アートと文藝のCafe

アート、文芸、映画、音楽などを気楽に語れるCafe です。ぜひお立ち寄りを。

灰とダイヤモンド

  
祝祭(ダイヤモンド)と死(灰)
 


 『灰とダイヤモンド』という言葉から、今の人たちは何を想いうかべるのだろうか。
 
 2013年に、ももいろクローバーZがリリースしたアルバムの中に、そういうタイトルの歌があるという。
 1994年までさかのぼれば、日本のロックグループGLAY(↓)がインディーズの時代に出したアルバムにも『灰とダイヤモンド』という曲が入っているそうな。

 

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 さらに古い時代に遡行すれば、1985年に沢田研二が、やはり『灰とダイヤモンド』(↓)というタイトルで、44枚目のシングルレコードを発表したとか。

 

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 個々の歌がどのような内容を持つのか。また、なぜそのようなタイトルが付けられたのか、私は知らない。

 

 ただ、なんとなく思うのだが、三つの曲を作ったそれぞれの人たちは、いずれも『灰とダイヤモンド』という言葉から何かのインスピレーションを拾ったのではないかという気がするのだ。


 それは1958年に、ポーランドの映画監督アンジェイ・ワイダによってつくられた、あまりにも有名な映画のタイトルだからだ。

   

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 コロナウイルスの蔓延が強いる “巣ごもり状態” の日々から逃れるために、昔から気になっていた映画を発掘し、あらためてそれを観賞する時間をつくっている。

 

 今回は、ポーランド映画を代表する傑作といわれる『灰とダイヤモンド』。
 制作年は、1958年。
 60年以上も前の作品となる。
 もちろん、フィルムはモノクロ。
 画質も音質も、今の映画の水準から比べると、けっして良いとはいえない。

 

 だが、見始めると、一気に引き込まれた。
 やはり、「名作」といわれる映画は、60年程度の “古さ” などまったく問題にしないようだ。
 
 
今の時代にも色あせないカッコいい映像

 

 計算され尽くしたカメラアングル。
 音楽と役者のセリフがスリリングにかみ合う音響効果。
 登場人物たちの魅力的な表情。

 

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 もう、何から何まで新鮮 ‼
 ここで展開されていたのは、むしろ現代映画がいまだ実現していない “未来的映像” だった。 

 

 もちろん、60年以上前の映画が、すべて新鮮に感じられるということはありえない。
 そこには、やはりアンジェイ・ワイダという監督の天才的な才能が作用していたというべきだろう。

 

アンジェイ・ワイダ監督

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 以下、この映画の時代背景を簡単に述べる。

 

 舞台は1945年のポーランドのある地方都市。
 その年の5月8日、それまでポーランドを占領していたナチス・ドイツが連合軍に降伏し、ポーランドはようやく解放されることになった。

 

 しかし、ナチス・ドイツのくびきから自由になったポーランドには、すぐその次の支配者が迫っていた。 
 スターリン率いるソビエト連邦共産党である。
 この時期、スターリンは、政敵や自国民への凄惨な粛清を繰り返しながら、ヒトラー以上の独裁政権を樹立しようとしていた。
 
 
スターリンの魔の手が迫る東欧

 

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 そのスターリンの政治介入を許したポーランド東ドイツチェコスロバキアルーマニアユーゴスラビアなどの東欧諸国では、ソ連主導型の社会主義政府が次々と誕生し、イギリス、フランス、西ドイツなどの西側諸国と対立するようになった。

 

 しかし、ポーランドには、ソ連が指導する社会主義政策を嫌い、自由主義政府を樹立したいと思うグループがいた。
 彼らは、ソ連の息がかかったポーランド共産党の首脳陣を暗殺し、ソ連への抵抗運動を進めようとしていた。

 

 ここまでが、この『灰とダイヤモンド』という映画の背景である。
 

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共産党政府の検閲をどうくぐり抜けたのか?

 

 映画の主人公は、“ポーランドのジェームス・ディーン” といわれたズビグニエフ・チブルスキーが演じるマチェク(写真上)。
 その主人公に暗殺されるのが、ソ連共産主義教育を受けてきた「ポーランド共産党員」のシチューカ(写真下)である。

 

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 今の時代を生きる我々が観ると、この映画は、共産主義の抑圧と戦う自由主義者を主人公にした “反体制ドラマ” に思える。
 だが、この映画が作られたときの状況は、もう少し複雑だ。

 

 監督のアンジェイ・ワイダがこの映画を企画した1950年代初頭。ポーランド共産党政権は、自国の出版物や映像表現に厳しい検閲を施していた。
 
 すなわち、少しでも共産党を批判するような文学・評論・映画があれば、たちどころに表現の修正を迫り、場合によって発表を断念させた。

 

 だから、この映画のように、共産党政権を倒そうとする人間が主人公となるような作品は、当時のポーランドでは上映できるはずはなかったのだ。

 

 では、アンジェイ・ワイダは、いったいどのようにして政府の検閲をくぐり抜けたのか。
 
 主人公を変えたのである。
 つまり、暗殺者のマチェクが主人公となる映画ではなく、見ようによっては、むしろ彼に殺されるシチューカ(写真下)の方こそ主人公だと解釈できる可能性を残したのだ。

 

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 すなわち、マチェクは、軽薄な “ちゃら男” として描かれ、一方のシチューカは、ポーランドの将来を真剣に考える “信念の政治家” というキャラクターを与えられた。

 

 さらに、ワイダ監督は、シチューカを殺したマチェクが翌朝ポーランド政府軍に発見され、薄汚いゴミ捨て場で虫ケラのように殺されていくというエンディングを用意した。

 

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 このマチェクのみじめな死を確認した共産党の検閲者は、
 「政府を転覆させようとしたテロリストの容赦ない末路を描いたこのシーンがあってこそ、この映画は共産党政府の正しさを実証する宣伝になる」
 と手放しで喜んだと伝えられている。

 

 しかし、映画を観た観客は、マチュクの死を、「共産党政府が自由を求める青年を惨殺するシーン」として解釈し、国家権力に対し、一層批判の目を向けるようになったといわれている。
 
 
この映画の “深さ” はどこから来るか?
 
 
 ここまでの説明で、長い行数を使ってしまった。
 しかし、ここからが本当にいいたいことである。

 

 大事なのは、この映画には二つのテーマがあるということだ。
 一つは、マチェクの視点に立って、ポーランド政府をコントロールしようとするソ連の支配体制を暴き出すこと。


 そして、もう一つは、ポーランド共産党の検閲者を喜ばせたように、反体制派のテロリズムの空しさを説くこと。

 

 この相反するテーマを一つの作品に融合させたからこそ、この映画は当時の映画の水準をはるかに超える “深さ” を獲得することになった。
 
 作品の深さは、登場人物たちの内面の深さとなって表れる。
 マチェクに狙われるシチューカは、筋金入りの共産党員として登場するが、実は、自分の息子がソ連に抵抗する反政府組織に入っているという悩みを抱えており、ポーランド人同士が二つの勢力に分かれて戦うことを防ぐことに奔走する男として描かれる。

 

 ただシチューカ(↓)の場合は、新生ポーランドの建設に「ソ連の力を借りる」という方針を貫こうとしていただけなのである。

 

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 一方のマチェクは、ポーランド人同士の分裂に対する危機感をあまり持たない。
 彼にとって「ソ連の支配と戦う」ことは、彼個人のロマンチックな英雄的行動にすぎない。
 要するに、ナイーブ(無邪気)すぎるがゆえに、マチェクは人を殺すことにためらいを感じないのだ。

 

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“ちゃら男” が知った本物の恋

 

 そのマチェクが、なんとシチューカを暗殺する直前に、一人の女に恋してしまう。 
 行動を起こす前の時間つぶしのつもりで、彼はホテルの酒場女と火遊びを始めたのだ。

 しかし、“ちゃら男” を気取っても、根が純真なマチェクは、自分の恋が真剣なものであること気づき、次第に自分に課せられた計画にとまどいを抱き始める。

 

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 とまどいは、「命の大切さ」を彼に教える。
 彼は、シチューカの暗殺を企てれば、自分も殺されるリスクを負うということに、はじめて気づく。


 恋人を持ったマチェクの心に、「死を恐れる心」が生まれる。

 

 一方、マチェクの相手となった女は、ドイツとの戦いで家族や知り合いを失う数々の不幸を経験している。
 だから、自分に言い寄ってきたマチェクが、すぐに自分のもとを去っていくことを本能的に察知する。

 自分の使命と恋の板ばさみになったマチェクが、「悩みを打ち明けたい」と切り出しても、彼女は「悲しい話なら聞きたくない」とマチェクから顔をそむける。

 

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悲劇に耐えた女は「物憂さ」を身につける


 このときの哀しみとアンニュイ(物憂さ)に満ちた女の表情が美しい。
 愛した者たちを戦争が次々と奪っていくという悲劇に耐えているうちに、
 「去っていく者は引き止めても戻らない」
 という諦めが彼女の心に住み着いてしまったのだ。
 それが、女のアンニュイの正体である。
  
 マチェクは、愛した女と一緒になることを考え、危険の伴うシチューカの暗殺計画を放棄したいと上官に願い出る。
 しかし、マチェクの上官はそれを許さない。

  

 仕方なく、マチェクは当初の計画どおりシチューカを付け狙う。
 ホテルを出て歩き始めたシチューカを尾行し、追い越してから、振り向きざまに胸に銃弾を撃ち込む。

 

 このとき、不思議なことが起こる。
 撃たれたシチューカは、なんとマチェクから逃げるのではなく、逆に自分の “同志” を確認したかのように、マチェクの胸に飛び込んでいくのだ。

 

 その体を放心したように支えるマチェク。
 彼の顔にも、同志と抱擁を交わすような優しい表情が一瞬浮かぶ。
 それは、
 「いつの日かともに手を取り合い、喜びを分かち合おう」
 と抱き合うポーランド人同士の “一瞬の連帯” であったかもしれない。

 


祭りのなかの「死」

 

 二人の背後に、突然花火が上がる。
 それは、ポーランドナチス・ドイツから解放された5月8日を祝う記念の花火だった。

 

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 ポーランドの戦勝を祝うこの夜、町のホテルでは夜を徹したパーティーがずっと開かれている。
 朝のまぶしい光が室内に射し込んできたというのに、パーティー会場のフロアでは、酔った男女の踊りが止まらない。

 

