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バブル期の「不倫」はビジネスだった

桐野夏生とは編集

 
 


文芸批評
桐野夏生 『猿の見る夢』

 

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 桐野夏生氏の話題作『猿の見る夢』(講談社 2016年)を読む。
 ある意味で、“完璧な娯楽小説” 。
 SFだとか推理モノとか、ホラーとかいうジャンルに関係なく、「娯楽小説」の定義を、「ページをめくる手が止まらなくなる小説」とするならば、これはほんとうにそのような作品である。

 
 450ページに及ぶ長編であったが、「次の展開がどうなるのか?」という興味に急き立てられるように、ほぼ2日で読了した。

 

▼ 作者・桐野夏生

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 ネタバレになっても、それで面白さが変わるような作品ではないので、簡単に概要を記すと、社会的成功を収めたサラリーマンの定年後の安定した生活と夢が、あることをきっかけにボロボロと崩れ去っていく話、といえばよいのだろうか。
 
 主人公の「薄井正明」は59歳。
 順風満帆のサラリーマン生活を送り、自分を引き立ててくれた現会長の覚えもめでたく、目の前には「次期社長」の夢もちらつき始めている。


妻と愛人を両方あやつる
やり手サラリーマン

 

 もちろん、家庭生活にも何の支障もなく、妻子も健在。
 そして、こっそりと関係を続けてきた10年来の愛人との仲も良好。
 週に1~2度は、都内の一等地にマンションを構える愛人宅に転がり込み、ワインを飲んで、愛人の手料理を味わい、セックスを楽しむ。

 

 この男、どうしたら、そんな “うまい生活” ばかり享受できたのだろうか。
 59歳にして、「還暦」、「定年」、「老後」というテーマを抱えたという年齢から考えると、この主人公は高度成長期に生まれ、バブル時代に青春を謳歌し、その流れに乗って、苦労もなく大企業に就職したという経歴が浮かんでくる。

 
40代で愛人を貫く女の私生活

 

 一方、主人公の男と週に1~2度セックスを重ねる愛人は46歳。
 彼女は、年齢的にいうと、「ジュリアナ東京」がオープンしたときに20歳を迎えたという計算になろうか。

 

 つまりは、彼女もまたバブル文化の申し子なのだ。
 だから、今でも身の回りをすべてバーキンエルメスなどのブランド品で飾り、飲む酒もシャンパンかワイン。


 本来はこじゃれたレストランで外食することが好きなのだが、愛人である男の要望を受け入れ、自分のマンションに男を招き入れて手料理でもてなしている。
 そのために、彼女は男から月3万円のお手当をもらっている。
 
 しかし、内心それだけでは足りないと思っている彼女は、主人公とケンカするたびに、「今までの関係を清算したいのなら、指1本だからね」と脅迫する。
 “指1本” とは1,000万円を意味している。
 
 もちろん、男は1,000万円など払う気持ちもなく、月に払う3万円の手当ですら高いと思っている。


セックスする女がもう一人欲しい

 

 主人公の男は、愛人のほかに、もう一人別の女性にも狙いを付けている。
 会長の秘書を務めている38歳の女性である。
 バブリー志向の愛人とは違い、野暮な性格を持った庶民派の女なのだが、体つきが肉感的であり、主人公はそこに惹かれている。

 

 そのため主人公は、彼女を言葉巧みに夜の食事に誘い出し、高級ホテルのレストランに予約を入れ、さらに肉体関係に持ち込むために、別のホテルにもダブルベッドの部屋を予約。

 

 こうして、虎視眈々と新しい女の肉体をむさぼるつもりでいたが、その作戦は見事に見破られ、けっきょくレストランでは1万8,000円のワインをがぶ飲みされ、別のホテルのルームサービスでは5万円のワインを飲み逃げされ、計15万円ほど散財してしまう。
 
 
 すべてが、この調子。
 つまり、ここに登場する中年男女のラブゲームでは、すべておカネのやりとりが恋愛の基本フォーマットを形づくっているのだ。

 

 彼らは思う。
 「愛」というあいまいなものは、言葉で語り尽せるものでもないし、ましてや「心」などといった無形のものに還元することなどできない。
 「愛」を確認するいちばん確実な方法は、おカネ。
 その額で、愛の深さも計量できる。

 

 つまり、この小説は、日本の高度成長期からバブル期において、日本の “大人の恋愛” を成立させていた背景にあったものは「おカネ」だったということを解き明かす物語なのだ。


バブル期には、なぜ不倫がもてはやされたのか?

