アートと文藝のCafe

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『2001年宇宙の旅』再び

 年末、中学校時代の友人たちと飲む機会があった。
 すでに70歳に近い老人たちが集う会だから、半世紀以上の付き合いとなる。
 固定メンバーはだいたい4名だが、この日は3人だけの会となった。

 

 中学時代に、小説、評論、漫画などを集めたガリ版刷りの同人雑誌を制作した仲であるから、会うと「文学」や「映画」の話になることが多い。

 

 この日も、映画のゴジラシリーズやSF映画の話題となった。

 

 そういうテーマではいつも主導権を握る T 氏が、自分の一生の方向を定めたという映画『2001年宇宙の旅』(監督スタンリー・キューブリック 1968年制作)について熱く語り始めた。

 

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 彼がこの作品に接したのは、年齢的には17~18歳。
 高校3年生ぐらいの年であったろうか。
 50年ほど前の話である。

 

 中学を卒業した後に、我々はそれぞれ別の高校へ進学したが、この映画が公開されたとき、
 「すごい映画ができたから、みんなで見ようぜ」
 という T 氏の発案によって、久しぶりに集合して鑑賞した。

 

 映像的には凝った映画だと思ったが、正直、難解すぎて、私は T 氏ほどには感激しなかった記憶がある。

 

 この映画をすごいなぁ! と思ったのは、それから40年ほど経ってBS放送で見直してからだ。


 17~18歳頃には難解に思えた個所が、40年も経つと、さすがにキラキラと輝くほどの魅力を放っていて、当時は気づかなかったが、なんともすごい映画に接していたものだと、改めて考え直した。

 

 T 氏は、けっきょくこの映画に触れたことによって、クラシック音楽というものに開眼し、SF的世界観に目覚め、そこから遡行して、さらに文学・哲学の領域に関心を広げていった。
 人間にとって、そういう作品に出会うということは、とてつもない幸福であるといえるだろう。

 

 この年末に集合したときは、この映画のテーマは何であったのか、ということが改めて話題になった。

 

 素人がこの映画の感想を述べるとき、必ず「難解である」という印象が最初に語られる。

 しかし、T 氏の話によると、この『2001年 』という映画や小説には、原作者たちの丹念な制作ノートが残されており、お蔵になった脚本や未使用のフィルムもたくさんあるという。

 

 だから、「難解だ」と思う人は、まず作品以外の資料に当たるべきだ、というのだ。

 

 さらに、このシリーズには、別の制作陣による続編も用意されており、それを逐一フォローしていくことで、第一作目をつくった映画監督のキューブリックの意図や、それを小説化したアーサー・クラークの世界観や哲学が分かるようになっているとも。

 

 T 氏はそういってから、この作品の背景となるストーリーを簡単に要約してくれた。

 

 彼の説明によると、この映画は次のような構成になっているという。

 

 かつて高度な知性をもった異星人(映画ではその姿が描かれない)が地球を訪れたとき、地球はあまりにも野蛮な原初の闇に包まれていた。
 そこで、その異星人は、地球上のある猿のグループを選んで、知性を授けることにした。

 

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 そのとき、知性の教育装置となったのが、「モノリス」といわれる長方体の構造物(上)で、それに触れた猿が知恵を授かることになった。
 つまり、その段階で、猿から進化した人類が誕生したというわけだ。

 

 しかし、「人類」というのは宇宙旅行に行ける技術を持った段階でも、まだ進化の途上にある生き物でしかなく、最高の知性を持つ異星人からすると、人類はさらなる進化を遂げる必要があると見なされていた。

 

 その進化の過程を描いたのが、『2001年宇宙の旅』の終盤に描かれた木星探索に出たボーマン船長(写真下)の体験談だという。

 

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 時空を超える飛行体験の後に目を覚ましたボーマン船長は、ロココ風の室内装飾を施された謎の一室で食事をしている自分の姿を見る。

 

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 そこに登場する自分は、見る見るうちに老衰していき、最後はベッドに横たわって、もう死を待つしかないような状態になる。

 

 しかし、そのシーンのあとに映画の観客が見るのは、空中に浮かぶ巨大な胎児の姿。
 T 氏によると、その胎児こそ、人類が次の進化を遂げたことを示す「スターチャイルド」と呼ばれる新生命なのだとか。

 

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 この「スターチャイルド」こそが、猿から進化して人間になった人類が、その次のステップに移ったときの姿なのだという。

 

 ただ、それがどんな存在なのか。
 映画はそれを具体的に解き明かすことなく終わる。

 

 しかし、原作者のキューブリックとクラークは、他の文献で、この新生命がどういうものであるのかということを詳細に語っているという話だった。

 

 そこまで話したT 氏は、私に向かって、こんなことを言った。

 

 「映画や文学には謎があった方がいいと、(私が)昔ブログに書いていたが、しかし、芸術作品というのは謎のまま放置するよりも、真実を究明した方が作品理解が深くなることもある」

 

 こういう言い方だったかどうか、正確には記憶していない。
 ただ、
 「町田もより深い文献に触れて、いっしょにこの映画の本質的なテーマに向き合ってほしい」
 ということだったと思う。

 

 彼の言い分にも一理あると思い、インターネットを使って、この映画を解説していた町山智浩氏の『映画塾!2001年宇宙の旅』(2017年制作)という番組を見た。

 

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 町山氏の解説は、この映画の原作者たちのインタビューや著作などをある程度読破した成果の上に成り立ったもので、多くの観客が「難解である」と戸惑った内容をほぼ完ぺきに解き明かすものだった。

 

 その話自体はとても知的な刺激に満ちたもので、聞いているとかなり面白かったのだが、一方で、「だから何だよ」という気持ちも湧いた。

 

 私が思うに、この映画では「難解である」ことが豊饒さにつながっていて、それを解き明かしてしまうと、内容がどんどん薄っぺらになってしまうという特徴がある。

 

 実は、そう言っているのは解説している町山智浩氏自身であって、彼にいわせると、
 「キューブリック監督は、この映画に関して、完璧な説明をすべて用意しながら、公開時に、観客が理解できるような情報をいっさい映画からそぎ落とし、あえて “難解さ” を強調したのだ」
 という。

 

 なぜ、そういう作り方をしたのか?
 それについて、キューブリック自身が残した言葉があるらしい。

 
 すなわち、
 「なぜ(ダ・ヴィンチの)モナ・リザは魅力的なのか? それは、鑑賞者が彼女の微笑に “謎” を感じるからだ。要は、謎があってこそ芸術品は生命を得るのだ」
 と。

 

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 もしキューブリックがほんとうにそう言ったのだとしたら、それは至言であると言わざるを得ない。

 

 彼は、芸術品は「いつ完成するのか?」ということを考察したのだ。
 つまり、芸術品は、表現者の手を離れ、それを見た鑑賞者の “脳内” で完成するとキューブリックは言いたかったのだ。

 

 芸術品が作者の手を離れ、鑑賞者の脳内に沁み込んでいくためには、どうしても強力な原動力が不可欠になる。
 その「原動力」こそ、芸術品がその深部に抱え込む「謎」にほかならない。
 娯楽文学の王道が、いまだに「推理小説」であり続けるのはそのためである。

 
 
 キューブリックは、なぜ「謎の解明」を鑑賞者にゆだねたのか。

 

 町山氏によると、実はキューブリック監督と小説家のクラークは、この映画制作が始まる前に、ストーリーの細部まで説明するシーンをたくさん用意していたという。

 

 ところが、公開前にキューブリックの気持ちが変わった。
 すなわち、彼は、詳細な解説を施すことよりも、「謎」を残すことを取ったのだ。

 

 もし、ボツとなった企画がすべてこの映画に収録されていたら、見終わった観客から「難解だ」と非難する声はほとんどなかっただろう、と町山氏はいう。

 

 しかし、彼は、次にこういう言葉を残す。
 「難解さはなくなったとしても、それが名作といわれたかどうかは別の話だ」

 

 町山氏もまた、芸術作品は「観客の脳内で完成する」という自論の持ち主なのだろう。

 

 私もその説を支持する。

 

 もし、仮にキューブリックやクラークが、非の打ちどころのないほど完璧に自作を説明したとしても、世界の観客のなかには、原作者たちの予想をはるかに超える高次の解釈を行う人間がぜったい出てくる。
 原作者には、より優れた解釈を試みる “未来の鑑賞者たち” を排除する権利はないのだ。

 

 キューブリックはそのことが分かっていたから、この映画が公開される直前に、すべての “解説” を削り落とし、あえて暴力的なまでにそっけない作品に仕立て直した。

 

 そのことで、作品の骨格は “やせ細った” が、逆に、切り落としたところに闇が残り、その暗がりに、めくるめくような豊饒さが宿った。

 

  

 

アレクサンドロス大王の精神分析

 今年(2019年)の11月、NHK BSプレミアムの『ザ・プロファイラー』という番組で、アレクサンドロス大王が取り上げられていた。

 

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 番組の進行はほとんど覚えていないが、“アレクサンドロス大王” の不思議な精神構造には興味をおぼえた。

 

 アレクサンドロスという男は、大遠征を開始したとき、いったい何を追求したかったのか?