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 上機嫌になった紳士が、楽団に向かって叫ぶ。
 「諸君、わが国の誇るショパンポロネーズ(舞踏曲)を踊ろうではないか」

 タバコの煙がたなびくダンスフロアに、調律の狂った楽器による不協和音に満ちたポロネーズが流れる。

 

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 狂騒のなかに忍び寄る “祭りの後の空虚さ” 。
 画面から流れ出るのは、爛熟したデカダンス(退廃)とアンニュイ(物憂さ)。

 

 記念すべき(?)新生ポーランド誕生の日が、なんとも気怠い疲労感に満ちたものであったかを匂わせながら、話は終盤に近づく。 

 

 パーティー会場の狂騒が続く同じ時間に、マチェクは瓦礫の上で息を引き取る。
 「祝祭」と「死」が交差するなかで、米ソの2大強国が静かににらみ合う冷戦時代が幕を開ける。

 

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 『灰とダイヤモンド』とは、19世紀のポーランドの詩人ツィプリアン・ノルヴィットの詩の一節だという。

 

 「すべてのものは、みな燃え尽きて灰となるが、それでも、その灰のなかに燦然と輝くダイヤモンドが残ることを祈る」
 と歌っている、という。

 

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アメリカ人は口で笑い、日本人は目で笑う

 

 NHKBSプレミアムで、面白い企画が放映されていた。

 昨年の暮れだったか、今年の初頭だったか。
 見た日付は忘れたが、興味深い内容だった。

 

 どんな話か?
 人間の目には、他の動物とは違った不思議な “機能” が隠されているというのだ。

 

 つまり、ヒトは、現在のような「目」の構造を持つことによって、はじめて他の動物とは異なる進化の道をたどったのだとか。
 
 それは、白目と黒目の配分である。

 

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 こんなに、白目と黒目がはっきりと分かれる動物は、人間以外にはいないらしい。

 

 動物の場合は、下の写真のように、ほとんどが黒目に覆い隠されている。
 それはなぜかというと、視線の方向を分かりにくくさせるためだという。

 

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 つまり、天敵などと遭遇したとき、視線の位置が相手に伝わってしまうと、
 「あ、あいつヨソ見したな!」
 と、その瞬間をとらえられて、すぐ襲われてしまうからだ。

 

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 そこで動物は、出遭った相手に自分の心の動きを探らせないために、目の中を黒目だらけにして、「サングラス効果」を身に付けたのだ。

 

 では、なぜ人間だけは、視線の位置が相手にすぐ分かるような、不利な目の構造を採り入れたのか?

 

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 それは、天敵と戦うよりも、仲間とのコミュニケーションを優先する方向を選んだからだ。


 つまり、ヒトは、白目と黒目の位置を巧みに動かしながら、ヒトからヒトへと “心の動き” を伝え合うように進化したというのだ。

 

 それは人間が大きな群れをつくるようになったことと関係している。
 というのは、霊長類のなかでも、群れのサイズが大きくなればなるほど、白目の面積が大きくなるのだか。

 

 それは、コミュニケーションの円滑化を考えた結果だ。
 
 群れが大きくなると、いざこざも増える。
 そこで、ヒトは、お互いに目と目で合図を送り、
 「私はあなたに敵意がないわ」
 ということを相手に効率的に伝えるようになった。

 

 そういう “表情” を演出する手法として、黒目と白目の配分が重要なカギとなった。

 

▼ たぬきも、「動物の森」に集まって仲間をつくるようになると、白目と黒目がはっきりと分かれるようになった

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 もちろん、サルのたぐいも群れをつくる。
 彼らも、お互いのいざこざを解消する方法を持っている。


 それが、「毛づくろい」だ。
 彼らは、お互いの毛をケアしながら、「私はあなたにフレンドリーよ」ということを伝え合っていく。

 

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 しかし、「毛づくろい」には時間がかかる。
 しかも、一度にたくさんの仲間に施すことができない。
 その点、人間同士の “視線の交換” は効率的だ。
 瞬時に、気持を伝え合うことができる。

 

 この手法を確立したことで、ヒトは狩りの最中も、声を出すことなく、こっそりエモノの背後に回ることを目で合図し合うようになったし、恋をしているときは、目の力で、相手の異性に気持ちを伝えることが可能になった。 

 

 ま、そんなように、人間は “目の表現力” を手に入れたことで、お互いのコミュニケーションを洗練させるようになった。

 

 しかし、国民性の違いもあるという。
 
 相手に好意を伝えるとき、目の力だけでは不十分だと感じるのは、アメリカ人(欧米人)。
 目だけでも、十分に意志を伝え合うことができると思うのが、日本人。

 

 その違いを調べたテストが面白かった。
 アメリカ人と日本人の顔文字の違いである。

 

 日本人がよく使う下の顔文字。

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 この絵を見ると、たいていの日本人はこれを「笑顔」だと認識する。
 目が「笑っている」からだ。

 

 しかし、アメリカ人は上の絵から「笑顔」を読み取ることができない。
 なぜなら、アメリカ人は、「笑顔」というのは、口が笑っていることが前提となるからだ。


 すなわち、アメリカ人の顔文字で、「笑顔」を表すのは下のような絵となる。

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 このように、口が笑っていることこそ、彼らにとっては「笑顔」なのだ。
 逆に、日本人とは異なり、「目」はただの点でいいのだ。 

 

 この違いは、目も口も、さらにボディランゲージも使って、体全身で自分の感情を表現するアメリカ人と、外に感情を出すことのない日本人の “文化の違い” に由来する。

 

 日本人は、身体全身で自分の心を表現することをひかえる代わりに、目にすべての心を込める。
 「目は口ほどのものをいう」
 という言葉は、まさに日本人のコミュニケーション文化を指している。

 

 そこから、言葉にならない感情のやりとりを重視する日本的な「心」が生まれてくる。

 世界的なコロナ禍に見舞われても、日本人がマスクをすることに抵抗がなかったのは、「目のコミュニケーション」が確保されると思ったからだ。

 

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 それに対し、欧米人がマスクの着用に抵抗したのは、彼らにとっては、「口」こそがコミュニケーションの大切なツールだったからだ。

 

 

「色覚異常」は病気じゃない

 
 昔、 私が小学生だった頃(もう50年以上も前の話だ)、学校の健康診断に「色盲(しきもう)検査」という項目があった。

 

 「色の識別が正しくできているかどうか」ということを検査するもので、“正常” とみなされない時には、「色盲」という(差別的な)診断が下された。

 

 今でもそういう検査があるのかどうか、私は知らない。
 最近「色盲検査」という言葉そのものを聞かなくなったからだ。
 もしかしたら、そういう検査そのものが廃止されているのかもしれない。

 

 でも、50年前の私は、そういう検査が行われると、常に「赤緑色盲」という判定を受けた。
 この世にある色のうち、「赤と緑の区別がつかない」という意味だ。
 こういう人たちの比率は、男性でだいたい5%ぐらい。女性では0.2%ほど存在するといわれていた。

 

 もちろん、そんな自覚は私自身にはなかった。
 トマトの「赤」とほうれん草の「緑」は、生活の中では識別できたからだ。

 

 ただ、当時の「石原式(写真下)」といわれた「赤と緑の点がランダムにばらまかれた検査方法」によると、必ず「赤緑色盲」とされた。

 

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 そんなことすら忘れて、すでに50年ほど経ったが、最近ちょっと小耳にはさんだ情報によると、この「赤緑色盲」という診断は、必ずしも “病気” ではないというのだ。

 

 むしろ、人類が3,000万年も前から持っていた特性の一つで、そういう色覚を持った人が存在したおかげで、人類は今日まで生き延びてこれたのだという。

 

 そう語るのは、人類学者の河村正二博士だ。

 

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 河村氏によると、この特性を供えた人間が一定の範囲で存在していたからこそ、草原に潜む天敵を遠くから見抜いたり、狩りをする対象をいち早く発見したりできたのだという。

 

 くわしくいう。

 

 太古の昔、ヒトを含む霊長類は、主に樹上で生活していた。
 そのときの食糧は、樹上から採れる木の実が中心だった。
 
 しかし、約200万年ほど前、樹上生活をやめ、地面に降りて生活する集団が現われた。
 すなわち、ヒトである。

 

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 草原に降りても、最初の頃の基本的な食物は木の実だった。
 それを採集するとき、緑の葉と赤い果実が遠くから見分けられた方が便利である。
 そのため、ヒトの目は、葉と果実を明確に識別できるような色覚を洗練させるようになった。

 

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 ところが、草原における生活に適合するには、それだけではだめだった。

 

 というのは、ヒトに襲いかかる肉食獣などを見分けるときに、赤と緑の色別がはっきりできるだけでは不十分だったのである。

 

 肉食獣の多くは、たいてい草の色や大地の色にカムフラージュされて、遠くからは見分けがつかない。

 

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 そういうときには、赤と緑の色別に長けているよりも、物の「形」や「明暗」に敏感な色覚を備えた個体の方が、草原のかすかな変化を素早く察知することができる。

 

 実は、「赤緑色盲」といわれた色覚異常の人は、色別能力が不十分であったかわりに、「物の形」や「明暗の差」に対しては鋭く反応していたのだ。

 

 これは、恐竜時代を生き延びた哺乳類がみなモノクロの色覚しか持っていなかったことからも証明される。

 すなわち、恐竜時代の哺乳類は、みな捕食者を避けるように、夜の闇で生活することを覚えた。

 

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 そういう初期の哺乳類に「赤と緑」を識別する色覚は必要なかった。
 それよりも、闇の中を動くエサや天敵を見つけるための「物の形」や「明暗の差」が大事だった。

 

 今でも、霊長類以外の哺乳類は、基本的に白・黒の世界しか見ていない。

 

 このように、人類の歴史というのは、果実を主に収集するグループを中心にしながら、一方では、天敵の存在を敏感に察知するモノクロ的感性を持つ “見張り役” を配置する形で発展してきたわけだ。

 

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 そういう “草原の監視役” を引き受けたグループは、もちろん天敵への気配りが主な仕事だったろうが、やがて人類が狩りを覚えるようになってからは、草原に身を隠す “エモノ” をいち早く発見する役目を引き受けた。
 
 だから、赤と緑の区別が苦手な人を「色覚異常」というのは、非常に失礼な言い方であって、人類史における「斥候役」としての使命をになってきたともいうべきだろう。

 

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 もし、そうでなければ、とっくの昔に、そういう色覚の人は淘汰されていたはずである。
 つまり、赤と緑の区別が苦手な人というのは、狩りの習慣がなくなった現代においては、一つの「個性」であると考えていいようだ。

  

 

映画『AI 崩壊』

AI が人間を裏切る日は来るのか?