 

 80年代から90年代のTVドラマにおいて、そして流行歌において、日本人の恋愛は不倫一色に染め上げられた。
 なぜか?
 それは、あの時代、不倫がビジネスになったからである。
 
 結婚している男女の間に広がる市場は限られてしまう。
 しかし、不倫している男女の間には、飲食サービスにおいても、プレゼント品においても、旅行先においても、より豪華に、より贅沢に、市場は無限に広がっていく。
 「不倫はカネになる」
 世の中のビジネスプランナーやマーケッターたちはそう読んだ。

 

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 バブル文化というのは、早い話、“大人の男女” にとっては不倫文化にすぎなかったといっていい。

 

 しかし、不倫にも香気が漂っていた時代が、かつてあった。
 それは、恋愛が文学と結びついていた時代だ。
 ラクロの『危険な関係』、フロベールの『ボヴァリー夫人』、トルストイの『アンナカレーニナ』、スタンダールの『赤と黒』。

 

 恋愛は、文学やその他のアートに触発されるように誕生し、男女の関係の落ち行く先も、文学やその他のアートが松明(たいまつ)となって道を照らした。

 

 しかし、第2次大戦後、大衆文化の勃興とともに、エリートたちの教養で磨かれてきた恋愛文化の通俗化が始まる。
 そして、戦後の経済成長を背景に、“恋愛の文化” のフォーマットがカネを中心に形成されていく。
 その集大成がバブル恋愛であった。


性欲がむき出しになった不倫の末路

 

 日本においては、高度成長期からバブルの時代へと進んでいく過程で、「気に入った女の子と寝るにはクリスマスイブに1泊10万円の部屋を予約し、ティファニーのペンダントをプレゼントしなければならない」といった恋愛の数量化が始まった。
 このときに、それまで不倫を支えていた文芸的な香気も同時に失われた。

 

 近年の不倫に対する世間の糾弾が激しさを増してきたのは、要するに、文芸的香気を失った不倫が、単に男女の性欲がむき出しになった貧しいものになったからにほかならない。

 

 その発端は、1980年代にある。
 この時代の若者のセックス観がどんなものであったか。

 田中康夫は、デビュー小説の『なんとなくクリスタル』(1981年)の中で、ヒロインの口を借りて、こんなことを言わせている。

 

 「私がいやだったのは、彼ら(同世代の男たち)は、深い関係になった女の子の数を友だちと争うことしか能がないという点だった。女を陥落させるゲームを友だちと競争しているに過ぎない。
 だから、ラブ・アフェアーの経験は豊富でも、彼らは余りにも貧相だった。それに、彼らは話題に乏しいときていた。女の子と車の話題を彼らから取ってしまったら、彼らには何も残らない気がした」

 

 おそらく、ここに登場する “彼ら” の40年後の姿が、この『猿の見る夢』に登場する主人公だといっていい。
 その名前も、「薄井正明」。
 (正義も明晰性も “薄い男” という皮肉がこもったような命名である)。


怪しい占い師や預言者も出現したバブル時代

 

 さて、ここで、もう一つのテーマを語らなければならない。

 80年代のバブル期に恋愛のビジネス化が始まり、愛の度合いが計量化される時代が始まったともいえるが、しかし、人間の心が合理的に計算されるようになるということは、逆にいえば、合理化・計量化できない闇の部分も広がったということでもある。

 

 恋愛がカネで取り引きされる時代というのは、カネで解決できない恋愛の<闇>も深くなるということなのだ。

 近年、恋愛トラブルが発端となった不気味なストーカー殺人が増えているのも、そのことを物語っている。

 

 また、怪しげな占い師や預言者のたぐいが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、合理的な判断を下せると思い込んでいる人々を次々とマインドコントロール下において詐欺事件を起こしたりするのも、それと同じ構造である。

 

 実は、『猿の見る夢』という小説でいちばん重要な登場人物は、途中から登場する女占い師なのである。
 悩み事を抱えている主人公の妻が、ある日自宅に招いた女占い師が、主人公の運命を変えていくのだ。

 

 世の中のすべてのことを合理的な打算でしのいできた主人公は、当然、占いなどという “まやかし” を信じない。
 しかし、実際はこの怪しげな占い師の登場を機に、彼の人生は転落を開始する。


ホラーに近づいていく結末

 

 この女占い師の登場によって、徐々に、この小説にホラーじみた空気が漂い始める。
 最後は、まさに “あの世” の扉がかすかに開くような気配を漂わせながら、小説は幕を閉じていくのだが、その顛末は、ここでは触れない。

 

 装丁が秀逸。
 鴨居玲氏の『出を待つ(道化師)』という装画をあしらった装丁だが、この道化のやつれて崩れた表情が、主人公の崩壊を物語っているようで、切なくなる。
 けっして感情移入のできるような主人公ではないのだが、この絵を見た後に、ふたたび本文に目を通すと、零落していく主人公の肩に、ふと手をかけてやりたくなる。 
 

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