 そして、実際にギリシャペルシャ/エジプト/インドという広大な領土を獲得することによって、何を得たのか。

 

 そういうアレクサンドロスの内面を掘り下げた文献というものを、実は私はまだ知らない。


 彼の大遠征ストーリーは数々の華やかな光輝に包まれているが、実際のところ、彼の心理を分析した資料は何もないのだ。

 

 もちろん、幼少期から様々な逸話は残されている。
 少年時代に、馬の心理を読み、大人たちが乗りこなせなかった荒馬を見事に乗りこなしたといったような彼の傑出した能力を喧伝するエピソードは枚挙にいとまがない。
 
 しかし、それらの逸話は、アレクサンドロスという人物がとった行動に焦点を当てたものが大半を占め、彼の内面に触れてはいない。

 

 ギリシャ人というのは、歴史を語るときも、ヒーローたちの人間味を語ることが好きな民族だった。

 

 たとえばホメロスの『イリアス』や『オデッセイア』においても、ホメロスは、想像上の人物に近いアキレウスオデッセウスを、まるでサスペンスドラマかメロドラマの主役たちのように描いた。

 

 そのような人間味の濃い古代ギリシャの英雄像のなかで、アレクサンドロスという人だけは、非常に人間像が抽象的である。

 

 私は歴史好きの少年だったから、小さい頃から日本語訳の『プルターク英雄伝』などを読みあさっていたが、古代ギリシャ人の話が続いた後で、アレクサンドロスのところまでくると、急に人物像が神秘のベールに包まれてしまうのを感じていた。

 

 それがなぜなのか。
 少年時代の私には、よく分からなかった。

 

 しかし、今の私はこう思っている。

 

 アレクサンドロスという人の内面が分かりにくいのは、彼が神話と歴史の狭間(はざま)を生きた人だったからだ。
 つまり、彼は、幼い頃から自分は「神の子」であるという意識を持ちながら成長したのだろうと思う。

 

 そこには実母のオリュンピアスという女性の育て方が関わってくる。

 

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 オリュンピアスは、呪術を重んじる巫女的性格が強く、幼いアレクサンドロスの精神性を神秘的な世界観に染め上げていったといわれている。

 

 父のフィリッポス2世が、わざわざアテナイからアリストテレスという哲学者を招いてアレクサンドロスの家庭教師にしたのも、たぶんにオリュンピアスの呪術的世界観から息子を遠ざけようという意図が働いたからかもしれない。

 

 こうしてアレクサンドロスは、アリストテレス経由のギリシャ的合理主義を身に付けながら、一方では、母譲りの呪術的世界観もまた意識の底に沁み込ませたいった。

 

 後にペルシャ遠征の途に就いたとき、彼はエジプトにも進出し、少数の部下だけ連れて砂漠の中のアメン神殿を訪れている。

 
 そこで、「なんじはアメンの子である」という神託を受け、いたく満足して帰ったというエピソードが残されているが、自分を無邪気に “神の子” と信じる精神性というものに、私はギリシャ的合理主義とは何か異質なものを感じる。

 

 アレクサンドロスは、長き遠征中も一度も戦いに敗れたことがなく、戦略家・戦術家として、世界史上のどの軍事司令官も超えることのできない偉業を成し遂げた人として知られている。


 のみならず、最前線で戦う一兵卒としても有能な戦士であった。

 

 普通、よほどのことがないかぎり、軍司令官が先頭に立って戦うということはない。
 指揮者が戦死すれば、軍全体が瓦解するからだ。

 

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 しかし、アレクサンドロスは、常に部隊の先頭を切って敵陣に切り込んでいった。

 なぜ、彼にそれができたのか?
 
 「神の子は死なない」
 という信念があったからである。

 

 このように、アレクサンドロスはどこか神がかりの人であったことは間違いなく、言葉を変えていえば、彼は自分を「超能力者」のように思っていたかもしれない。

 

 そうでなければ、彼はペルシャを滅ぼした後に、「世界の果ての景色を見る」という妄想を抱いて、インド遠征に着手することもなかったろう。

 

 彼は、インドの東部を流れるガンジス川こそが、“世界の果て” を流れる川だと信じていたが、「それをこの目で見たい」という感覚は、今でいえば有人探査機で銀河系の果てまで航行したいという欲望に近く、「神の子」でなければ発想できないようなものだった。

 

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 しかし、「神の子」の精神世界は、「人間」である部下たちには把握できない。

 ひたすら “世界の果て” を目指す大王の欲望は、部下からみれば、「狂気」の様相を呈していただろう。

 

 アレクサンドロスがインドを越える遠征を諦めたのは、マケドニア本国から連れてきた兵士たちが厭世的な気分になり、もう大王の言うことを聞かなくなったからだという。

 

 マケドニアギリシャの兵たちは、日増しにペルシャ的な風俗やしきたりを尊重し、ペルシャ的な支配体制を築こうとしたアレクサンドロスに反発した。
 昔から大王につき従ってきた兵士たちからみれば、それは野蛮なアジアの風俗に堕するものであり、ギリシャ風の闊達な自由主義に反するものに見えた。

 

 彼らはアレクサンドロスのことを、東方的な専制君主を目指す独裁者に変貌したと非難した。

 

 このときのアレクサンドロスの心を分かる家臣は、ギリシャ人部隊の中には一人もいなかったし、征服されたペルシャ人の中にもいなかった。
 

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 アレクサンドロスが体現したものは、今でいう “グローバリズム” そのものであったのだ。

 

 彼は、ギリシャ文化とペルシャ文化を融合させ、さらにインドに迫るアジアの辺境文化をも取り込もうとした。
 そのようなグローバリズムを、後世の歴史家たちは「ヘレニズム」と呼んだ。

 

 そもそも「グローバリズム」という言葉は、文字通り、グローブ(地球)からきている。

 

 しかし、「地球」という概念が今のような形で確立されていない時代に、グローバルなものを想像することは、「神の視点」に立つということ以外の何ものでもない。
 アレクサンドロスは、この時代、唯一「神の視点」を手に入れた軍司令官であったかもしれない。 

  

 結果的には、アレクサンドロスの意識をとらえたグローバリズムは、マケドニアギリシャ兵たちのローカリズムに屈した形になり、彼の死後、“アレクサンドロス帝国” は、将軍たちのローカリズムによって四分五裂になる。

 

 将軍たちは、ギリシャ文化の伝統を守ったつもりになっただろうが、彼らには、国境を超えて広がりを実現しようとしたアレクサンドロスの野望をこぢんまりと縮小したにすぎなかった。

  

 ギリシャ文化が本当の意味でのグローバリズムを獲得するには、次のローマ時代を待たねばならない。

   

 地中海を “内海” とし、ヨーロッパ、アフリカ、西アジアに至る大版図を築きあげたローマ帝国というのは、間違いなく、アレクサンドロス帝国が生まれたことによって実現したグローバル国家であった。

 

 

ウィーチャットが招く超管理社会

 テレビ朝日のニュース番組「羽鳥慎一モーニングショー」で、「ウィーチャット(WeChat=微信)」という中国製SNSアプリのことを採り上げていた。

 

 テレビで、しばらくその話題をフォローしてから、ネットで「ウィーチャット」を検索してみた。

 
 すると、
 「(ウィーチャットは)主に中国・マレーシア・インド・インドネシア・オーストラリアなど、中国を中心とした海外ではポピュラーなメッセージアプリで、今や10億以上のユーザー数を持っている」
 とのこと。

 

 「分かりやすくいうと、中国版LINEアプリのようなものだ」
 とか。

 

 もちろん単なる通信機能のほか、QR・バーコード決済サービスを受けられるほか、数々のクレジットカードが利用できたり、他のユーザーへの送金などをアプリ経由で可能になるなど、中国では生活必需品アプリとして、ものすごい勢いで利用人口を拡大しているらしい。

 

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 ところが、前述のモーニングショーでは、このウィーチャットが、現在中国政府のものすごい監視下に置かれるようになっており、都合の悪い情報はことごとく政府によって強制削除され、そのような情報を流した者もアカウントが凍結されて、場合によっては、当局によって拘束されてしまうと報道していた。

  
 その場合、ユーザーがもしアカウントの回復を望むときは、自分の顔画像の提出や音声登録を含め、資産、経歴、学歴等のすべての個人情報をサービス会社に提出し、ようやく再使用の許可をもらえるというのだ。

  

 このように管理された中国のネット社会では、当然政府にとって都合の悪いニュースは流れないし、もちろんウィーチャットでも、その手の情報のやり取りは禁止される。
  
 だから、中国本土で暮らす大多数の中国国民は、いま香港やウイグル自治区で何が起こっているのか知らないという。
  
 それほどの情報統制を受けながら、多くの中国国民はそれでもウィーチャットを利用せざるを得ないらしい。
 なぜなら、
 「不自由だけど便利だから」

 

 番組のレギュラーコメンテーターを務める玉川徹氏(写真右)は、こういう。

  

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 「今までは、自由主義圏内のイデオロギーが支配的だったため、西側の人たちは “自由” というものが一番の価値だと信じ込んできた。
 しかし、いま中国は、それに代わる価値観を打ち立て、新しいイデオロギーを掲げようとしている。
 それが、“便利” という価値観だ。
 “自由” というものを尊重しようとしたとき、当然、自由主義国では個々人の自由意志がぶつかり合うことは避けられないから、社会システムの整備が非常に非効率になる。
 しかし、“便利さ” というものは容易に万人を納得させることができるので、効率化が一気に進む」

 

 玉川氏にいわせると、未来の超管理社会を描いた映画『未来世紀ブラジル』や、ジョージ・オーウエルの小説『1984年』などが描いているのは、管理社会の抑圧的な恐怖というよりも、むしろ、民衆が「自由より便利さを求めた社会だったのではないか?」とも。

 

 この日にコメンテーターを務めた浜田敬子女史は、
 「怖いのは、いま日本人の一部の企業経営者のなかに、中国のような国家システムの方がいいのではないかと真面目に発言する人が出てきたことだ」
 という。

  

 なぜなら、「効率」や「発展の早さ」が大事になる企業経営においては、中国式システムの方が有利だからだ。

  

 現に、これからの各企業が目指す商品開発には、どうしても、GAFAが管理しているようなビッグデータが必要になってくる。

  

 しかし、GAFAといえども、それぞれはみな私企業である。
 ゆえに、個人情報を提出することに抵抗を感じるユーザーの存在を無視できない。

  

 ところが、中国という国家は、13万億人という膨大な人口を使って、GAFAが一束になってようやく手に入れられるようなビッグデータを瞬時に手に入れられるところまで来ている。

  
 なぜなら、中国国民はすでにウィーチャットなどの通信システムに個人情報を提供することに何のためらいも持たなくなるほど訓練されてきたからだ。

  

 現在、高度にAI 化が進行している中国では、このような超管理システムの構築をAI が担うようになっている。人間の顔認証や音声データの管理などは、それこそ、AI が最も得意とする分野だ。

 

 このAI 化は、中国人の人間評価にも影を落とすようになってきた。
 中国の若者の間では、婚活も、恋人探しも、すべてAI による個人データを頼るようになってきたという。

 

 AI による個人データでは、探したい相手の顔画像から資産、学歴、趣味すべてが閲覧できるようになっている。

 
 だから、
 「人間はAI データ化されなければ存在しない」
 といういう認識すら定着してきたとか。

 

 しかし、当然のことながら、AI というのは、しょせん高効率な “電子計算機” にすぎないから、人間のような「心」はない。

 
 つまり、いま中国で進んでいる人間管理システムとは、従来「心」と呼ばれていた人間の精神活動を縮小して別のものにしようという試みなのである。

 

 「心」が縮小した人間とは何なのか?
 それは、人間が「物欲」、 すなわち動物的な「食欲」「性欲」「睡眠欲」だけで生きていくような世界かもしれない。

 

 しかし、そうではないかもしれない。
 それは、人間の新しい精神活動を用意するものかもしれない。

 

 いずれにせよ、「自由」とか「民主主義」、「人権」などという20世紀型の西洋イデオロギーでは人間を語れないような世界が訪れようとしている。
 その壮大な実験に、いま中国はいち早く着手したところである。

 

グランエースはキャンパーになれるのか?