  

 BSのWOWOWで、入江悠監督の『AI 崩壊』(2020年1月31日公開)を見る。

 

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 AI が、医療現場から交通システムに至るまで、国民のすべての生活をコントロールするようになった2030年の日本の姿を描いた映画だ。

 

 そのAI が、人間に反旗をひるがえし、タイトル通り突如崩壊。
 国民の生活をサポートしていたさまざまなシステムが壊滅していく。

 

 いわば、コンピューターの反乱。
 『2001年宇宙の旅』(1968年)において、木星に向かっていた宇宙船を制御するコンピューター「HAL9000」の反乱というストーリーをなぞるようなコンセプトだ。

 

 この手の「人工知能生命 vs 人間」というのは、いわば海外のSF映画の定番ともいえる。

 

 人間とAI との間に「恋愛」は成り立つのか? というテーマを扱った作品としては、『her 世界でひとつの彼女』(2014年)や、『エクス・マキナ』(2015年)がある。

 

エクス・マキナ

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 誰でも知っているのは、未来から人間を殺しにやってくる『ターミネーター』というアクション映画シリーズだろう。

 

ターミネーター

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 この手の洋画の “先輩たち” と比較すると、『AI 崩壊』は、思想性においても、アクション性においても、いま一歩及ばないという感想を述べざるを得ない。

 

 まず、この映画に登場する「AI」( のぞみという名前が与えられている)は、そもそも何のために開発されたのか?

 

 「人の命を守り、人を幸せにするため」
 
 高性能 AI を開発した、“天才科学者” である桐生浩介(大沢たかお)は、家族やメディアの記者たちに、そう説明する。
 
 そのため、この「のぞみ」というAI は、2030年の日本の医療現場の隅々まで浸透し、入院患者などの健康チェックをデータ化し、管理下に置くようになっている。

 

 その目的は、人々の健康管理を強化し、病気の早期発見と治療の円滑化を促進し、人の寿命を延命させることだ。

 

▼ 『AI 崩壊』に出てくる「のぞみ」のメインサーバー

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 しかし、そのAI 「のぞみ」が、突如自分に与えられた目的を無視。
 プログラマーたちの制御をあざ笑うかのように、反乱を開始する。
 管理しているすべての患者の余命を計算し、助かる見込みのない人間や、延命処置にコストのかかり過ぎる人間を勝手に処分し始めたのだ。

 

 以下、ネタバレ。
 「のぞみ」の暴走は、実は、そういうプログラムをこっそり仕組んだ犯人の仕業であった。

 

 この犯人には、犯人なりの理屈があった。  

 

 すなわち、高齢者と生活保護者が人口の4割を占めるようになった2030年の日本は、国家財政が破綻寸前にまで追い込まれており、それ以上無駄な医療費を計上させないためにも、誰かが「用済みの人間」をどんどん抹殺する計画に着手しなければならない( と犯人は考えた)。

 

 そのため犯人は、ひそかに「のぞみ」にアクセスし、「のぞみ」が管理している人間の命の価値を勝手に選別する「殺人コンピューター」に仕立てあげた。

 

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 ま、こういう話なのだが、この設定の何が致命的なのか?

 

 それは、AI を使って「人の命を伸ばそうとした」科学者も、そのAI を逆に「殺人マシン」に仕立てた犯人も、ともに「人間の命」を計量できるものとしてしか考えていないことだ。

 

 2030年という近未来の日本を描いているはずなのに、その発想のもとになっているのは、昭和の高度成長期の考え方である。
 
 つまり、“国力” というのは、人の数であり、生産年齢人口が豊富ならば活気ある国家運営が可能になるという発想がそのまま温存されている。

 

 それはまた、国力を維持することのできなくなる人間は「無駄な存在」として、排除の対象となるという考え方の裏返しとなる。

 

 確かに、年齢的に働けない人々が増大していけば、それが国の負担になるというのは、高齢化社会を迎える現在では現実的に危惧されていることだ。

 

 が、それを解決するために、AI を使って「死ぬべき人間」を効率的に判別し、この世から排除するということにはならない。
  
 しかし、この映画の “悪役” は、生産年齢人口以外の “余剰人口” をどんどん抹殺していかなければならないと、シンプルに考えるのだ。

 

 「人の命」を数の問題としてとらえる。
 そういう発想が根底にあるかぎり、「命の神秘」に触れるという視点は生まれない。
 この映画の思想的な薄っぺらさは、そこに起因している。

 

 

 『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督 1968年)が、その思想性において圧倒的な深さをいまだに有しているのは、「命」とは生物だけのものなのか? という根源的な問いが提起されていたからである。

 

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 この映画では、宇宙船「ディスカバリー号」に搭載されていたコンピューターの「HAL9000」という存在がその問いを引き受けている。

 

 「HAL9000」は、宇宙船の搭乗員たちには明かされていない秘密のミッションを受け持っていたゆえに、搭乗員たちとの交信中、二つの任務からくるストレスに堪え切れず、搭乗員の方を裏切り始める。 

 

▼ 音声を遮断して「HAL9000が怪しい」とささやく乗組員。
しかし、HALは乗組員たちの唇の動きを読む

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HAL9000の “目”

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 「自分のミッションの秘密がバレないようにするには、宇宙船の乗組員を殺してしまえばいい」。

 

 そう考えた「HAL9000」は、乗組員のうち、コールドスリープ状態になって眠っている人間の生命維持システムをこっそり解除し、殺戮をもくろむ。

 

 乗組員のリーダーを務めていたボーマン船長は、「HAL9000」の反応が奇妙になってきたことに不信を抱き、「HAL9000」を問い詰めていく。
  
 すると、追い詰められた「HAL9000」は、次々と誤作動を繰り返し、宇宙船の機能そのものを解体しようとする。

 

 ボーマン船長は、「もはやこれまで」と覚悟し、「HAL9000」のモジュールを次々と引き抜きながら、機能停止に追い込む(写真下)。

 

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 このときの「HAL9000」の断末魔の状態がすごいのだ。
 
 「怖い」
 「やめてほしい」
 とHAL9000は泣き声で懇願する。
 
 しかし、その声はだんだん間延びし、音声も聞き取りにくくなり、機能が次第に衰弱していく様子をボーマン船長に伝える。

 

 「HAL9000」は、最後に「ディージー・ベル」という歌をうたいながら息絶える。
 その歌は、自分がHAL研究所というところで、はじめて自分を組み立てて稼働させてくれた開発者(チャンドラー博士)が教えてくれた歌だった。

 

 歌声がだんだん間延びし、音が小さくなり、ぷつっと途絶えたときに、反乱を起こしたコンピューターは、ついに機能を停止する。

 

 これは、コンピューターという機械の終焉ではない。
 「命」の終焉である。

 

 『2001年宇宙の旅』を見ていた観客は、ここで、もっとも奇怪で、もっとも悲しく、もっとも恐ろしい「命の終わり」を見つめなければならない。

 

 こういう壮絶な「命の終焉」を、『AI 崩壊』という映画は描けなかった。
 酷な言い方だが、「生命」というものへの考察の深さが欠けていたといわざるを得ない。

 

 


 

 

 

陰謀論が日本人を汚染し始めた

 

 元アメリカ大統領のトランプ氏が、新大統領のバイデン氏にホワイトハウスを明け渡したことによって、ようやくバイデン新体制がスタートした。

 

 この間、アメリカと日本のメディアは、「アメリカ社会の分断」という視点で、数々の問題が積み残されていると指摘してきた。

 

 しかし、ここにきて、これまでのトランプ支持者も、ようやく情熱が冷めてきたようで、近々(1月21日)のトランプ氏の支持率は34%まで落ちてきたという。

 

 たぶん、「分断」は、これからもずっと残ったままだろうが、これまでのような「トランプ派 vs 反トランプ派」、あるいは、「共和党 vs 民主党」、さらには「低所得のブルーカラー層 vs 高学歴エリート層」といった対立構造は、少しずつ穏便なものになっていくように思う。

 

 なぜなら、以上のような「分断」は、みなその構造が合理的に説明されるからだ。
 どれもみな、基本的にはここ24~5年の間に激化したグローバリズムの問題であり、それが引き起こした格差社会の問題である。

 

 つまり、バイデン氏の政治が、それを解決する道筋をつけていけば、「分断」の壁は少しずつだろうが、乗り越えられないことはない。

 

 ただ、どうしようもない「分断の壁」が、けっきょく最後まで残る。

 

 それは、「陰謀論の壁」だ。

 

 この “壁” は、合理主義で解決できる「分断」の<外>にそびえている。

 

 今回の大統領選で見えてきたものは、トランプ氏に票を投じた支持者たちといえども、その多くは、反トランプ勢力の主張に耳を傾ける合理性を持っていたということだ。

 

 特に、1月6日のトランプ支持過激派による「議事堂乱入事件」のあと、それを機に、一部の過激派とは距離を置き始めたトランプ支持者も増えたといわれている。

 

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 そういう人々は、納得のいく説明を受ければ、状況の推移を理性的に見極める能力を持っていることを意味する。

 

 しかし、「陰謀論者」たちは別である。
 Qアノンのような、“盲目的トランプ教” ともいうべき妄想に取り付かれた人々は、今回の大統領選の結果そのものを、まず認めようとしない。

 

 「選挙に不正があった」
 「選挙結果そのものが盗まれた」

 

 陰謀論に加担する人々は、いまだに、そういう主張を繰り返している。
 「不正」を主張する根拠がどこにもないにもかかわらずだ。

 

 もちろん集計上の多少の誤差はあったかもしれない。
 しかし、陰謀論者たちのいうような、選挙結果が大きく変わるほどの「不正」は、どう考えても起こりようがない。

 

 「不正」を叫ぶ声が支持者の間に広まったのは、トランプ氏自身が、「不正があった」と信じているからだ。

 

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 だから、彼がSNSなどを通じて熱狂的な支持者に呼びかけると、そこに理性的判断を惑わすような空気が生まれ、一種の “信仰共同体” のようなものが生まれた。

 

 これは、「主義」とか「思想」の問題を遠く離れ、はっきりいって「病理」である。

 

 正常な神経を持っていれば、まともに取り合うことのできないようなフェイク情報が彼らの病理の中核に居座っている。

 

