、細かいことの方が、人を変えやすい。
 “唐揚げを簡単においしく揚げる方法”  でいいのである。
 それで唐揚げを画期的に手際よく揚げられる人が出たら、誰も読んでくれない高邁な自己完結型の革命論よりはるかに価値がある。
 簡単な唐揚げの方法には、実際に作った人の説得力がある。
 頭の中で考えられた精密なる理想的革命論には、身体性がない。それでは人を動かせない」
 
 名エッセイというのは、その人を変える要素を心地よい文章でくるんであって、その、底に沈んだ尖った部分をストレートに感じないように仕上げてある。その装いのさりげなさに凄みがあるのだ」
 
 
作者の “熱” は必ず読者を興奮させる
 
 なるほどね。
 椎名誠なんかのエッセイとかも、結局、「ビールを飲むときは、どんな仲間がいいか」みたいな話ばっかりだもんな。
 そこで、さりげなく描かれる人間観察が、けっこうある読者にとっては「哲学」になっていたりするんだよね。
 
 では、どんなことから書き始めればいいのか。
 
 「人に話していて楽しいこと、自分が好きなもの、そこから始めるのがよろしい。
 そのときに発する熱が一種異様さを帯びると、その対象に興味がない人も惹きつける。
 それは、その、話している内容や対象物ではなく、話している当の本人の熱情が異様で面白く、その熱を感じて、人が寄ってくるのだ」

 
 
 最後に、「オリジナリティ」というものが何であるか。
 自分がいま、オリジナリティを発揮できるようなものに触れているのかどうか。
 それを確認するときの心構えのようなものを紹介する。
  
書くことの畏れ(おそれ)、
それがオリジナリティを生む
 
 「何か新しいことを書くとき、そこには畏れ(おそれ)があるはずだ。
 かつて誰も言ったことがないことだし、ということは自分でもそういう意見や文章は見たことがないもの、それを今から書こうとしている。
 怖くないわけがない。


 でも、そこを押し切って出ていくのが、文章を書く、ということなのだ。
 新しいことを書くときに、これはほんとうに書いてしまっていいのだろうか、という恐れを抱くのがふつうである。


 それと同時に “これはもう誰かが書いたことなのではないか” という不安も生まれる。
 何かを書くとき、常にこういう不安に駆られる。
 不安になるのが普通である。


 もし、不安を抱かなかったとしたら、それはおそらく “誰か他の人が言ったこと、すでに世間では認められている意見” を重ねて言おうとしているだけなのだ。
 常にどこかから “それは違う” という異論が出そうだと思われるものこそ、今まで書かれたことがないもの、面白さの可能性を持つものである。
 書いているものに不安を抱かないのなら、おそらくその文章は、つまらないものである」
 
 けっこう、このくだりはビビッと来た。
 
 皆さんも読んでみてください、この本。
 これは文章読本ではあるけれど、それ自体が “面白い読み物” になっている。
 もっとも、それこそが、堀井さんが目指したものなんだろうけれど。