 

 10月24日(木)から始まっている「東京モーターショー」で、キャンピングカーに興味を持っている人たちの関心を集めているのが、トヨタコーナーで発表された「グランエース」(開発 トヨタ車体)だ。

 

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 全長5,300mm。
 全幅1,970mm。

 

 現在バンコンの主流を占める200系ハイエース・スーパーロングと同等の全長を誇り、全幅に関してはスーパーロングよりも広い。

 

 エンジンもトルクを重視するディーゼルエンジン(2.8リットル)。
 足回りも、バンベースのハイエースとは違い、リヤサスペンションは新開発のトレーリングリンク車軸式を採用して、乗用車としての乗り心地を確保している。

 

 さらにいえば、前突を想定したときに心強い “鼻つき” 。
 どことなく、昔キャンピングカーベース車として一世を風靡した「グランドハイエース」の面影すら漂う。

 

 そういった意味で、この「グランエース」は、キャンピングカーベース車としてのこの上ないポテンシャルを確保した新型車ともいえるのだ。

 

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 しかし、現状では、この車がキャンピングカーシャシーとしてそのまま活用される可能性はほとんどないだろう、と一部のキャンピングカー専門家はいう。

 

 プレスデーに訪れていたあるキャンピングカージャーナリストは次のように語った。

 

 「まず価格的にこのままでは無理でしょう。現段階(モーターショー開催中)では価格が公開されていませんが、トヨタのミニバンのなかでは、アルファードヴェルファイアを上回る高級ワゴンになるはず。
 そうなると、価格的に500万円を超えることも考えられ、ひょっとすると600万円以上の可能性もあるかもしれない。
 それをベースに架装するとなると、とんでもない高いキャンピングカーになってしまいます。
 たぶん手を出すビルダーさんは、なかなかいないのではなかろうか」

 

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 ただ、このスタイルを維持したまま、サードシートのところだけを加工して、簡易的な家具を載せる方法もないわけではない、という。

 

 M・Y・Sミスティックさんや、バンレボさんが開発するような高級ワゴンスタイルのミニバンキャンパーである。

 

 ベース車の内装が豪華であるがゆえに、架装部分の家具がそれに見合った格調を維持できれば、「それはそれで面白いキャンピングカーになるかもしれない」 と、プレスデーにグランエースを観察したキャンピングカーライターさんは語った。

 

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 ところで、そもそもこの「グランエース」。
 いったいどういう目的で開発された車なのだろうか。

 

  「高級送迎車」


  と、トヨタ車体の増井敬二社長は、多くの報道人を集めたプレスカンファレンスでそう語った。

 

 つまり、VIPを乗せて、空港からホテル、あるいはホテルからゴルフ場などへ。
 そういう送迎用に使われる高級ワゴンの市場が、諸外国ではすでに確立されている。

 

 そのような車として高い人気を誇るのが、欧米ではベンツのVクラス
 タイやフィリピンでは、ヒュンダイのH1など。

 

 が、残念なことに日本車はまだその市場に参入していない。

 

 しかし、これからは日本国内でも、そういう市場が急激に伸びるのではないか、とトヨタはにらんだ。
 具体的には、来年のオリンピック。
 また、セレブの外国人観光客に焦点を合わせたカジノ構想も動き出している。


 
 「もちろん、個人のお客様も想定していますが、それ以上に、ホテルのようなサービス業の方々の送迎車としてのマーケットを掘り起こしたい」
 とトヨタ車体のスタッフは語る。
  
  
 では、送迎車としてのグランエースの特徴は何か?

 

 「ひとつはゆったりした移動を楽しんでもらえるシートです」
 と、スタッフ。

 

 今回登場したグランエースの2列シートおよび3列シートには、電動オットマン付きの本革のキャプテンシートが奢られている。
 基本的には、職業運転手がハンドルを握り、VIPのお客を快適にもてなすための車なのだ。

 

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 そのため、乗り心地や走行安定性には細心の注意が払われている。
 サスペンションは、フロントにマクファーソンストラット。
 リヤはトレーリングリンク車軸式。
 
 静粛性を追求するために、遮音材・吸音材もふんだんに使われ、車であることを忘れさせるような快適空間が実現しているという。

 

 「そのため、正直にいうと、車両重量も増えています」
 と、トヨタ車体のスタッフは語る。

 

 そうなると、当然トルク特性が大事になってくる。
 そのため、エンジンはディーゼル1本。


 排気量は2.8リットル = 1GD型 2,754cc 130kW(177PS)/3400rpm
トルクは450N・m(45.9kgf・m)/1600~2400rpm。
 すでにプラドにも使われているエンジンだ。


 なお、今回のモーターショーには出展されていなかったが、6人乗り仕様のほかに、8人乗り仕様も用意されているという。

 

 ともに全長・全幅は変わらず。
 8人乗りの場合は、後席のシートピッチを少しずつ狭くして、多人数の乗車に対応するという。
 
 その場合の4列目シートは跳ね上げ。
 跳ね上げた場合は、そこにラゲージスペースが生まれる。

 

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 さて、ここで最初の本題にもどる。
 はたして、この車をベースにしたキャンピングカーは生まれてくるのだろうか。

 
 
 現在、キャンピングカーのなかで、バンコンといわれるジャンルの最大ボリュームを誇る車は200系ハイエースのスーパーロングバンだ。
 グランエースは、サイズ的にはこのスーパーロングと同等になる。

 

▼ 200系ハイエース・スーパーロング

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 スーパーロングの全長は5,380mm。
 それに対して、グランエースは5,300mm。

 
 全長はグランエースの方が若干足りないが、それでもアルファードの4,945mmやヴェルファイアの4,935mmをはるかにしのいでいる。

 

 逆に、全幅は、スーパーロングの1,880mmに対し、グランエースは1,970mm。
 もう “ほぼ2m” といっていい。

 

 この横幅では、ミニバンとしては走りづらいかもしれないが、キャンピングカーとしての居住性を考えると有利だ。

 

 ただ、室内長を考えると、グランエースはスーパーロングよりも不利である。
 グランエースの室内長は3,290mm。
 それに対し、スーパーロングバンのワゴン版であるグランドキャビンの室内長は3,525mm。

 

 グランエースは、衝突規制強化対応の “鼻付き” であるため、やはりスーパーロングよりも室内容積が足りない。

 

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 また、全高も、スーパーロングの2,285mmに対し、グランエースは1,990mm。
 そのため、室内高も1,290mmしか取れず、キャンパーとしてのヘッドクリアランスも乏しくなる。

 

 ただ、最小回転半径は、グランエースの方が有利だ。
 スーパーロングバンの最小回転半径は6.3m(2700ガソリン 6AT)。
 それに対し、グランエースは5.6m。

 

 最小回転半径は、よくホイールベースの長さに左右されるというが、ホイールベースそのものは、さほど変わらない。

 
 スーパーロングの3,110mmに対し、グランエースは3,210mmで、むしろグランエースの方が長いくらいだ。

 

 それなのに、グランエースの方がよく切れるのは、フロントの舵角を45度に設定しているからだという。

 

▼ 200系ハイエース・スーパーロング

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 以上のように両車を比較すると、それぞれ一長一短があるものの、キャンパーシャシーとしては、現状では200系ハイエース・スーパーロングの方が、居住性、価格、架装効率すべての面でまさっているとしかいいようがない。

 

 特に、ベース車がそうとう高くなりそうだというところが、大きなハードルとなることは明らか。

 

 豪華なキャプテンシートをはじめ、ここまで作り込まれた高級ワゴンの室内装備をすべて捨てさって、そこにベッドやダイネットというキャンピング装備を組み込むということは、どう考えても現実的ではない。

 

 ただ、シートなどを最初からレスして価格を抑えた “どんがら” ボディがデリバリされるようになれば、話は別である。

 

 かつて一世を風靡したグランドハイエースなどは、「キャンパー特装」という形で、キャンピングカービルダーにドンガラボディが供給されるようになり、それによって一大ブームが巻き起こった。

 

▼ グランドハイエースベースのバンコン

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 グランエースにその可能性はあるのだろうか?