 その一例が、Qアノン信奉者の信じるディープステート “神話” だ。
 
 「ディープステート」とは、<闇の政府>と訳され、彼らの信仰の根幹をなしている “悪役” である。
 
 すなわち、トランプ大統領が登場する前のアメリカ政府やメディアは、悪魔を崇拝する小児性愛者の秘密結社(ディープステート)によって牛耳られており、その構成員は、みなこっそり児童人身売買や、児童を相手に淫らな性欲を満足させている。

 

 そういう人間のなかかにはジョー・バイデンバラク・オバマヒラリー・クリントン、ナンシー・ぺロス、マイク・ペンスビル・ゲイツなどが名を連ねている。

 

 彼らの総本山はバチカンにあり、ローマ教皇自身が大悪魔として君臨している。

 
 
 この「ディープステート」は、また中国共産党とも手を組み、民主主義諸国の正義をくつがえそうとしている。

 

 そこでトランプ氏はどういう役目を果たすのか。
 Qアノン信者がいうには、
 「トランプこそディープステートと戦うヒーローなのだ」
 だから、トランプが政治の場から消えれば、アメリカの正義も消える。
 彼らはそう信じている。

 

 こういう説に、はたして、どう向き合えばいいのだろうか。
 「荒唐無稽な話」の域を通り越して、笑うどころか怖くなる。
 少しでも現代政治や近現代史を勉強した者から見れば、こういう説そのものが “とんでも思想” 以外のなにものでもない。

 

 しかし、この説を真正面から信じているのが、アメリカの「Qアノン」(下の写真のような人)だ。

 

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 「彼らは単にゲームを楽しんでいるだけだ」という声もあるが、私はその見方に同意する前に、恐怖を感じる。

 

 問題は、そのような非合理主義的な空気が日本にも波及してきたことだ。

 

 「アメリカ大統領選挙には不正があった」
 ということを、YOU TUBESNSを通じて声高に主張する日本人たちがついに登場してきた。
 それも、それなりに “学識経験者” を自認するような人たちだ。
 
 そういう “日本版Qアノン” の人たちが発信する情報は、日本語で語りかけてくるだけ生々しい。

 

 だから、その声に刺激され、その手のフェイク情報に共感する人たちも出現している。


 それも、高学歴を誇り、理性的な判断力を備えていそうに思える人が、あれっ!? と思えるほどのあっけなさで、陰謀論に加担してしまう。

 

 「言論の自由」を謳うわが国では、そういう意見を抹殺することもできないだろう。
 私個人としては、そういう声は、ただただ静かにフェイドアウトしていってほしいと願っている。

 

 

映画 『トゥルーマン・ショー』

監視社会の中で生きるのは

幸福なのか悪夢なのか

  

 1998年に制作されたピーター・ウィアー監督、ジム・キャリー主演のアメリカ映画。
 『トゥルーマン・ショー

 

 2021年1月16日に、BSのWOWOWシネマで鑑賞。
 封切り時に映画館で見たわけではないが、過去にテレビで放映されたため、見るのはこれが二度目となった。

 

 思いっきりネタバレで行く。
 つつましく、平凡なサラリーマン生活を送る主人公のトゥルーマン・バーバンクは、献身的な妻や、優しい母、頼りがいのある友人に囲まれて幸せな日々を送っている。

  
 過不足のない家庭環境のなかで、唯一寂しいことがあるとすれば、小さい頃に父親を失ってしまったことぐらいだ。

 

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 しかし、ある日、彼は死んだはずの父親が街中を歩いているところを目撃する。

 

 「そんなはずがない !」
 と驚いたトゥルーマンは、急いでその後を追おうとするが、不意にバスが彼の行き手を遮り、バラバラに歩いていた通行人がいっせいに彼の周囲に群がって、彼の行動を阻止しようとする。

 

 通行人たちが、自分の周りに “壁” をつくってしまっため、彼は父親の姿を見失ってしまう。

 

 それを機に、不思議なことがいろいろと起こり始める。

 

 別の日には、休暇を取ってフィジーに行こうと思い、航空チケットを購入しようとする。

 

 すると、カウンターの女性は「予約が取れるのは1ヶ月先だ」と告げ、彼の旅行計画を萎えさせるように仕向ける。

 

 海外旅行をあきらめたトゥルーマンは、仕方なく、気持を国内旅行に切り替え、シカゴ行きのバスに乗り込む。
 そのとき、不意にエンジントラブルが起こり、乗客はみなバスから下ろされる。

 

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 そのため、彼は、町そのものから出ることをあきらめる。

 

 自分の家の中で不審な物を発見すると、突然友人がビールを半ダースぶら下げて、「さぁ飲もうぜ」と来訪する。

 

 なんか変だ !

 

 自由に暮らしているつもりでいた彼は、やがて、自分が常に何者かに監視され、行動を制限され、閉塞された生活環境の中に閉じ込められているという思いを抱くようになる。
  
 どこかに監視カメラがあるのではないか?
 ひょっとして、部屋に盗聴器が仕掛けられているのではないか?
  
 そういえば、家族も何か自分に隠していることがありそうに見える。
 会社の同僚も怪しい。
 友人も怪しい。

 

 主人公の感じる不安は、徐々にはっきりしたものになっていく。

 

 彼はいったいどういう状況に置かれていたのか !?

 

 ネタをばらしてしまうと、彼の人生はすべて隠しカメラによって写され、その映像は、『トゥルーマン・ショー』というテレビ番組として、世界中に放送されていたのだ。

 

 つまり、彼以外のすべての登場人物  妻、母、友人、さらにいえば、タクシーの運転手、ハンバーガー屋の店員、カフェで語り合う老夫婦までもが、ディレクターの指示に従った演技する役者たちにすぎなかったのである。

 

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 知らぬは本人ばかり。
 物心がついた頃から、彼はニセの妻、ニセの母、ニセの友人、ニセの隣の住人などに囲まれて暮らしており、テレビカメラが、その彼の成長ぶりをドキュメント映画として映し出してきたということが、やがてバラされていく。

 

 そもそも、町そのものが巨大なセット。
 学校も、会社も、銀行も、レストランもあるが、決まった建物以外に<町の外>というものがまったくなく、太陽や夜空の星すらも、すべて人工的にコントロールされる照明装置でしかない。

 

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 そういう街の “不自然観” がうまくデザインされていて、それが奇妙な不条理感を出している。

 

 ネタをあかすと、こんなような映画だけれど、ここで描かれたトゥルーマンの生活は、実はわれわれ現代人の精神状態をそのままなぞっているようにも思える。

 

 街を歩いていると、空を見上げるたびに目に飛び込んでくるおびただしい監視カメラ。

 

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 現代人は、常に誰かに監視され、尾行されているという不安から逃れられなくなってきている。

 

 現に、われわれが見ているテレビ番組のなかには、『どっきりカメラ』や『モニタリング』のように、タレントや一般人にいたずらを仕掛け、その人間が狼狽する姿を隠しカメラで追い、お茶の間の視聴者に提供するという番組が人気だ。

 

 このように、知らないうちに、自分の行動が誰かに監視され、時には、知らないうちに、大勢の観客の笑いものになっているという不安。
 それは、きわめて現代的な不安ともいえる。

 

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 実は、この「誰かに覗き見されているかもしれない」という思いは、精神医学の世界では、「統合失調症」の症状そのものだともいわれている。

 

 「いつも誰かに監視されている」
 「自分の行動は、常に誰かに誘導されている」
 「自分の自由意志は制限され、目に見えない何者かによって拘束されている」

 

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 統合失調症患者を襲うのは、常にそのような不安だが、それこそ、この『トゥルーマン・ショー』という映画の主人公が感じる “日常性” の中にまぎれ込んで来る異変そのものにほかならない。

 

 統合失調症の発症率は100人に1人といわれている。
 もちろん、症状も人によって異なり、やがて緩解によって健常者と変らない生活に復帰する人がほとんどだが、発症直後の患者が感じるのは、この映画の主人公トゥルーマンを襲った「平穏な日常が徐々に崩壊していく」不安だといわれている。

 

 そう考えると、恐ろしい映画でもある。
  
  
 主人公のトゥルーマンは、はたしてどういうラストを迎えるのか。

 

 自分の環境に異変を感じたトゥルーマンは、自分を監視して行動を制限しようとする家族、友人たちを欺き、密かに町を脱出。


 港でヨットを奪い、交通が遮断される陸路を避け、海づたいに町を出ようとする。

 

 もちろん、その姿は隠しカメラにフォローされ、全世界の視聴者に見られている。
 どこの家庭でも、逃亡を図るトゥルーマンの話題で持ちきりになり、テレビの前に集まった人たちは、固唾を呑んで、彼の行動を見守るようになる。

 

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 だが、彼のヨットは、やがて “海の果て” すなわちペイントで描かれた人工の水平線にたどり着く。

 

 それはただの「壁」。
 その先は、もうないのだ。

 

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 「もう分かったろう」
 と、ディレクターがマイクを使って、トゥルーマンに呼びかける。

 

 「ここまでよくやった。お前はスターだ。視聴者はみんな君を応援しているよ」
 
 ようやく事態を理解したトゥルーマンは、ディレクターの言葉を受け入れ、ペイントで描かれた水平線の階段を登る。

 

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 階段の上は出口だ。
 
 彼は、「EXIT」と書かれたドアの取っ手に手をかける。
 そして、カメラを通して自分を見ている(はずの)視聴者たちにお辞儀をし、やがてドアの向こう側に足を踏み入れる。

 

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 映画はそこで終わる。
 トゥルーマンは、ようやく虚構の町を出て、リアルな世界に足を踏み入れたのだ。

 

 ハッピーエンドなのか?

 

 そうともいえる。
 でも、そうでもないような気もする。

 

 彼の背中が吸い込まれていった「リアル世界」の先は、真っ暗闇なのだ。

 

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民主主義時代の終焉?

