井の頭公園Cafe 『千(せん)』
このブログのタイトルである「アートと文藝のCafe」。
実は、この言葉を思いついた喫茶店が実在する。
散歩コースとして気に入っているエリアの一つに、井の頭線の「井の頭公園駅」(東京都・三鷹市)がある。
その駅前にある「千」という名前の喫茶店がモデルだ。
「井の頭公園駅」というのは、実に不思議な駅だ。
そこから600mの距離に、中央線では屈指の繁華街として知られる「吉祥寺」が控えているというのに、たった一駅離れた「井の頭公園駅」は、まるでローカル線の無人駅をしのばせるような、こぢんまりした小さな駅舎の面影をとどめている。
隣の「吉祥寺駅」の1日の利用者数は29万人。
それに対して、「井の頭公園駅」の1日の利用者数は7千人。
たった1駅しか違わないのに、この駅の利用者は吉祥寺の40分の1にすぎない。
それだけに、朝晩の通勤ラッシュが過ぎると、「井の頭公園駅」は、駅自体が眠りにつくように、のどかな静けさに包まれる。
駅前にある店舗も数えるほどしかなく、数軒の喫茶店と居酒屋を眺めながら50mほど歩くと、いつのまにか閑静な住宅街になってしまう。
メルヘンや夢のなかに忽然と現れる “幻の町” 。
そんな風情が好きで、天気の良い日は、家から40分歩いてこの駅までやってくる。
駅前に並ぶ居酒屋と喫茶店も、みな “ひと癖あり気” な雰囲気をたたえている。
店内に入ったわけではないが、表から眺めるかぎり、どの店もオーナーの “こだわり” が道路まで溢れてきそうに思える。
「文化の香り」
というものかもしれない。
このへん一帯を “武蔵野” などと呼ぶことがあるが、「武蔵野」と言葉にして舌に転がすときの文芸的香気がどの店からも漂ってくる。
国木田独歩の随筆『武蔵野』。
大岡昇平の恋愛小説『武蔵野夫人』。
山田美妙の短編時代小説『武蔵野』。
“武蔵野” を冠した文芸ものは実に多い。
そういう文芸的香りというのは、かつて隣町の吉祥寺が持っていたものだが、同市が中央線を代表する一大消費都市になってしまった今、文芸的な空気感はすっかり吉祥寺から消えた。
そのかすかな香りが、一駅離れたこの「井の頭公園駅」にひっそりと残っている。
その駅前に数軒開いている喫茶店のうちの一軒が、前述した「千」である。
「炭火焼珈琲」という看板を掲げた入り口を覗くと、上にあがる階段が見えた。
階段を上がり切ったところに、艶やかな花を生けた壺が置かれている。
生け花のことなどまったく知らない私だが、入り口に目を見張るような花を配したところに、この店のオーナーの心遣いが感じられる。
つまり、「ここから先は日常空間とは一味違ったくつろぎの場所ですよ」というアピールなのだ。
店内を覗くと、4人掛けのボックスが四つ。
2人掛けのボックスが二つ。
たゆたうように低く流れるショパンのノクターン。
煎れ立てのコーヒーの香りが、店内の隅々まで届きそうな “ほどよい狭さ” が落ち着く。
さりげなく置かれた調度の一つひとつに味がある。
クラシカルなランプ。
小さな彫刻。
棟方志功の版画。
窓辺を飾る観葉植物も手入れがゆき届いていて、葉の一つ一つがみずみずしい酸素を送り出していそうだ。
コーヒーは、オーダーを受けてから、オーナーが豆を挽き、一杯ずつドリップで煎れる。
小さな角砂糖とザラメ状のコーヒーシュガーの2種類がミルクと一緒に運ばれてくる。
一杯600円というコーヒー代は、メニューを見たときは「高い」と思ったが、その味と香りを味わってみて納得。店内の雰囲気代も入っていると思えば、きわめてリーズナブルに思えた。
何よりも気に入ったのは、床である。
見事な光沢をたたえたフローリング。
床の光り方に “大正ロマン” 的な味わいが感じられて、古き良き時代にタイムスリップしたような気分になる。
この渋い光は、相当な年月を重ねないと浮き上がってこない。ワックスがけなどの日頃のメンテナンスもたいへんなのではあるまいか。
窓から「井の頭公園駅」が見下ろせる。
野口五郎の歌に「私鉄沿線」というヒット曲があったが、小さな私鉄沿線の駅というのは、恋愛ドラマの格好の舞台となる。
この店で、コーヒーをすすりながら駅を見下ろしていると、作詞家ならば歌の一つを。小説家ならば短編の一篇を思いつくかもしれない。
「昭和」という時代には、この店のような「喫茶店文化」ともいえる匂いを持った店が街のいたるところにあった。
しかし、「平成」になると、「ドトール」や「スターバックス」のようなチェーン店のカフェが普及するようになって、どんどん昔ながらの喫茶店は消えていき、それとともに「喫茶店文化」も消えた。
チェーン店のカフェでは、コーヒーは飲めるが「文化」はない。
喫茶店の「文化」とは、その店のオーナーの思想そのものだからだ。
オーナーの世界観によって統一された空間が、昭和の喫茶店だったのだ。
この「千」という喫茶店には、友と(あるいは彼女と)文芸やアートやクラシック音楽を語りたくなるような空気が漂っている。
たぶん、それはこの店のオーナーの世界観がつくり出した空気なのだ。
そういう店は、日本全国の街の中心部から消えつつある。
しかし、逆に、このような喫茶店は、吉祥寺といったような一大消費都市の周縁部にひっそりと残っているから風情があるのかもしれない。