 

 まったくない という気配でもなさそうである。

 

 というのは、トヨタ車体のスタッフがいうところによると、
 「すでにリヤシートをレスした “特装車” のようなものは出ないのだろうか?」
 という質問が、主にキャンピングカービルダーからかなり寄せられているという。

 

 もちろん、現状では、
 「その予定は今のところはない」
 と答えざるを得ないとのこと。

 

 しかし、
 「そういうニーズがどのくらいのボリュームになるのか。それによっては、架装に対して負担にならないような仕様の価格設定も検討せざるを得なくなるかもしれない」
 とも。

 

 「ただ、今は、“送迎に最適な高級ワゴン” というブランドイメージを確立することの方が急務」
 という。

 

 このへんは非常にセンシティブな話になるので、しばらくの間は、前向きな答が出てくることはなさそうだ。

 

 ただ、少なくとも、開発スタッフの意識のなかには、“キャンピングカーベース車” としての「グランエース」というイメージがまったくないわけでもなさそうだった。

 

 ま、これは “気配” の話なので、確たるものは、今は何もなし。
 しばらくは「楽しみに待つ」という気持ちでいようと思う。

 

『フランス絵画の精華』展

 
 東京富士美術館(東京都・八王子市)で、『フランス絵画の精華』という展覧会が開かれている(2020年1月19日まで)。

 

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 フランス絵画のもっとも華やかな17世紀から19世紀の作品が集められており、
 「ヴェルサイユ宮殿美術館、オルセー美術館大英博物館スコットランド・ナショナル・ギャラリーなど20館以上の美術館の協力を得て、成立した企画展である」
 という。

 

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 17~19世紀といえば、イタリア・ルネッサンス美術の影響がフランスで花開き、端正な古典主義絵画や典雅なロココ絵画を経て、勇壮なロマン主義絵画へと向かう “美術の黄金時代” ともいえる。

 

 「芸術といえばフランス」
 という文化風潮は、この時代につくられたといっても過言ではない。

 

 今回の展示作品を貫くコンセプトは、“人間” 。
 
 それ以前のヨーロッパ絵画は、宗教画を中心に発展してきた。
 つまり、「神の偉業」や「キリストの受難」、「聖母マリアの慈愛」などがテーマだった。

 

▼ ※ 参考 中世ヨーロッパの聖母子像 (この絵画が展示されているわけではありません)

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 このような宗教画の流れから脱して、「人間」を主役に置いた絵が登場したのが、イタリア・ルネッサンス


 そして、それをさらに庶民的文化にまで広げ、主題の多様さを追求したのが、この展覧会で企画された『フランス絵画の精華』展である。

 

 だから、ここには、ギリシャ神話や聖書などに題材をとりながらも、基本的には、人間の生々しさ、崇高さ、美しさなどがしっかり描かれた作品群が集められている。

 

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 個々の画家の名前を列挙してみると、まさに “巨匠” のオンパレードといっていい。

 

 二コラ・プッサン
 クロード・ロラン
 アントワーヌ・ヴァトー
 フランソワ・ブーシェ
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
 ドミニク・アングル
 テオドール・ジェリコー
 ウジェーヌ・ドラクロワ ……

 

 書店の美術書コーナーにいけば、それぞれ分厚い1冊の作品集が用意されている著名な画家ばかりである。

 

 もちろん、今回の展覧会では、誰もが一度は観たような、これらの巨匠のポピュラーな作品が集まっているわけではない。

 
 しかし、逆にいうと、こういう大画家たちの偉業のなかで、あまり知られていない名品に接する良いチャンスであるともいえる。

 

▼ ニコラ・プッサン 『コリオラヌスに哀訴する妻と母』

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 この企画展のパンフレットには、「印象派誕生前夜」という言葉が何回か使われている。


 主催者がその言葉を使ったのは、今回の作品展では、日本人がことのほか好きな印象派が生まれてくる背景を見てもらう、という意向があったのだろう。

 

 日本人の絵画愛好家の多くは、マネ、モネ、セザンヌルノワールゴッホゴーギャンなど、印象派やその流れをくむアーチストの作品を好む傾向がある。

 

 そういった意味では、この『フランス絵画の精華』展に登場する二コラ・プッサン、クロード・ロラン、アントワーヌ・ヴァトー、フランソワ・ブーシェといった人たちは、日本人には今一つなじみがないかもしれない。

 


 しかし、ある意味、彼らの絵は、マネ、モネ、ルノワールゴッホなどよりも “分かりやすい部分” がある。
 そこには「見た通りのもの」が描かれているからだ。

 すなわち「人間」である。

 

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 愛らしい少女のポートレート
 威厳を漂わす上流階級の紳士の肖像画
 予備知識を持たずに観ても、そこにどんな人物が描かれているかが一目で分かる。

 

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 それがいったいどういう人たちなのか。
 各絵画の横には、必ず親切な説明書きが添えられているので、絵と照らし合わせて読めば、さらに理解が深まる。

 

 もちろん、風景画であっても、必ずそこには人間の姿が描かれている。

 

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 登場人物のなかには、西洋の神話や歴史から引用される登場人物もいるが、基本的には、
 「これは愛し合っている男女だな」
 とか、
 「高貴な出の淑女だな」
 など、観たまんまの推測がそのまま通用する。

 

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 さらに、そういう解釈を助けるためのヒントも、絵の中にはしっかり用意されている。

 

 たとえば、画面にキューピッドが登場すれば、それは、男女の「愛」をテーマにした絵という意味だ。

 

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 同じように、犬が出てくれば、それは「忠義」や「忠誠」をテーマにした絵。

 蛇が出てくれば、サタンの誘惑が描かれたものなどと推測することができる。
  
 この時代(17~19世紀)の絵というのは、そのような “お約束事” の上に成立していた絵であった。
 

  
 そういう “お約束事” から作品を解放したのが、19世紀後半から登場してくる印象派だ。

 

 印象派というのは、「人間」の描写よりも、「自然科学」の見地を重視したグループだといっていい。
 19世紀末から、ヨーロッパ先進国では、世の自然現象を科学的・合理的に研究する学問体系が確立された。

 

 そういう近代の自然科学から得た知識を絵画に採り入れたのが、印象派という芸術運動だった。

 

▼ ※ 参考 印象派のモネ 『印象・日の出』 (この絵は展示されているわけではありませ)

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 だから、印象派の絵画というのは、当時の工学や色彩学の最先端知識に基づいて追及されたものだといえる。

 

 それに対し、この『フランス絵画の精華』展では、「人間をめぐる物語」が主題になっている。
 つまり、“理科系絵画” の印象派に対し、こちらは “文芸系絵画” といっていい。

 

 フランス革命前夜、パリのベルサイユ宮殿では、文学や芸術に造詣の深い哲学者、文学者、画家などを集めたサロンが催され、そこでは日々文芸の香りの高い会話が交わされた。

 

 そういうフランス宮廷の文化や教養が、この展覧会の作品すべてに横溢している。
 そこに、今日のわれわれの基礎的教養を培ったものの原型を見ることが可能である。

 

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ジェリー四方&エディー早川ライブ

 
10月13日(日)、東京・世田谷区の梅ヶ丘で、ジェリー四方とエディー早川のライブコンサートが開かれた。

 

▼ Jerry四方氏(右)&Eddie早川氏(左)

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 この二人は、もともと「Jerry Shikata & Rock-O-Motions(ジェリー四方&ロコモーションズ)」という4人編成バンドとして、赤坂を中心に西麻布、銀座のライブハウスで活動していたが、ここ最近は、機動力を生かしたツーピースユニットとして、世田谷の梅ヶ丘のバー「珍品堂」を拠点にライブ活動を展開している。

 

 レパートリーは、アメリカンポップス、リバプールサウンズを中心に、日本のグループサウンズまで。

 
 音としては、1960年代から70年代あたりの懐かしいサウンドが得意だ。

 

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 具体的なアーチストとしては、ビートルズCCRエリック・クラプトンクリフ・リチャード、プロコルハルム、エリック・カルメン、エブリーブラザース、スティービー・ワンダーテンプテーションズ …… などなど。

 

 それを、四方氏のギターとヴォーカル、そして、早川氏のキーボードというシンプルな構成で見事に演じきる。

 

 4人バンドのライブでは、アップテンポのダンスビートの曲が多くなるが、2人だけのユニットの場合は、スローからミディアムテンポのバラードが中心。

 
 
 “音数” は少なくとも、長年数々のライブをこなしてきた2人だけに、どのような曲も、オリジナル音源の情緒を見事に生かし切ったアレンジで、“大人の音楽” を提供してくれる。

 

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 この日のライブ会場は、世田谷区・梅ヶ丘のBAR「TRILL」(バー・トリル)。
 “大人のライブ” を楽しむには格好の落ち着いたバーだ。

 

 ところがこの日、2ステージ目が始まる頃、休憩時間にトイレに立った四方氏が見知らぬ外国人観光客を3人連れてきた。

 

 店内の場外トイレで知り合った外国人に、
 「今ライブをやっているから、見物に来ないか?」
 と声をかけたのだという。

 

 で、どやどやと入ってきたのが、下の3人。

 

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 日本をよく知っているインド人男性(右)と、その友達の、日本にはじめてきたドバイ人(真ん中)。


 そして左端の女性は、どうやらインド男性の “彼女” のようだ。

 

 この人たち、はたしてジェリー四方氏たちが得意とする60年代アメリカンポップスなどを知っているのだろうか?

 

 …… などということを心配する必要もなく、彼らは昔のアメリカンポップスにもビートルズにも精通していた。

 

 で、ドバイから来た男性は、四方氏の誘いに応じ、ついにマイクの前で、サイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』を歌い出した。

 

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 次の女性が歌ったのは、ジョン・レノンの『イマジン』。

 

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 どうしてそんな古い歌を知っているのか?

 

 彼らに聞くと、自分たちの両親が歌っていた歌だという。
 ちなみに、彼らの両親の年齢を聞いてみると、なんと現在70歳代。

 

 奇しくも、当日はジェリー四方氏の70回目の誕生日だった。
 インドやドバイから来た青年たちは、自分たちの両親と同世代の四方氏の演奏で、オールディズの名曲を歌ったことになる。

 

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 外国からの参加者が飛び入りしてきたせいで、ライブ会場の「バー・トリル」も一気に国際的雰囲気に。

 

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 商社に勤務してアメリカ生活の長い四方氏の会話は、最後の方はほとんど英語に変わってしまい、われわれ日本人参加者は、ただ「イェーイ! イェーイ! ワァーイ! ワァーイ!」と連呼するだけ。

 

 外国人グループも、それに合わせて日本人たちとハイタッチ。
 なんとも不思議な盛り上がりを見せた梅ヶ丘の夜であった。

 

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ラグビーがスポーツから文化になった

 日本代表がベストエイトまで勝ち進み、南アフリカと決勝トーナメントを戦ったワールドカップラグビーだったが、惜しくも敗れ、日本列島を襲った約1ヶ月のラグビーフィーバーも幕を閉じた。

 

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 それでも、日本代表の偉業をたたえるマスコミ報道の熱は冷めない。
 テレビの各局では、ラグビーファンたちの街の声を拾ったり、日本代表のインタビューを繰り返している。

 

 実は、私もこのワールドカップラグビーにはそうとう熱中した。
 テレビ報道を観ているうちに、こちらも主要メンバーの顔やら個性をほとんど記憶するようになった。
 
 
 なぜ突然のラグビーブームが日本に訪れたのか。
 もちろん予選リーグを全勝した日本チームの快進撃がすべてを物語っているわけだが、やっぱりヴィジュアル的に見て、
 「こんな面白いスポーツがこの世にあったのか !」
 という衝撃が大きい。