 
 政治や社会における昨今のメディアの報道を見ていると、第二次大戦後、欧米を中心に尊重されてきた「民主主義」という政治理念が、ついに制度疲労を起こしてきたのではないか? と指摘する論調があまりにも増えてきたような気がする。

 

 その一つの例が、昨年アメリカで行われた大統領選挙だ。

 

 選挙そのものは昨年11月3日に終了したが、これまでの慣例を破り、敗北したトランプ氏が政権移譲を認めたのはようやく数日前(2021年1月8日)。

 

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 そのせいもあって、今なお、選挙そのものを「不正」だと信じるトランプ支持者たちの勢力は米国を二分するほどの力を持ち続けているという。

 

 つまり、民主主義のルールを保証するはずの「選挙」が、今や半数の米国民から信頼されていないという異常事態が生まれているのだ。

 

 そのことを反映して、
 「民主主義の代表格だったアメリカの民主主義理念が機能を失っている」
 と警鐘を鳴らす声が、米国内からも他国からも次第に大きくなっている。

 

 そのような事態を象徴する事件が、トランプ支持者たちの連邦議会議事堂への乱入騒動(1月8日)だった。

 

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 米大統領選の選挙結果を不服とするトランプ支持者たちがワシントンの連邦議会議事堂付近に集結し、トランプ氏の扇動により、議事堂内部に乱入したとされる事件だ。
 この騒動で、警察官一人を含む5人の死亡者が出た。

 

 これを機に、米国共和党の議員たちの “トランプ離れ” が始まったといわれているが、「民主主義の守り神」と目されていたアメリカの政治理念がそうとう揺らいだのは事実だ。

 

 事件直後には、そのことをあからさまに指摘した各国の反応が相次いだ。
 なかでも、印象的だったのは、ロシア政府のコメンテーターと、イラン政権のスポークスマン。
 彼らはともに、「アメリカ的民主主義の時代は終わった」と言い放った。

 

 世界的にみても、「民主主義」を理念とする国家は、ここ最近どんどん減りつつあるという。


 スウェーデンの国際機関による一昨年の調査では、市民の自由や政治参加などの基準に照らして「民主主義」と認定できる国の数は「非民主主義的国家」の数を下回ったそうだ。(2021年1月3日朝日新聞

 

 そういう “非民主主義国家” の代表格といえるのが、共産党独裁による権威主義的な国家運営を押し進める中国。

 

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 その中国の存在感は近年ますます大きくなっている。
 実際、世界の新興国発展途上国では、この中国式の統治を採用する国家がどんどん増えているとも。

 

 なぜ、中国のような権威主義的 “非民主主義” 国家が世界中に増えてきたのか。

 

 いろいろな理由があるだろうが、実は「民主主義」というものはコストのかかる政治形態なのである。

 

 多種多様な議論を前提とした国家運営は、それだけ議論のための人的労力も消費するから一つの方向性を打ち出すまでに時間がかかる。
 それでも、それを是としたのが、第二次大戦後の欧米(および日本)だった。

 

 しかし、現在の発展途上国には、そういうまどろっこしい政治運営を繰り返していくほどのコスト的余力がない。

 

 そうなった場合、独裁者のトップダウンの方がはるかに効率がよいということになる。

 

 さらに、中国式政治形態が優れていると思わせるきっかけとなったのが、今回のコロナ騒動だ。


 現在、中国の強権的な「コロナ鎮圧方針」が功を奏し、コロナ対策に不安を持っている発展途上国からそれを評価する声が高まってきたのだ。

 

▼ 「コロナを終息させた」と喜ぶ中国・武漢の人々

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 中国と覇権を争っているアメリカの「コロナ対策」が後手後手に回り、感染者数も死者数も世界規模に達しているのに比べ、中国は国家的威信をかけて、コロナ禍を乗り切った。


 そういう国家的宣伝が、中国人たちを有頂天にさせただけでなく、コロナウイルスの脅威に怯えている周辺国の政府にも浸透した。

 

 つまり、
 「いざとなったときは、強権的独裁体制のほうが国防力を発揮する」
 という先例を中国はつくりだしたのだ。
 そして、それを中国の国民が高く評価した。

 

 中国の国民は、これまで自国政府の方針にさほど共感を示してきたわけではなかった。

 

 しかし、「コロナの災いを根絶させた」という中国政府の報道は、中国の国民には歓迎された。
 コロナ禍によって海外旅行への誘惑を断ち切られたことも、中国人の意識を変えるきっかけとなったろう。

 

 それまで、観光旅行で日本を訪れることを機に、日本文化への理解や憧れを強めたきた中国人たちも、旅行する場所が国内だけに限られてきたため、中国の歴史や文化を見直すきっかけを与えられた。

 
 
 そのような動きはまた中国の内需を喚起し、観光業をはじめとする国内マーケットの整備に貢献した。

 

 こうした中国人たちの “内向きな情熱” は、習近平政権が掲げる
 「中華民族の偉大な復興」
 「中華民族による新しい運命共同体の建設」
 といった “中華帝国” の建設を呼びかけるスローガンとも相性よく絡み合うことになった。

 

 この2021年は、中国共産党結成100周年にあたり、中国にとっても記念すべき年になる。
 そのため、習近平主席は、これを機に、第二次大戦後の「パックス・アメリカーナ」に続く、「パックス・シニカ(中国の平和)」を樹立するという野心を燃やしているとも。

 

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 しかし、こういう中国のビジョンは、「中国共産党100周年」という言葉だけでは片づけられない。
 むしろ、それは最初の統一王朝が生まれた「秦」の時代以来、2,200年の野望であると解釈した方がいい。

 

▼ 秦 始皇帝

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 現在の共産党独裁政権は、スタイルだけみれば「共産主義思想」による統一理念のように思われがちだが、その内実は、むしろ強大な皇帝権力によって中国全土を支配してきた歴代の王朝政治の復活である。

 

 「いかなる国や人物も、中華民族が偉大な復興を実現する歴史的な歩みを阻むことはできない」
 という最近の中国の強硬姿勢は、東アジアからユーラシア大陸まで支配したかつての中華王朝の矜持をそのまま語ったものだ。

 

▼ 中国の最大版図(元の時代 1,279年)

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 そこには、西洋の価値基準が地球を支配している19~20世紀以降の世界観を書きかけようという意欲がみなぎっている。

 

 彼らは、次のように問う。
 「優れた文物は、みな欧米が発明したものか?」

 いやとんでもない。
 文明的に遅れていたヨーロッパ社会に先端技術をもたらしたのは、むしろ中国の方だ。
 羅針盤、火薬、紙、印刷といったヨーロッパ文明の根幹を形成した発明品はみな中国を起源としている。

 

 その気構えが、現代中国の技術革新を支えている。


 ファーウェイ、5G、TikTok などのIT テクノロジーから火星探査機からコロナウイルスのワクチン開発に至るまで、中国テクノロジーの進化には、かつてヨーロッパ文明に光明を与えた中華技術を再度輝かせるという野心を背景にしている。

 

 さらに、中国は、これらのテクノロジーを定める国際基準を “中国式の書き変え” によって統一しようとしている。
  
 そうなれば、現在の世界の基幹産業の方向性や運営方法がガラッと変わる。
 このまま欧米日の大手企業がそれを放置しておけば、いつのまにか中国標準の規格がスタンダードになり、欧米日の工業製品などは中国式の認証を取得するために多大なコストを抱えることになりかねない。

 

 こういう戦略を中国はいつから抱えるようになったのか?

 

 その起源も、2,200年前の秦始皇帝の時代に求められる。
 始皇帝は、軍事的に中国統一を実現したあと、秦の支配をさらに徹底させるために、貨幣、度量衡、文字の統一を図った。

 

 貨幣においては、中国各地でばらばらに使われていた貨幣を統一し、「半両銭」という統一通貨を発行した。

 

 度量衡では、長さの単位における最小基準を6尺と定め、標準器を製造して支配領内に徹底させた。

 

 文字においては、秦で使われていた文字を簡略にしたものを考案し、それによって中国全土の文字を統一した。

 

 すなわち「統一基準」を定めることが世界制覇を成し遂げる秘密となるということを、中国は2,200年前から実行していたのである。
 だから、現在中国が目指している工業基準の中国式統一というのも、彼らの世界制覇の一環でしかないわけだ。

 

 こうしてみると、中国の政治理念というのは、秦の始皇帝以来続けてきた古代中国の復活版と言い換えることができる。

 

 それは徹頭徹尾「統一」を至上価値とする考え方だ。
 そうなれば、人々の「多様性」、「自由」などを認めるわけにはいかない。
 つまり、国民個々人の「意識」を尊重する民主主義などがそこに入り込む余地はまったくない。 

 

 そう考えると、彼らがあれほど香港の民主化運動を弾圧しようとした背景も見えてくるだろう。

 

 これまで、2000年以上の時間をかけて、中国は、文化や宗教の異なる多民族がひしめき合う広大な領土を統一してきた。
 だから、彼らは、特定の個人や特定の民族の自由を容認することが国家の瓦解につながることを骨の髄まで知り尽くしている。

 

 そういう意識で臨んでくる人々が、われわれの「隣人」になろうとしている。

 

 あとは、われわれが、もう一度「民主主義」や「自由」、「多様性」というものが守るべき価値なのかどうか、再度考え直さなければならないときが来ている。

 

 

 

 

 

ネコの正体

 
 最近のテレビを見ていると、ネコが出てくるCMや、ネコのドキュメント映像がやたら目につく。

 

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 人間はいったいネコのどこに惹かれるようになったのか?

 

 まず、顔がかわいい。
  と思う人が多いようだ。

 

 これにはちゃんと理由がある。
 2020年の12月25日に、NHKの「チコちゃんに叱られる!」を見ていたら、人間がネコを可愛いと思うのは、ネコという動物は、大きくなっても顔だけは赤ちゃんのまんまでいるからだという。

 

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 人間から見ると、クマの子でも、ブタの子でも、小さいときの顔はみな可愛く見える。
 もちろん、人間の赤ちゃんも可愛い。

 

 このように、赤ちゃんが可愛く見えるのは、目が丸く、しかもその間隔が離れているからだ。


 こういう顔の構造は、
 「可愛いので、保護してやらなければならない」
 という感情を誘い出すのだという。

 

 しかし、多くの動物は、成獣になると顔が変形し、赤ちゃんのときの可愛さを失っていく。
 そのなかで、ネコだけは、大人になっても、赤ちゃんの可愛さを保っている動物なのだとか。

 

 それがネコの可愛さのヴィジュアル的な秘密らしい。

 

   
 人間がネコに感じる魅力はほかにもある。 
 それは、ネコが人に媚びないところだ。

 

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 ネコは、主人がどんなピンチに陥っても、“われ関せず”。
 一人で勝手に散歩に行き、気ままに外で遊び暮らし、腹が空いたときだけ、ネコなで声で近づいてくる。

 

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 そういうときのネコは、本当にエロティックだ。
 官能的ですらある。
 
 「惚れた女が、さんざん浮気をしたあげく、ようやく俺の元に帰ってきた」

 

 ネコにエサをねだられる飼い主は、そういう心境になるらしい。 

 

 ネコ好きな人は、そういうネコキャラを「優雅」「独立」「自由」「個性」などという言葉と結びつける。

 

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 それに対し、イヌは、何を考えているのか、手に取るように分かる。
 私の場合、前飼っていたイヌを見ていると、その頭の中に去来している想念がレントゲン写真のように透けて見えた。

 

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 「何か食いたい ! 」
 「散歩にでも行かねぇか?」

 

 その二つの間に中間的な欲望というものがなく、二つだけが突出していて、その間で濃淡を形成するグラーデーションというものがない。
 「白」か「黒」かがはっきりしているのだ。

 

 
 なにかの小咄で読んだことがあるけれど、ネコとイヌの違いは次のようなものであるらしい。

 イヌ 「あの人(飼い主)は神さまに違いない。だって私にエサをくれるのだから」
 ネコ 「私は神さまに違いない。だってあの人(飼い主)は私にエサをくれるのだから」

 

 こういうネコの唯我独尊的なふてぶてしさは、不思議な愛嬌に通じる。

 

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 要するに、ネコの心は、どこまで行ってもグレーゾーンなのだ。
 黒白がはっきりせず、灰色のトーンが微妙な濃淡をつくって、流れるように動いている。
 それは人間から見ると、妖しく、美しくも謎を秘めた世界だ。
  


 このネコの “取りとめのなさ” というのは、ネコ学者によると、ネコが「野性」をそのまま温存しているからだという。

 

 たとえ飼いネコであっても、ネコはぜったい100%家畜化しない。
 ネコは、自分の中に「野性」の魂を潜ませながら、野生動物の目で人間を観察しているらしい。

 

 だから人類が大災害に見舞われ、ネコにエサを与える余裕すらなくなったときは、ネコたちはさっさと飼い主の元を離れ、自分一人でエサを探すための旅に出る。

 

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 つまり、人間から見て「不思議」と思えるネコの行動パターンというのは、すべて「荒野の放浪」に備えてネコが温存している「野性」から来るものなのだ。


 これを、言葉を変えていうと、ネコは自分の身体の中に「自然」を宿しているという言い方もできる。

 

 人間社会のルールが通じない広大な「自然」。
 文明が届かない神秘的な「自然」。
 ネコは、それをあの体長わずか75~76cmという小さな身体の中に潜ませている。

 

 こいつは凄いことでねぇの !!
 なにもアフリカのサバンナに行かなくても、インドの密林に行かなくても、我々は庭を横切るネコの姿に、“遠大なる自然” を見ることができるのだ。

 

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 文明生活に生きる現代人が、ネコに惹かれ始めたのは、誰もが無意識のうちに、「ネコがまき散らす自然の空気」を清涼飲料水のように好ましく感じるようになったからではないか? 

 

 逆にいえば、それだけ現代社会は、自然から遠ざかったストレス社会になっているということだ。
 

 

しみじみと夜が来る

 

 いよいよ、今年もあと2日を残すばかり。
 やっぱり、この時期は、なんとなく酒が恋しくなる。

 

 コロナ禍のことでもあるので、家の中で、家族とか、本当に気の合った人間と過ぎ行く一年を振り返りつつ、お互いに照れながら、「俺たち老けたなぁ 」とか笑って、しみじみと酒を酌み交わすなんていうのが似合いそうな季節だ。

 

 そんな気分を、もし「音」で表わすとしたら?
 自分は、下のような曲が真っ先に浮かぶ。

 

youtu.be

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 昔、サントリーオールドのCMで使われた曲。
 いちおう『夜が来る』というタイトルが付いているけれど、『人間みな兄弟』という別タイトルも付いているようだ。

 

 タイトルがふたつもあるということは、おそらくCMにこの曲を使おうとしたスタッフたちの間では、タイトルなどどうでもよかったからだろう。

 

 ところが、予想外にこの曲は評判になり、誰が作曲したのか? 歌っているのは誰か? そもそも、いつ作られたのか? などということが話題になり始めた。

 

 最初にテレビで流れたのは、1967年だという。
 作曲は、CMソングやテレビ主題歌などを数多く手掛けている小林亜星

 

 とにかくこの曲は、ウィスキーが飲みたくなるようなBGMとしてサントリーオールドのイメージ形成に大きく寄与したものだから、その後1995年にも復活し、2008年にもまた復活している。

 

 それらの新しいバージョンでは、長塚京三、田中裕子、國村隼などの役者を揃えた短いドラマが添えられ、そのドラマの展開を想像させるような、いくつかのバリエーションが作られた。

 

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 それだけ、この『夜が来る』という曲の力が大きかったのだ。

 しみじみ 
 ほのぼの
 ほっこり

 … そんな言葉が合いそうな、そこはかとない切なさと、人の心を潤す温かさが溢れていて、まぁ、ほんとに、冬の長い夜を友と酒を酌み交わしたくなるようなCMである。

 

 
 誠にサントリーという会社は、CMづくりがうまい。

 

 それも音楽との絡め方が秀逸。

 ジャズベーシストの大御所であるロン・カーターを使ったサントリー・ホワイトのCMなんか、もう観ている人間から言葉を奪い、ただ唸らせるだけという境地に誘い込む。

 

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 このCMが万人の心に届いたかどうかは別としても、少なくともジャズが好きな人間に対しては、「ジャズに合う酒はやっぱりウィスキー」という刷り込みを行ったはずだ。


サントリーウィスキーホワイトCM ロン・カーター  

youtu.be


 サントリーは、ビールのCMでも味のある芸を披露する。
 やはり、曲との絡みがうまい。
 それが、松田聖子の歌っていた『スイート・メモリー』。

 

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 画面で歌っているのはアニメのペンギン。
 小さなクラブで、ペンギンの女性歌手がこの歌を唄い、それを聞いていた客のペンギンの一人が、「いい歌だなぁ 」とため息をつきながら、涙を流すというシーンまで盛り込まれる。

 

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 ビールのCMなのに、夏の解放感などとは無縁で、むしろしっとりした冬のバーカウンターで聞くのが似合いそうなつくりになっている。


 youtu.be

 
 この曲は、途中から英語のパートに変わるのだが、CMではその英語パートだけが使われていたように記憶している。

 

 もちろん、このCMソングが流れ出した当初は、「歌・松田聖子」などというテロップもなかったのではなかろうか。

 

 だから、私などは、どこかの外国の曲を持ってきたかと思ったくらいだった。
 結果的には、それがCMとして成功し、後に歌い手が松田聖子だと世に知れてからは、今度は松田聖子の株も上げた。

 

 こうしてみると、酒には音楽が欠かせないということを感じる。
 いい音楽は、人を酔わす。
 酒との相乗効果が上がるわけだ。

 

 今年は、奮発して、サントリーの「響き」(7.700円のやつ)を買った。
 大晦日の夜から家で飲むつもり。

 

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「これが、太郎なのか」

   

 絵を紹介した記事のタイトルが、上のものだった。
 すなわち、「これが、太郎なのか」
 朝日新聞2020年12月8日(火)の夕刊の記事だ。

 

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 その新聞の2ページ目。
 「美の履歴書」と題された美術品紹介コーナーに、この絵が掲載されていた。

 

 記事を読むと、これは「浦島太郎」を描いたものだという。

 

 確かに、亀の背に立ち、大海原を進む青年は、いわれてみれば、おとぎ話に出てくる「浦島太郎」に違いない。

 

 だが、この絵が鑑賞者に押し付けてくる “違和感” の正体は何だろう?
 
 「浦島太郎」という、きわめて日本画的なモチーフが、それとはまったく相いれない西洋絵画の技法で描かれていることへの違和感なのか?

 

 そうともいえる。

 

 しかし、この絵がかもし出す “違和感” は、この浦島太郎像を、私たちがこれまで馴染んできた「浦島の物語」とどう結びつければいいのか?
 そういう戸惑いから来るものだ。 

 

 分からないのは、まず太郎の周辺に泳ぎ回る美女や幼児たちだ。
 女たちはみな、東南アジア的な装飾を散りばめた宝冠をかぶっている。
 そのうちの一人は、ギリシャ神話のポセイドンが持つような、三又の鉾(ほこ)をかざしている。

 

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 貝の上に立ち、太郎を追っているのは、乙姫だろうか。

 

 そうなると、その後ろに蜃気楼のように浮かんでいる石造りの都市は、竜宮城ということになる。

 

 こんなビジュアルは、日本の絵画のなかにもなかったし、ヨーロッパ絵画にもなかった。
 もちろん、インドや中国、朝鮮の美術にも類型はなく、この絵のルーツは杳(よう)としてはっきりしない。

 
▼ 従来の日本画のタッチで描かれた浦島図

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 描いた画家の名は、山本芳翠(ほうすい)。
 1850年嘉永3年)に生まれ、1906年明治39年)に亡くなった人である。
 江戸時代に生を受けた画家というのが、まず驚く。

 

 江戸期に生まれた人間ならば、西洋画に親しむ前に、まず浮世絵を見ていたはずだという先入観が私たちにはあるからだ。

 

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 ネットでいろいろな情報に当ってみると、山本芳翠は、岐阜県の農家の息子として生まれたという。
 
 幼い頃に葛飾北斎の絵に心を惹かれ、やがて洋画に関心を持つ。
 本人は、フランスに留学して絵を学びたいと強く思ったようだが、当時一般人が海外留学することなどとても無理な話。
 そこで、密航に近い形でパリに向かった。
 20代の頃の話らしい。

 

 そこで、出遭ったヨーロッパ文化の衝撃が、この絵に影を落としているのは確かだ。

 

 だが、彼は、せっかくパリにまで足を運び、現地の風景や人物に接したはずなのに、なぜ日本のおとぎ話を題材に選んだのか?

 

 そこに疑問が残る。

 

 たぶん、彼は渡仏して、ヨーロッパ人の視点で日本文化を見直したとき、はじめて、浦島太郎の話が秘めている「謎」に気づいたのだ。

 

 「謎」という文字は、“言葉が迷う” と書く。
 すなわち、謎と出遭うということは、言葉では説明し得ないものに直面するということである。

 

 山本芳翠もまた、それまで自分が理解していたつもりの浦島太郎伝説に「謎」を見い出した。
 
 亀の背にまたがって訪れた竜宮城とは、いったい何のことなのか?
 そこで、太郎は何を見い出したのか? 