 

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 私個人は、ギリシャ時代やローマ時代の古代戦士たちの戦闘をまっ先に思い浮かべたが、多くの日本人も、このスポーツの本質が格闘技にあることを直感的に感じたはずだ。

 

 しかし、“格闘技” の要素を保ちながら、やはり球技なのだ。
 しかも、もっとも洗練された球技であることは間違いない。
 ボールを追っていく男たちの動きは、それこそ舞の名手たちが秘儀を尽くように美しい。

 特に、日本代表のプレイを観ていると、“動くアート” と言い切れるほど洗練されている。

 

 一見、粗暴な肉弾戦のように見えながら、男たちの動きは、高度にプログラミングされた精密機械のように冷たく、正確だ。

 

 たぶん、多くの日本人は、そこにカルチャーショックを受けたのだろうと思う。

 

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 ここまで来るようになったのは、代表メンバーの気の遠くなるような訓練と経験の蓄積のたまものなのだろうが、私などは、そこに、職人が何十年かけて技(ワザ)を鍛えてきた、きわめて日本的な修練の蓄積を想像してしまう。

 

 さらにいえば、ラグビーにおける “フェアプレイの精神” は、日本の武士道というものの美学を現代に蘇らせたように思う。

 

 特に、リーチ・マイケル選手のような、外国から渡って来て、日本のラグビーを盛り立てた選手たちの生きざまにそれを感じる。

 
 決勝トーナメントに進むことが決定したスコットランド戦が行われた一週間ほど前の夜、用事を済まし、夜11時頃の井の頭線に乗った。


 赤・白のボーダーが入った日本チームのユニフォームを着たカップルの姿を見た。
 横浜スタジアムからの帰りだったのだろう。

 

 終点の吉祥寺に着いたとき、
 「勝ったんですって?」
 と、そのカップルに尋ねた。

 

 「そうなんです!」
 と、2人はうれしそうに振り返った。
 「こんな試合をこの目で見られるなんて幸せ」
 と女性は言った。
  
  
 吉祥寺の街で、ラーメンを食べるために「日高屋」に入った。

 若い男性の4人組がチューハイを飲みながら盛り上がっていた。
 「ジャッカルがよ」
 「オフロードパスってのはさ」
 最近使われるようになったラグビー用語がふんだんに飛び交っていた。

 

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 テレビのワイドショーで、どこかのコメンテーターが言っていた。
 「ロシア戦の頃は、にわかラグビーファンが急に増えたのを感じた。しかしスコットランド戦の頃は、にわかラグビー解説者が増えた」

 

 ほんとうにそのように思う。
 日本にラグビーという「文化」が定着したのを感じた。

 

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村上春樹はもうノーベル賞を取れない

 毎年この季節になると、村上春樹ノーベル文学賞を取るかどうかという話題がメディアに採り上げられるが、今年もそれは叶わなかった。

 

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 毎度のことなので、“ハルキスト” と呼ばれるファン層の落胆ぶりもそれほど話題にならなかった。

 

 たぶん多くの日本人は分かってしまったのだ。
 村上春樹ノーベル文学賞が与えられることは、もうほとんど絶望的な状況になってしまったことを。

 

 いうまでもなく、ノーベル文学賞というのは、その年に世界でもっとも話題性のある文学者に与えられるものである。

 
 “話題性” のなかには、テーマの鋭さ、表現の斬新さ、スケール感の大きさ、哲学性、そしてグローバルな説得力など、すべてが含まれる。

  

 要は、世界中の読書家が、「そうだよね、当然だよね」という納得感のいく作品群を用意した作家に与えられるものである。

 

 今の村上春樹に、それがあるか?

 

 私はデビュー作の頃から村上春樹の大ファンで、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』などといった初期作品から『羊をめぐる冒険』、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』、『中国行のスロウ・ボート』(短編集)あたりまでは熱中して読み込んだ。

 

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 特に、登場人物として「鼠(ねずみ)」が出てくる作品が好きで、主人公の “僕” より、“鼠” のファンであったといっていい。

 

 なんとなく、「つまらないなぁ  」と感じたのは『ノルウェーの森』からで、以降『国境の南、太陽の西』、『スプートニクの恋人』、『アフターダーク』、『約束された場所で』、『東京奇譚集』、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などを散発的によみあさったが、初期作品集を超えて感動できるようなものがなかった。
 
 
 よくいわれる言説に、彼が初期の作品において意識していたことは「デタッチメント」(世界に対する無関心)の感覚であり、その後は徐々に「コミットメント」(世界に対する積極的な関与)をテーマに据えていったというものがある。

 

 その境目がどこにあるのか諸説があるが、多くの読者や評論家は、『ノルウェーの森』あたりからそういう変化が見えてきたという。

 

 もしそれが当たっているのなら、私は、村上春樹の「コミットメント」を志向する作品につまらなさを感じるタイプの人間らしい。
 
 
 彼の「コミットメント」に対する意欲を端的に訴える2作品として、『アンダーグラウンド』、『約束された場所で』の2作がある。

 

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 ともに、オウム真理教の犯罪をテーマにしたもので、1作目はオウムの起こした地下鉄サリン事件の被害者に行ったインタビュー集。
 そして、2作目はそのオウム真理教信者へのインタビュー集である。

 

 2冊を読んだ感想。

 
 「浅い」
 「物足りない」

 その二つだった。

 

 オウム真理教の起こした一連の犯罪事件には、とてつもなく広がる “闇” を感じさせた。

 
 頭脳明晰で、学歴優秀な若者たちが、なぜあの無教養なエゴイストである麻原彰晃にマインドコントロールされ、罪の意識もないままに多くの殺人事件を犯してしまったのか。

 

 その謎を解き明かした言説というものは、既存のメディアや評論家から語られることはなかった。

 
 もちろん、型通りの心理学や精神分析学的な解明は横行した。

 

 しかし、あの犯罪には、そのようなありきたりの解釈を跳ねのけるような不気味な強靭さが備わっていた。

 

 そこに “世界的な” 知名度を誇る文学者の村上春樹が切り込もうとしたわけだから、期待しない方が無理だった。

 

 だが、結果的にいうと、あの事件の本質は、村上春樹の真摯さや真面目さをはるかに通り越すところに隠されていて、読み終えた後、「村上春樹をもってしても歯がたたなかった」という失望感があった。

 

 同時に、「村上春樹の限界」を感じた。

 

 そういう私は、いったい何と比較したのか。


 一つは、吉本隆明の『共同幻想論』である。
 あれは、思想書の体裁をとったエンターティメントだと思うし、作品の質もそれほど高くない。

 

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 しかし、「人間というものは何に支配されるのか?」というテーマを追求する激しさにおいて、あの当時の吉本の情熱にはいまだに圧倒される。

 

 もうひとつは、柄谷行人の『意味という病』である。
 こちらはシェークスピアの「マクベス」をテーマに据えた文学論であるが、著者自身が後書きで触れているように、連合赤軍あさま山荘事件を読み解くというモチーフを秘めた作品である。

 

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 あさま山荘事件というのは、連合赤軍という左翼過激派が警察と銃撃戦を展開し、逮捕された後、むごたらしい集団リンチ殺人が明るみになったという事件である。

 

 柄谷は、そのことをシェークスピア悲劇になぞらえて思想化した。
 書かれたことは、
 「マクベスは魔女の予言に接して、何にとらわれるようになったのか」
 であった。
  
 つまり、人間を襲う “観念の狂気” がテーマになっていた。

 

 これらのような鬼気迫る評論を経験してしまうと、村上春樹のレポートは軽すぎる。

 彼は、絶妙な語彙を操る一流の小説家ではあったが、思想家・評論家としては二流であったといわざるを得ない。

 

 しかし、「デタッチメント」の雰囲気にあふれた初期作品においては、村上春樹の思想家としての限界性は現れなかった。

 

 ところが、「コミットメント」を意識する作品を志向するようになれば、思想性の浅さは致命的になる。
 ノーベル文学賞の対象から外れてしまったのは、たぶん世界中の選考員からそこのところを見抜かれたからだろう。

 

 私は、それはしょうがないことだと思っている。
 別にノーベル文学賞が取れなかったからといって、彼の小説家としての価値が下がるわけではない。

 

 私は、これからも相変わらず彼の初期作品を愛していくだろうし、場合によっては、温かい目でその感想文を書くだろう。

 

 
 ところで、日本にはもうノーベル文学賞が取れるような作家が誕生していないのか?

 

 私はそうは思わない。
 
 ノーベル文学賞の選考基準で、「グローバルな視野」というものが重要であるならば、現在のところ、それをもっとも明瞭な形で作品化しているのは、塩野七生氏である。

 

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 イタリア・ルネッサンス史、ローマ史、そのほか十字軍、アレクサンダー伝記、地中海海賊の栄枯盛衰記。
 彼女の描く歴史物語は、「過去の記録」ではなく、まぎれもなく現在の政治・経済・宗教・哲学の流れまでカバーしている。

 

 “日本人の小説家” として、こういう知の巨人がいるというのに、ノーベル文学賞の選考委員たちはいったいなにを見ているのだろう。

  

 

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FICCオートキャンプ世界大会 89th

 2019年9月28日(土)より、10月6日(日)まで、福島県天栄村の羽鳥湖高原にて、「FICCオートキャンプ世界大会」(日本オートキャンプ協会主催)が開かれた。

 

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 この大会に、TAS(トレイル・アドベンチャー・スピリット = BCヴァーノンを中心としたモーターホームクラブ)の一員として参加させてもらった。

 

 参加国はイギリス、フランス、ドイツ、ポルトガルなどのヨーロッパ各国のほか、台湾、韓国などアジア諸国を含め、計14ヶ国。

 

 「世界大会」が日本で開かれるのは25年ぶりだという。
 次の国際大会が日本で開かれるのも、25年後。
 人生の半ばで貴重なイベントを経験できたことになる。

 

▼ TASのメンバーが集まった道の駅「羽鳥湖」の駐車場

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 なにしろ9日間にわたる長丁場のラリー。
 普通のキャンプイベントなら時間を持て余してしまうところだが、世界各国のキャンプ愛好家が集まる国際大会だけに、イベントのメニューは豊富。