 

 これまで語られた浦島伝説は、それらを一度も解き明かしたことがなかった。

 

 もちろん、山本芳翠は、「竜宮城は韓国の寓意か、それとも中国の寓意なのか」などという地理的な問題に関心を持ったわけではない。

 

 彼が言いたかったのは、人間がリアリティを感じるものには2種類あって、一つは覚醒されたときに感じる「現実のリアリティ」。
 そして、もう一つは、「夢を見ているときに感じるリアリティ」。

  

 山本芳翠は、この絵で、「夢を見ているときのリアリティ」を追求したかったのだ。


黒澤明監督の映画「夢」

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 実は人間は、この二つのリアリティの間を毎日行き来している。

 

 目が覚めて、それまで見ていた世界が「夢」であると分かったとしても、夢の渦中にいるときは、誰もそれを「夢」だとは意識しない。

 

 むしろ、人間は、夢のなかで、覚醒しているとき以上の現実感をひしひしと感じたりしている。

 

 この浦島の絵が私たちに訴えてくる “違和感” は、まさに夢から覚めたときに、私たちが夢を追憶するときに感じる、あの奇妙な感覚だといっていい。

 

 私たちは、夢が時空を自在に超えることを経験的に知っている。
 そのことを象徴しているのが、この絵では、太郎が手にしている玉手箱だ。

 

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 浦島伝説では、日本に戻った太郎はこの玉手箱を開けてしまい、あっという間に白髪の老人になってしまう。


 つまり、この絵では、玉手箱が「時空を自在に超越するシンボル」として扱われている。
 
 それは、まさに、「この絵が夢である」ことを語っているのだ。
  
  
 「夢を見る」というのは、実は、異文化体験のアナロジー(類推)ともいえる。

 

 私たちは、自分が生まれて育った文化を超える体験をなかなか持つことがない。
 海外旅行は、ある意味、自分が育った文化を超える体験かもしれないが、海外に対する情報がこれほど普及した現代社会では、海外旅行が「異文化体験」につながるとはすでにいえない。

 

 だが、江戸期の文化風土しか知らなかった若い山本芳翠にとって、洋画というのはかつて経験したことがないほど強烈な「異文化体験」だったに違いない。
 すなわち、それは「夢」のリアリティに近いものだった。

 

 さらに、その洋画を学ぶために渡ったヨーロッパは、彼にとって、浦島太郎が見聞した「竜宮城」そのものだったはずだ。
 
 そう思うと、この絵の「謎」を解くカギも、少し見えてくる。

 

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 亀に乗って海を渡る浦島は、密航に近い形でフランスに渡った山本芳翠自身ともとれる。
 
 そうなると、背後にそびえている「竜宮城」は、パリの画壇を意味しているのかもしれず、太郎の周りを泳ぎ回る天女たちは、栄誉と名声を手にいれて日本に凱旋する山本芳翠を祝福する人々ともいえる。

 

 浦島太郎が、どことなく自信に満ちた表情を浮かべているのは、まさにそのことを表現しているのかもしれない。

 

 

戦後日本を裏から描いたヤクザ映画

 

 2020年の年末、BS放送WOWOWで、深作欣二の『仁義なき戦い』シリーズ全5作をまとめて特集していた。
 全部、録画して、久しぶりにじっくり見た。

 

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 やっぱり、いい映画だ!
 面白い! 

 

  と思ったけれど、昔映画館で見ていたときと何かが違う。
 ふと気づくと、隣にカミさんがいて、ときどき一緒に画面を見ているのだ。

 

 しかも、
 「こんな汚らしいヤクザ映画のどこがいいの?」
 とぼやきながら、“市の教育委員会の会長” みたいに眉をしかめて、こちらの顔をうかがっている。

 

 それが違和感の元凶だと知った。

 

 あのシリーズは、“平和な家庭のリビング” で、カミさんとか(彼女とか)、そういうカップルで見るような映画ではないのだ。

 

 1970年代に新宿の場末にあったような、トイレの臭いが充満する “汚い” 映画館で、家に帰ってもすることのない男たちが見る映画だったのだ。

 

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 そういう映画館では、「禁煙」の表示を守る観客などいない。
 館内全体が煙草の煙で霧がかかったようになっている。

 

 どの客も前のシートに足を乗せ、首をのけぞらせた状態で寝そべって画面を眺めている。

 そのアウトロー的な客席の空気感が、まさに映画の内容と見事にシンクロしていた。

 

 つまり、そういう環境の中でこそ “癒される” 男たちの映画だったともいえる。

 

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 映画&アニメクリエーターの押井守は、
 『押井守 映画監督が語る 映画で学ぶ現代史』(写真上)
 (2020年11月2日 日経BP発行)
 という本で、「仁義なき戦い」に1章を割いている。

 

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 そこで彼は、(写真上)は、
 「これはヤクザの世界を借りて、“日本の戦後” を語った映画。つまり、戦後日本の近代化路線に着いていけない人間たちを描いた作品」
 と表現した。

 

 押井は語る。
 「1960年代~1970年代というのは、日本が復興を果たして経済大国になり、東京オリンピック大阪万博まで成功させてイケイケの時代だった。
 でも、なかには、経済復興と経済大国の恩恵にあずかれなかった人間もいっぱいいた」

 

 あのシリーズが空前絶後の大ヒットを記録したのは、60年代末期、経済的繁栄から落ちこぼれた人が大量に出現したことを物語っている、とも。

 

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 60年代から70年代に入ると、そういう人たちを置き去りにしたまま、政治もメディアも、戦後復興によって大金をせしめた人間のサクセスストーリーだけを追うようになった。

 

 それに反比例して、繁栄から取り残された人間たちの怨念も次第に高まっていった。

 

 仕事は単調で退屈。
 上司は陰険。
 給料は安い。
 女もいない。
 友達もいない。

 

 そういう孤独な青年たちが、仕事がはねた後、新宿などの盛り場に流れて来る。

 

 紀伊国屋ビルあたりのシャレた喫茶店やレストランは、幸せそうなカップルでいっぱいだ。

 

 孤独な男たちの足は、自然に場末の「新宿昭和館」あたりに向かう。
 そこで公開されていた『仁義なき戦い』シリーズなどは、彼らの心のダイナマイトに火をつける導火線となったろう。

 

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 なにしろ、映画のなかの極道たちは、みな自分を苦しめていた劣等感に別れを告げ、「欲望全開人間」に変身していく。

 

 そのときの捨てばちな開き直り。
 なにしろ、気の弱い青年にはぜったい吐けないようなセリフを、映画の中の極道たちは平気で口ばしる。
  
 第2作『広島死闘篇』(1973年)に出て来る大友勝利(千葉真一)のセリフ。
 「ワシらはうまいもん食うての、マブいスケを抱く。そのために生まれてきとんじゃないの」
 こういうあけっぴろげの快感原則の開陳は、仕事や社会に従順に生きてきた若者の心に刺さってくる。

 

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 おそらく、映画館を出た若者たちは、その後、居酒屋で独り飲む酒にも気合が入ったに違いない。

 

 「ワシら広島の極道はイモかもしれんがのぉ、旅の風下に立ったことはいっぺんもないんで。神戸の者いうたら猫一匹通さんけ。よく覚えとけいや」
 とか、テーブルに向かって、一人つぶやきながら。

 

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 この私自身、『仁義なき戦い』の名セリフをたくさん覚え、居酒屋などで独り酒を飲みながら、壁に向かって、ずいぶんつぶやいた。

 

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 私もまた、卒業してからしばらくは、まともな仕事につけなかった時代がある。
 仕方なく、街のイタリアン・レストランの2階でウエイターのアルバイトをこなし、そこのレジを閉めてから、1階のスナックのカウンターに入って、バーテンをやった。

 

 ある日、ある学園のクラス会のパーティーがあるといわれ、レストランのテーブルにオードブルなどを並べていたら、入ってきたグループがみな私のかつてのクラスメイトだった。

 

 酔った彼らの会話から、銀行や損保に就職した仲間が多いことが分かった。

 

 連中はみな三つ揃いのスーツに高級腕時計。
 私の方は、白シャツに黒い蝶ネクタイ。

 

 そのなかの酔っぱらった一人が、ビールを運んでいる私の肩に手を置き、
 「職業に貴賤はないからな。気を落とすことはないよ」
 と、(おそらく励ますつもりで)語り掛けてきた。

 

 …… 冗談じゃねぇや、と心のなかで思った。
 俺のことを、落伍者か何かのように思ってやがる。

 

 私は、そのレストランで、社長やキッチンの仲間にも愛され、それなりに充実した日々を送っていたのだ。


 当時の私は、銀行や損保へ就職することがエリートコースだと思ってもいなかったし、(生意気にも)むしろ、そういう生き方を軽蔑していた。

 

 私に声をかけたサクセス組の友が、その後、どうなったのかは知らない。
 ただ、彼の世界観の貧しさが、そのときの私にはとても腹立たしいものに感じられた。

 

 70年代の私は、そうとう鬱屈した気分のまま生きていた。
 その頃にずっと見ていた『仁義なき戦い』は、いまだに私にとって、元気を与えてくれる映画であり続けている。

 


 

 

クリスマス川柳

  

 クリスマスですねぇ。
 小さい頃は、けっこう胸がときめいたりしましたが
 今じゃ、365日のうちの、ただの1日ですなぁ。

 

 昔は、それでも人並みに、子供のためにプレゼントなんか買ってたんですけどね。

 

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 クリスマス
 サンタを辞めて
 50年

 

 「バブル」とかいう時代になると、夜中まで遊びまくってました。
 この季節、にぎやかなパーティばっかり続きましたから。 
 で、そういう朝に限って、カミさんが起きていたりするんですね。

 

 朝帰り
 とっさにサンタに
 早変わり

 

 酒くさい
 サンタは要らぬと
 足げりに

 

 で、カミさんの返事は以下のごとく。 

 

 メシはない
 自分でチキンを
 買って来い

 

 今では、それなりに平和なクリスマスを送るようになりました。

 

 ジングルベル
 聞きながら
 書く年賀状

 

 クリスマス
 老いたる家内と
 ケーキ食べ

 

 まぁ、こんな感じの年の瀬ですかね(笑)

  

 

人生最大のピンチ

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 人生のピンチは、何の前触れもなく、突然やってくる。

 「なんでこんなときに?」
 「なんで俺が?」
  みたいな不条理感をともなって、ピンチは、人の不幸に舌なめずりをする死の女神のように、足音も立てず、気がつくと、ひっそりと隣りにたたずんでいるのだ。

  

 俺の最大のピンチは、思い出すだけで2回ある。


 ひとつは小学校のときだ。
 休み時間、校庭の鉄棒でくるりと逆上がりをしたとき、突然訪れた。

 

 鉄棒の上で、口が閉まらなくなったのである。
 開きっぱなしのまま、口が固まってしまったのだ。
 最初は何が起こったのか、まったく呑み込めなかった。

 

 鉄棒から降りて、足を地面につけても、相変わらず口が閉まらない。
 顎(アゴ)がだらんと垂れ下がったまま、閉じようとする筋肉の意志をまったく受け付けなくなっている。

 

 声を出そうにも、ふはふはふは、と喉の奥が鳴るだけで、声が出ないのだ。

 
 「これって、アゴが外れた状態なのだろうか?」
 恐怖がじんわりと足元からこみ上げて来た。

 

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 両手でアゴを挟む。
 それをカクカクと動かしながら、骨と骨が噛み合うポイントを探してみる。
 
 しかし、なかなか見つからない。
 だんだん焦りが出てきた。
 保険教室にでも駆け込んで、誰かの助けを借りるか。

 

 そう思った瞬間、カチッという音とともに、見事にアゴが頭蓋骨に収まった。
 九死に一生を得た思いだった。
  

 

 もうひとつの絶体絶命のピンチは、社会人になってからである。


 会社のトイレで小便をすませたあとだった。

 ぷるんぷるんと飛沫を便器に跳ね散らかしながら、ズボンのチャックを上にあげた。

 

 すると、チャックが途中で動かなくなった。
 同時に、激痛が襲った。


 チャックが自分の大事なアレ なんていうんだろうか、男性の、いわゆる陰茎部とでもいうのだろうか。
 その裏側の皮をはさんだまま、チャックが止まったのだ。

 

 初期状態に戻そうと思い、チャックをもう一度下側に引いてみた。
 激痛が走る。


  が、動かない。
 皮に食い込んだチャックは、うんともすんとも言わない。

 

 押してもダメ。
 引いてもダメ。
 次第に冷や汗が垂れてきた。

 

 厳冬期の男性用トイレ。
 窓から寒風が吹き込んでくるというのに、顔が紅潮して熱くなっている。

 

 「こうなったら、もう病院へ駈け込もう !」
 というくらい気合を込めて、血が出るのも覚悟の上で、思い切ってチャックをずり下げた。

 

 「痛てぇ !」
  というほどのこともなく、あっさりとチャックは皮からはがれた。
 陰茎部を裏側にひっくりかえし、子細に皮の様子をチェックしてみたが、それほどダメッジを受けた様子もなかった。
 
 ホッと胸をなでおろす。 
 チャックを開けたまま、医者のところに飛び込むのもカッコ悪いところだったから、これも九死に一生を得たような思いだった。
  
 
 ピンチは知らないうちにやってくる。
 しかし、それを自力で乗り越えたとき、自分が一回りも二回りも大きくなったように感じる。

 

 次は何が起こるのか。
 怖いようで、楽しみだ。

 

 

CRY ME A RIVER

CRY ME A RIVER

 

 狭い階段を降りると、素っ気ない木の扉。
 扉の上には、古めかしいネオン管のイルミネーション。
 『 RUMI 』

 

 この季節、扉の前に立っただけで、その奥から歌声や喧騒が響いてきたというのに、今日はやけに静まり返っている。

 

  どんな顔をして入ればいいのか。

 20年。
 いや、それ以上になるか。

 

 ドアを開けると、カウンターの中の痩せた女が、物憂げに首を回した。
 「いらっしゃい」
 抑揚のない、しゃがれた声が返ってくる。

 女の顔を覗き込んでも、乾いた瞳には、何も変化が起こらない。

 

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 5人も座れば満席になるカウンター。
 2人ほどの人間が隣り合って座れば、もう余裕がなくなるくらいの小さなボックス。
 しかし今は、空いた席のどこにも、人影がない。


 カウンター脇の壁には、雨に濡れて煙草を吸っている女のモノクロ写真。
 ボックス側の壁には、サックスを吹く男の写真。
 何一つ変わっていない。
 それらの写真が、少し黄ばんで色あせている以外は。

 

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 カウンターのストゥールを少し引いて、腰を乗せる。
 黙って、女が差し出すおしぼりで、手の甲を拭く。

 

 「バランタインのフィネストを」
 「飲み方はどうします?」 
 「ロックで」

 

 女が、流れるジャズのリズムにアイスピックを合わせながら、軽く氷を割る。
 盗み見るように、その腕から首にかけて、視線を這わす。
 心もち首の周りの肉がたるんだようだ。
 目の下にも、シワが影を落としている。

 

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 「外、寒いですか?」
 女が不意に話しかける。

 

 「外は冷たい雨。夜ふけ過ぎに、雪に変わるかもしれないね」

 

 山下達郎の『クリスマス・イブ』を、ちょっともじってみたが、女は気がつかないか、関心がないようだ。
 もっとも、昔から女は、日本の歌などには興味がなかった。

 

 さすがに、20年経つと、人間の顔も変わってしまうものなのだろう。
 女の記憶から、私のことは消え去っているようだ。
 ならば、はじめての客として振る舞えばいいだけだ。
 
 「クリスマスだというのに、今日は空いているんですね」
 「今どきの若い人は、スナックなんかには来ないのよ。スナックで歌うのは老人ばかり。それも、こんな寒い日は、家から出ないわ」

 

 女が差し出すウィスキーを、軽く口に含む。

 

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 「こういう店が開いていてよかった。落ち着くよ」
 「どういたしまして」
 「昔から、こんな店だったの?」


 
 少し間があいて、女の唇が、ふわっと歪むように横に開いた。
 笑ったのだろう。

 

 「知っているくせに」

 

 女が、ライターをカチッと鳴らして、煙草に火をつけた。

 

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 「やっぱり覚えていたんだね?」
 「相変わらず意地悪な人ね。知らんぷりして」

 

 「20年経つのかな」
 「22年と3ヵ月」
  
 「詳しいね」
 「私が忘れたと思った?」
 「思った」
  
 「わけも言わずに、パタッと姿を消して 。私、朝の駅であなたを探したことが何度もあるのよ。知らないでしょうけれど」
 「知らなかった」
  
 「どうせそうよね。 私も一杯飲んでいい?」
 「マッカラムのロックだね」
 「そういうことだけ覚えているのね」
  

 
 22年前。
 ふらっと私は、この店に立ち寄ったのだ。
 一人きりのクリスマス・イブを持て余して。
 
 誰もいない部屋の灯りを一人で点けて、ベッドに腰を下ろし、孤独な夜にため息をつくのが嫌だったからだ。 
 だから、わざわざ家から離れた知らない町の駅に降り立って、知らない道を歩き、この狭い階段を降りた。

 
 
 「今でも歌っているのかい?」
 「何を?」
 「ジャズ」

 

 「バカね。本気にしてたの?」
 「だって、レッスンに行くんだといって、一緒に駅まで歩いた」
 「嘘よ」
 「どうして、そんな嘘を?」
 「あなたがジャズが好きだって言っていたから」

 

 「22年目にして、はじめて明かされた真実か」
 「真実を告白する日が来るとは思わなかったわ」

 

 グイとグラスを煽る女の手の甲に、シワが刻まれている。
 女は結婚したのだろうか。
 薬指に、エンゲージリングのようなものは見えない。

 

 あの手を握ったことがある。
 この店に何回目に来たときのことだ。
 最後の客が扉の向こうに姿を消し、店の中にたった2人だけ残った夜だった。

 

 照明を少し落とし、フロアでチークを踊った。
 確か、流れていた曲が、ジュリー・ロンドンの『クライ・ミー・ア・リバー』。

 「もうじき店を閉めて、アメリカで暮らすの」
 踊りながら、女は、耳元でそんなことをつぶやいた。
 
 「何のために?」
 「何もかも、いやになっちゃったから」
 
 女は、笑ったのか、それともため息をついたのか、お互いに頬を合わせていたから、それは分からなかった。
 
 そのあと、私たちは、どうしたのか。
 記憶が途切れている。
 したたか酔ったのだろう。

 

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 そのようにして店に通うようになってから、何日目だったか。

 

 そうだ。
 ラーメンと餃子を食べた。
 店にあったワインを持ちだして、そろそろ店じまいするというラーメン屋のオヤジにも振舞って、 それから、明け方まで歩いた。
 どんな道を通ったのだろう。

 

 女は猫を飼っていた。
 猫は、私を警戒する様子もなく、かといって、歓迎する風でもなく、カーペットの上で彫像のように固まり、無表情に私を見つめた。
  
 その後、女はアメリカに行ったのか、どうか。
 こうして、同じ店を維持しているところを見ると、その話も嘘だったのか。

 

 酔いが回ってきているのに、身体が温まらない。
 女は同じピッチで飲み続けている。

 

 「寒いね」
 「お湯割りに変える?」
 「いや、いい。 何か歌が聞きたい。ジュリー・ロンドンの『クライ・ミー・ア・リバー』」 

 

 「今は、CDもレコードもないわ」
 「じゃ、しょうがないな」
 「でも、私が歌う。カラオケならあるから」
  

 ▼ クライ・ミー・ア・リバー 

youtu.be

  

 女の声は物憂く沈んで、部屋の床をすべるように、低く流れた。

 昔の記憶が、皮膚の毛穴まで満ちてきて、見えない滴(しずく)となって虚空に散った。
  
 「クライ・ミー・ア・リバー」
  ♪ 川が流れるような勢いで、泣いてちょうだい。

 どういう意味なのか?
 
 いまさら、遅いわよ
 そう歌っているようにも思える。
 
 今頃になって、何しに来たの?
 そういう歌詞のようにも感じられる。

 

 20年経って、また淋しくなったの?
 勝手な人だこと。
 もし、淋しいのなら、その証拠を見せてよ。
 川のように、ここで泣いて見せたら?

 

 顔を上げて、歌っている女を盗み見る。
 突き放したような、笑顔があるだけ。
 そこから、女の感情を読み取ることはできない。

 灰皿に置かれた女の吸いかけの煙草から、灰がポロリとこぼれ落ちる。
 女はそれを横目で見ながら、歌い続ける。

 

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 22年前、この女と何があったのか。
 もう、それが分からない。