 

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 民族衣装を身にまとった各国メンバーが会場を行進するパレード(写真上)。
 国ごとの料理が振舞われるパーティー(写真下)。

 

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 そのほか、
 日本酒品評会。
 花火大会など、豊富なメニューが用意され、1日があっという間に過ぎていった。

 

▼ 日本の民族衣装で仮装した日本人グループ。

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▼ TASのポトラックパーティ。様々な食文化を持った人々が参加するため、料理メニューの表記には材料表示も行われた。

 

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▼ コリア・ナイトでは、韓国音楽界を代表するテノール歌手ベー・チェチョル氏のミニコンサートも開かれた。
 舞曲「カルメン」やイタリアのカンツォーネを採り上げた選曲も素晴らしく、たいへん楽しめた演奏会となった。

 

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 今回、片言の英語とボディランゲージを駆使して、短い会話ながら、各国の参加者とコミュニケーションを交わすことができた。

 

 ただ、韓国の人々との会話は、最初だけは緊張した。
 なにしろ、日韓の関係悪化がマスコミから連日報道されている最中である。
 会話の内容が相手に失礼に当たらないかどうか、それだけはかなり気をつかった。

 

 しかし、けっきょくは “笑顔” が最大の友好関係の表示となった。
 前述したベー・チェチョル氏などとは、TASのポトラックパーティーで短い会話を交わし、温泉でも顔を合わせているうちに、彼の表情がとても人懐っこくなっていくのを感じた。

 

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 国同士の関係は、マスコミの伝えるニュースだけでは分からない。
 ニュースの教える情報は、抽象的かつ観念的なものに限られ、そこには、その国を生きる人々の喜怒哀楽などは反映されない。

 

 けっきょく、その国の実情を理解できるかどうかは、その国に生きる人々の具体的な顔を思い浮かべられるかどうかに尽きる。

 

 そのときの相手の笑顔。
 親しげなニュアンスを帯びた会話。
 そういうものの “生きた手触り” を体感してこそ、他国のことを理解できるようになる。

 

 そういうチャンスを得たキャンプイベントであった。

 

▼ 台湾から来たチャーミングな女性と乾杯 

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自作短歌の悪評例

 ひょんなことから、“短歌の会” というのに参加するようになって、そろそろ半年になる。

 
 『無窮花植ゑむ』などの著書をお持ちの藤井徳子(ふじい・のりこ先生 = 日本歌人クラブ)のご指導を仰ぎ、月1回くらいのペースで拙作の講評をいただいている。

 

 例会は地域の短歌愛好家が集う15~16人規模で行われ、一人2首ほど提出する。
 参加者がそれぞれの作品の感想を述べあった後、先生の添削を受けるという段取りとなる。

 

 参加者にはご年配のご婦人方が多い。
 皆さん素人ではあるが、さすがにベテランともなると、プロともいえるような秀作を詠まれる。


 短歌を始めて半年という私などは、短歌の極意を会得されたご婦人方に対し、今のところどう足掻いても太刀打ちできない。

 

 正攻法では勝てないという気持ちがつのってしまうと、どうしても天邪鬼な歌が浮かんでしまう。

 

 
 この前、こんな歌をつくって、周りのご婦人方から悪評をいただき、さすが先生からも叱られた。

 

 ヒロセスズアリムラカスミツチヤタオ 似た顔なので区別がつかず

 

 広瀬すず有村架純、土屋太鳳という、今を時めく若手女優を並べただけの何の芸もない歌なのだが、“区別がつかない” というニュアンスを強調したいがために、わざとカタカナに変え、区切りを付けずに並べた。

 

 案の定、
 「人の名前だと気づかなかった」
 「どこで区切るのか分からず、ただ読みづらかった」
 という散々の酷評が続いた。

 先生からは、
 「奇をてらうことだけを意図した凡作」
 と言われた。

  

 やっぱりこの路線はダメだと気づき、すこし趣向を変えた。

 

 逃がさぬぞ黒光りしたその背中 スリッパ手に持ちとどめ刺す

 

 ゴキブリを撃退するところを描いたつもりであったが、これも「黒光りした背中」という言葉が何を指しているのか分からないという声が多かった。

 

 先生だけは、「逃さぬぞ」という言葉に勢いが感じられて、躍動感は感じられると認めて下さった。


 ただ、「その背中」が何の背中か伝わりづらいので、はっきりと「ゴキブリ」という固有名詞を入れてもいいのではないか、という示唆もいただいた。
  
  
 次にはこんなのを作った。

 

ツマミなし 一杯だけのコップ酒 外れ馬券に未練たらたら

 

 これは先生に「面白い」と褒められた。
 地域ごとの短歌会が集まったもう少し広域の短歌大会(多摩歌話会)に応募してみてはどうかと誘われ、推薦してもらった。
 

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 先だって、その「多摩歌話会」の秋季短歌大会(写真上)が行われ、78首の歌が集まったなかで、各首の講評が行われた。


 講評を行ったのは、『ぽんの不思議の』などという歌集を出されている小島熱子先生(現代歌人協会会員)。

 

 小島先生は、78首のうちの約半分を採り上げ、1首1分程度の講評・添削をその場で行われたが、私の歌の番になると、
 「この歌には思わず笑った。すごく面白いと思った」
 と好意的なコメントを寄せてくださった。
 
 ストレートな言葉で、シンプルに歌い上げているところが力強いとのこと。
 ただ、「短歌としては俗っぽい言葉が多いので選に拾われるような作とはいえない」とも評していただいた。

 

 

 大会が終わり、近くの居酒屋で打ち上げが開かれた。
 10人規模の会となり、私は人一人を置いて、小島先生のそばに座らせてもらった。

 

 宴半ば、いつもご指導いただいている藤井先生が小島先生に、私のことを紹介してくださった。

 

 小島先生は、私の「外れ馬券に未練たらたら」の歌を覚えていてくださって、
「あれは面白かった。もっといっぱい作りなさい」と励ましてくださった。
 
 
 この短歌大会の講評を聞いていて、いくつか学んだことがある。

 

 「笑顔」、「いやし」など、誰もが “ほっこりする” ような言葉を歌の中心に置く短歌は、まず凡作だということ。
 こういう月並みの言葉は、短歌の情感を平凡なものにしてしまう。

 これは、小島先生が講評のなかで語った言葉だ。

 

 また、抒情性が勝ちすぎると、逆に “味気なくなる” という逆説。
 詠嘆的に詠い過ぎた歌は、肌がむずがゆくなって、気持悪くなるとも。
  
 歌の中には、ときに “時事詠” というのがある。
 安倍政権がどうだとか、基地問題がどうだとか。
 そういうイデオロギーが強く出た歌は、他人の共感をほとんど呼ばないという。
 これも分かる。
 私も、こういう歌には鼻白む方だから。

 

 ま、その手の歌は、いずれにせよ、私には作れない。

 私が考えるような歌は、次のようなもの。

  
  
 婦人向け下着売り場で目を伏せる 妻の視線を感じたゆえに
 
 東映のヤクザ映画を観た帰り 肩いからしてタコ焼きを買う 
 

「このトイレ定時に水が流れます」 水でよかった血なら怖い

  

 髪上げて うなじ見せたるヤンキー娘 男に混じりて神輿を担ぐ

 

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日本人と韓国人の精神性の違い

 タレントの武田鉄矢がMCを担当する『昭和は輝いていた』(BSテレ東)という番組をときどき観ている。

 

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 武田鉄矢氏と、私は同世代。
 武田氏(70歳)の方が1年先輩だが、若いときに吸った空気が同じなので、彼が取り扱う話題の大半が理解できる。

 

 いつだったか、この番組で、昭和30年代に流行っていた「マドロス歌謡」を採り上げたことがあった。

 
 そのなかで紹介された『憧れのハワイ航路』という曲を聞いていて、ふと面白いことに気づいた。

 

 同曲は、昭和23年(1948年)にレコードが発売された曲である。
 歌手は岡晴夫
 大ヒットしたために、昭和25年(1950年)に映画化もされた。

 

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 私が生まれる前の歌なので、もちろんリアルタイムでは聞いていない。
 ただ、テレビなどの懐メロ番組でよく歌われていたので、メロディと歌詞の一部を記憶している。

 歌詞は、こんな感じだ。

    ♪ 晴れた空 そよぐ風
    港 出船の ドラの音(ね)愉(たの)し
    別れテープを 笑顔で切れば
    希望はてない 遥(はる)かな潮路
    ああ 憧(あこが)れの ハワイ航路
 

youtu.be
 2番・3番の歌詞には、南国の海に沈む夕陽や、ヤシの並木なども歌われ、リゾート地としてのハワイの情景がさんざん歌い込まれている。
 ハワイなどに行ったこともなかった日本の庶民にとっては、なんともエキゾチックな歌に聞こえたことだろう。

 

 しかし、よく考えてみると、この歌がつくられた7年前、実は、極秘のうちにハワイに近づいていた日本軍機動部隊によるパールハーバー攻撃が敢行されていたのだ。
 

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 そして、そのハワイ攻撃の5年後、日本は圧倒的な軍事力を誇るアメリカに屈し、広島・長崎に原爆を落とされたことも含め、軍人・民間人含め300万人の犠牲者を出して終戦を迎えた。

 

 その終戦から3年後に、この『憧れのハワイ航路』という歌ができたのである。

 

 改めてそのことを考えると、日本人の “変わり身の早さ” に驚嘆する。
 「くったくがない」というか、「能天気すぎる」というか ……

 

 ここには、アメリカに対する宣戦布告前に日本がハワイを奇襲したということへの道義的うしろめたさというものはないのだろうか。

 

 あるいは、軍・民合わせ300万人の同胞を殺され、かつ屈辱的な占領政策を押し付けてきたアメリカに対する恨みというものはないのだろうか。

 

 いずれにせよ、この歌には「戦争が終わればノーサイドさ !」と陽気に敗戦を受け入れる日本人のおおらかさが表われている。
  
 
 これが、もし、お隣の国、韓国であったらどうであろうか。
 けっして、この『憧れのハワイ航路』のような歌はつくられなかったろう。
 また、国民の間に、こういう歌を歓迎する空気も生まれないだろう。

 

 韓国人のメンタリティーには、自分たちを悲惨な目に合わせた外国を許さないという強さがある。

 
 たとえば、20世紀初頭に朝鮮半島を植民地支配した日本に対して、彼らは韓国という国が続く限り、日本を糾弾し続けるはずだ。

 

 もちろん日本人も、太平洋戦争中は連合軍に対し、「鬼畜米英」と敵意をむき出しにした。

 
 しかし、いったん戦争が終結すると、日本人は、自分たちの親兄弟や同胞を殺したアメリカの進駐軍に向かって、恥も外聞も投げ捨て、「ギブミー・チョコレート!」と笑顔で物乞いをした。

 

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 なんという変わり身の早さ !
 なんという厚かましさ !
 なんという屈託のなさ ! 

 

 韓国の人たちと比べて、「国民性の違い」といえばそれまでだが、ここ一連の韓国政府の「反日運動」を見ていると、改めて、両民族の気質の違いといったものを考えざるを得ない。

 

 「敵」をいつまでも許さない韓国。
 「敵」すらも、最後はずぶずぶに受け入れてしまう日本。

 

 この違いはどこから来るのか。

 

 身も蓋(フタ)もない言い方をすれば、中国大陸に接した半島国と、島国の違いである。

 つまり、いざとなったら当時最強の中国軍が地続きのまま侵入してくる朝鮮半島の国と、海によって中国から守られた日本の差だ。

 

 言葉を変えていえば、中国文化を丸ごと受け入れざるを得なかった朝鮮と、中国文化を距離を置いて眺められる日本違いである。

 

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 では、その “中国文化” とは何か?

 

 いちばん代表的なものに、朱子学儒学)がある。
 この朱子学の強化に、本場の中国以上に力を入れたことが、朝鮮民族のメンタリティーを確立した。

 

 朱子学とは、何よりも「原理・原則」を重視し、人の生き方を「論理」や「規範」で拘束しようとする学問である。

 

 朝鮮に朱子学が定着したのは16世紀の李氏朝鮮の時代である。
 この時期は、中国の明朝が満州族(清)によって征服された混乱期であったため、中国では朱子学が衰えを見せていた。

 

 それを再興したのが、李氏朝鮮朱子学者たちであった。
 この時期の朱子学は、朝鮮の学者たちが精緻な理論を確立していったため、世界の最高水準に達した。

 

 彼らは、そのとき「我々こそが中国文明を継承する者だ」と自負し、“親” である中国すら超えたと自信を持ったことだろう。

 

 ところが、その半島からさらに南にくだると、朱子学を十分に把握しきれない “劣等生” の日本人がいることを朝鮮の人々は知った。
 朝鮮の優秀な学者たちからすると、日本人は「蛮族のたぐい」に思えたかもしれない。

 

 現在の韓国人の「反日感情」のベースには、このときの韓民族の優越心が反映されていると見ることもできる。
  
  
 では、朱子学は、朝鮮民族の気質をどう変えていったのか。
 
 韓国の文芸評論家の一人(崔元植=チェ・ウォンシク)氏は、自著でこう述べている。

 「16世紀以降(朱子学をベースとした)朝鮮思想史では、何事も正統と異端にはっきり分け、少しでも正統から離脱したら、“乱賊” と罵倒していく風潮が生まれた」(『韓国の民族文学』 1995年)

 

 つまり、社会で起きていることが「事実」かどうかということよりも、「正統」か「異端」かということが重要になっていったのだ。

 

 言葉をかえていえば、「ウソであっても、正義を守るためのウソは許される」ということになる。

 

 この「正義」を何よりも最優先する苛烈な原理主義が、現在の「反日」行動の数々に影を落としている。

 韓国には、「反日無罪」という言葉があるが、その意味はどんな犯罪でも、動機が「反日」ならば許されるという意味だ。

 

 

 こういう苛烈な「正義感」を振りかざされると、多くの日本人はやはりたじたじとならざるを得ない。

 

 日本には、「水に流す」という言葉があるように、いがみ合った仲でも「最後は仲良くやっていこう」という “仲直り文化” がある。

 

 ところが、「正義」こそが人間としての至上の価値だと考える民族からみると、正義を貫く戦いを放棄し、見せかけだけの “仲良し” を志向することは唾を吐きたくなるほど恥ずかしいことなのだ。

 

 そういう強さは、日本人も見習うべきかもしれないが、「正義」と「正義」がぶつかりあったとき、果たして、どちらの「正義」が正しいのか? という問題が出てくる。

 

 答は、「勝った方の “正義” が正しい」ということになる。
  
 だから、韓国の政治では、左派と保守派が選挙ごとに血みどろの戦いを繰り広げ、負けた方の大統領は投獄されるか、自殺に追い込まれるかという悲惨な末路を迎えなければならなくなる。

 

 韓国の政変は容赦ない。
 前大統領の朴槿恵(パク・クネ)氏は、汚職の容疑だけで、懲役25年の刑を科せられている。
 現在彼女は67歳だから、生きて出獄できても92歳。

 

 いかにも、保守派政治家を根絶やしにしようという文在寅ムン・ジェイン)左派政権の容赦ない意志が感じられる。
 そこには、文在寅大統領と、その意向を汲んだ左翼判事のサディスティックな嗜好すら漂っていそうだ。

 

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 こういう激しさを身に付けた民族と、いま日本人は向き合っているということになる。

 
 どちらが正しいかということではない。
 「精神性が違う」ということだけなのだ。

 
 精神性の違いに、“善・悪” はないし、“正・誤” もないし、“勝ち・負け” もない。

 

 ただ、ひとついえることは、人間は「正義」を振りかざすことで高揚感を覚える動物だということだ。


 さらにいえば、人間は、「正義」を掲げて相手を倒すことに快感を感じる動物でもある。
 その度合いが、たまたま今の韓国国民の方が、日本人より高いということにすぎない。

 

 

 このような韓国人と日本人のメンタリティーの違いは、朱子学文化の濃淡だけに還元できるものではない。

 

 両国の自然風土の違いということも大いに関わってくるだろう。

 

 先ほど、「日本人には、水に流すという “仲直り文化” がある」と書いたが、それは、「水に流せるほど水が豊富だ」ということなのだ。

 

 つまり、日本の自然は、立派な保水力を確保していることを意味する。
 すなわち、国土の大半を占める日本の山にはすべて森林があり、そこから生まれる枯葉などが腐葉土となって豊富なミネラルを含む水が海に流れる。
 それがプランクトンのエサとなり、それを食べる魚が増える。
 
 この水資源の完璧な還流が日本という国土を豊かにし、そこで暮らす人々の精神性をも規定した。

 
 すなわち、日本人はこの恵まれた自然資源のおかげで、
 「一度失ったものも、時期がくればまた回復する」
 という楽天性を身に付けたわけだ。

 

 ところが、朝鮮半島の自然は、人々にそういう思考を許さない。
 朝鮮の山間部には「はげ山」が多く、当然保水力がないため、土地は痩せ、洪水や渇水も多発する。
 彼らは、一度失われた自然のめぐみは、そう簡単には戻らないことを知っているのだ。
 

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 韓国では、この朝鮮半島の「はげ山」は、日本が統治していた頃、日本人が朝鮮の資源も食料も強奪したからだ、ということになっている。

 

 しかし、実際は違う。
 作家の井上靖は、『風濤』という小説で、
 「朝鮮半島のはげ山は、元寇の折に、元軍が高麗人に朝鮮半島の木々を伐採して軍船を造らせたことが原因であり、その後も朝鮮半島の森林は十分に回復していない」
 という内容のことを小説内で記している。

 

 確か、司馬遼太郎も同じようなことを言っていた気がする。

 

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 さらにいえば、朝鮮半島の地質は、風化や浸食によって岩盤が露出する傾向が強く、そもそも木が生える可能性が乏しかった。

 
 これに加え、焼畑農業や、オンドルの薪として木を伐採することも盛んに行われ、それが朝鮮半島の自然をさらに貧しいものにした。

 

 もちろん、この両国の自然環境の差は、そこに生きる人間の感受性すらも変えた。
 
 われわれ日本人にとって、豊かな自然環境は「うるおい」とか、「いやし」の象徴となるが、韓国で生きてきた人々からすると、必ずしもそうではない。

 

 朝鮮半島で生まれ、朝鮮で幼少期を過ごした作家の五木寛之は、あるエッセイのなかで、こんなことを言っている。

 

 日本が戦争に負け、半島で暮らしていた日本人もみな祖国に戻ることになったとき、近づいてきた日本の風景を船から眺めた幼い五木氏は、その不気味な光景に立ちすくんだという。

 

 陸地という陸地に木が生い茂り、その葉先が海の上にまでどっぷりと垂れている。
 五木少年は、日本という風土が持っている過剰な生命力に不吉なものを感じ、不気味に思えたらしい。

 

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 もしかしたら、この体験が「作家・五木寛之」を生んだのかもしれない。


 少年期の五木氏が見たのは、あくまでも日本の自然環境でしかなかったが、もしかしたら、彼はその体験に、日本人の精神が抱える “不気味さ” を重ね合わせたのかもしれない。

 
 つまり、日本人というのは、まるで自然が勝手に繁茂するような “成り行き” で生きているということなのだ。

 

 日本では、人間関係においても組織構成においても、はっきりした命令系統があるわけでもないのに、いつのまにか人が動いて、何事かが進行していく。

 
 そこには、人間を超えた「自然」の摂理が、そのまま人間関係までをも支配しているという不気味さがある。

 

 五木氏はそう感じながら、その違和感を文筆活動のモチーフにしていったのかもしれない。

 

 
 このように、韓国と日本では自然環境そのものが異なるため、それが両国の国民感情に “良い面” と “悪い面” をもたらした。

 

 韓国の苛烈な自然は、人間関係においても容赦ない関係をつくり出したが、日本の “豊かな自然” は、ある意味で日本人を甘やかしたともいえる。
 
 つまり、日本人は敵同士になっても、最後は「水に流して」仲良くするという文化をつちかってきたわけだが、けっきょくそれは、「まぁまぁ、なぁなぁ」というお互いを甘やかす関係を生んだ。

 

 たとえば、「喋らなくてもお互い分かるよな」という以心伝心(いしんでんしん)の心とか、阿吽(あうん)の呼吸といった間の取り方。
 そして、
 「命令されるまえに、上司の気持ちを汲んでおこう」
 という忖度(そんたく)。

 

 こういう非会話的なコミュニケーション文化が日本では一般的になったが、それは、ある意味人間関係に「甘えの構造」をもたらした。

 

 言語化されないがゆえに、証拠や証言も残らず、いわば無責任な人間関係をつくりやすくなるのだ。
 
 さらに、これがもっと大きな組織の問題にまで広がると、ある上層部の決断が膨大な被害をもたらしても、誰もその責任を取らないという最悪の事態をもたらすことになる。
 その最たる例が、第二次大戦中の日本の軍部とそれを補佐した政治家たちである。

 

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 あのような悲惨な戦争を遂行しながら、けっきょく誰も責任を取らずに戦後を迎えてしまったために、今を生きるわれわれ自身が、あの戦争を「自分の責任」として自覚する契機を持ちにくくなっている。


 韓国から突き付けられた “歴史問題” というのは、まさにそこを突かれたわけだ。

 

 「あなた自身は関わっていなくても、あなたの属している国家は、かつてひどいことしたのですよ」
 と、“正義” にこだわる韓国人はそう責めているのである。

 

 こういう “責め方” は、昔からライバル同士のいざこざを “水に流してきた” 日本人にとっては理不尽極まりないことだろう。

 
 しかし、そういう日本人の常識が通じないのが、国際社会というものなのだ。
 だから、自国の常識だけ掲げていても、「外交」で勝利することはできない。
 
 
 最後に、結論めいた話になるが、けっきょく豊かな自然を持つ民族、あるいは豊かな風土からは「思想」というものが生まれない。

 

 「文化」には、その土地・その民族の豊かさが反映されるが、「思想」は “欠如” から生まれる。


 ユダヤキリスト教(そしてイスラム教)的な一神教の思想は、砂漠を背景に持つ乾いた風土からしか生まれなかった。

 

 “貧しさ” がはぐくむ「思想」は、人間にものを考える契機を強いるが、ものを考えなくても生活が満足される “豊かさ” は、人間を惰弱(だじゃく = へたれ)にする。
 
 「へたれでもいい」というのが、今の日本人だ。
 「意地を張り合ってケンカするよりも、へたれ同士で仲良くなろう」
 というのも、一つの考え方だからだ。
 誰がそれを責められる?

 

 それはそれで、「幸せ」の一形態であることは確かなのだから。
 

 

 

ラグビーで活躍する “古代戦士” たち

 ラグビーワールドカップを面白く観ている。
 最初はそれほど関心がなかった。
 しかし、日本代表が初戦でロシアを破ってからがぜん興味が湧き、他のチームの試合もフォローするようになった。

 

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 ラグビーに熱い関心を持っていたのは、もう40年ぐらい前の話だ。
 若い頃の年末年始の楽しみは、ラグビー観戦だったのだ。 

 

 北島監督のいた明大ラグビーが好きで、そのときのスタープレイヤーだった松尾雄治の後を追って新日鉄釜石のファンになり、その後は平尾誠二のカッコ良さに惹かれて、同志社神戸製鋼を応援するようになった。

 

 いずれにせよ、古い話だ。
 松尾や平尾が現役を去ってからは、だんだんラグビーへの関心を失い、その後は日本のラグビーがどういう進歩を遂げていたのかも、ほとんど知らなかった。

 

 しかし、今回のワールドカップを観て、一種のカルチャーショックに近い衝撃を受けた。

 

 恥ずかしい話を告白すると、最初はテレビ画面を観ただけでは日本チームとは思えなかった。
 


 外国人が多い。
 相撲取りやプロレスラーを彷彿とさせる体型の人が多い。
 奇抜な髪形の選手が多い。

 

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 サッカーに比べると、同じ「フットボール」を名乗るスポーツでも、選手たちの雰囲気があまりにも違いすぎるため、違和感を払しょくするのにしばしの時間が必用だった。

 

 しかし、観続けているうちに、昔、早明戦やら新日鉄釜石とか神戸製鋼の試合をフォローし続けていた頃の感激がよみがえった。

 

 ただ、今回のワールドカップに出てきた選手たちから受ける迫力は、昔とはまるっきり違っていた。

 

 古代のスパルタ兵やらローマ兵が出てくる歴史映画の戦闘シーンを見ている感覚に近い。


 「古代戦士たちの復活」

 そんな言葉を与えたくなった。

 

 思えば、ここ最近のスポーツは、妙に都会的に洗練されてきた。
 オリンピックの種目をみても、スケートボード、サーフィン、BMX、スポーツクライミング、ビーチバレーなど、元来は遊びの部門から発達してきたものが増えてきた。

 

 そういう競技を支えるのは若者が中心となるから、参加者の顔を見ても、男子はイケメン、女子は美女が増えてきた。
 彼らの身体は細く、スマートで、とても都会的である。

 

 そういうアスリートたちが主流になり始めたとき、ラグビー選手たちが発散する野性的な “男臭さ” には意表を突かれた。

 

 日本人なら、頭の上に戦国時代の兜(かぶと)でも載せた方が似合いそうな顔立ちだし、外国人は、海上から敵地に上陸するバイキングのような顔をしている。

 

 つまり、彼らの肉体は、何百年という時の風雪をかいくぐり、現代に突如タイプスリップしてきたような迫力を発散している。

 

 ニュージランド選手たち(オールブラックス)が試合前に披露する踊り(ハカ)をみても、明らかにサッカー文化とは異なる “匂い” を感じる。

 

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 ニュージランドの先住民マオリ族の男たちが、部族間の戦闘の前に、自分たちの戦意を高揚させる儀式が「ハカ」の起源だというが、そういう太古の儀式にこだわる現代スポーツが、ほかにあるだろうか。

 

 そこにサッカーとの大きな違いをみた。

 
 ひたすら洗練の極致に向かおうとしているサッカー文化に対し、ラグビー文化は、原始時代から一貫して求められてきた “男の生存原理” というものにこだわり続ける。

 

 そういう時代錯誤的な “野蛮さ” と、高度な訓練とスピードに保証されたスマートな戦術。
 そのアクロバティックな取り合わせが、現代ラグビーの面白さなのだろうと思う。
  
 ラグビーワールドカップからはしばらく目が離せない。

 

 

陸の帝国(中国)の復活

 ドイツの哲学者カール・シュミットによると、
 「世界史は、“陸の国家” と “海の国家” の戦いだった」
 という。

 

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 もちろん “陸の国家” の歴史の方が古い。
 古代の西アジアに栄えたアッシリア帝国ペルシャ帝国。
 中世のサラセン帝国。

 東アジアでは、中華帝国モンゴル帝国
 近世の中東を支配したオスマン帝国
  
 古代から近世にかけての世界史は、このようなアジア型専制君主が統治する大帝国が版図を広げる歴史だった。
 フランスの “ナポレオン帝国” やナチスドイツの “第三帝国” なども、陸の国家の部類に入る。

 

 船による大量の物資や軍隊の輸送が可能になるまで、大軍団を派遣するのは陸路しかなかったから、“陸の国家” が近隣の小国を併合し、広大な領土を獲得していくのが当たり前だったのだ。 
 
 
 これに対し、“海の国家” として世界制覇を成し遂げたのが、18~19世紀のイギリスである。

 

 イギリスは大陸型の諸国家に比べ、国土も狭く、人口も少なかった。
 そのため、大陸国家に対し、陸上で戦いを仕掛けるには、ハンディがありすぎた。

 

 そこで、洋上に活路を求め、陸型国家の “海の通商網” を切り裂くという戦略に出た。
 すなわち、海賊である。

 

 近世ヨーロッパ最大の陸軍国家スペインは、南米のインカやアステカを征服し、そこで略奪した金銀財宝を船に積んで本国に搬送することで富を築いていた。

 

 イギリスの海賊たちは、その大西洋を行き来するスペイン船を襲い、スペインが略奪した南米の財宝を海上で横取りしたのだ。

 

 これがイギリスの富の源泉となった。
 彼らは、ヨーロッパ最強の海軍を建設。歴史上初の海洋国家として世界制覇を成し遂げた。
 

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 アメリカもまた、イギリスの血を受け継いだ海洋国家である。
 アメリカ大陸そのものが広大だから、海洋国家というイメージは薄いが、第二次大戦では、大西洋を横切ってナチスドイツと戦い、次に太平洋を越えて日本を制圧した。
 いずれの戦いも、それを支えたのは相手国の海域で空軍を展開できる海軍力だった。


 こうして、20世紀は、イギリス/アメリカというアングロサクソン系民族による海洋国家が、アジア/ヨーロッパの陸型諸国家をコントロールするという形で推移した。

 

 この海洋国家群の勝利を、政治的には「自由主義の勝利」といい、経済的には「資本主義の勝利」という。
  
  
 しかし、21世紀になると、大陸型国家の逆襲が始まった。
 その一つが中国であり、もうひとつはロシアである。
 ともに、かつては「共産主義」というイデオロギーで自国を染め上げていた大国だ。

 

 中国には、秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清という壮大な王朝の歴史があり、ロシアにはロマノフ王朝という絶対権力を確立した歴史があった。

 

 その二つの “陸の帝国” が、イギリス・アメリカ型の “海の王国” の優位性をくつがえして、再び地球上にその覇権を確立しようとしているのが現在だ。

 

 特に、経済力でアメリカに次ぐ力を持ち得た中国の発展には目を見張るものがある。
 広大な版図、膨大な人口。
 アメリカをしのぐまでに発展した IT テクノロジー
 今の中国は、歴代中華王朝のなかでも、最強の陸上帝国を築きつつある。 

 

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 このように、「陸」の勢力が「海」の勢力に反転攻勢を仕掛けられたのは、やはり核兵器とミサイルという “海を超える兵器” の配備が充実してきたからだ。
 さらには、21世紀型のサイバー兵器が発達したことも挙げられる。
 サイバー兵器の進展によって、“海” と “陸” という地勢的な区分けはまったく意味を失った。

 

 そうなると、中国のような、広大な領土と莫大な人口に支えられたシンプルな “数の論理” が、けっきょく「国力」そのものとなる。

 

 その中国の “国力” に押されて、現在香港(ホンコン)で起こっている民主化デモも早晩鎮圧されるだろうし、次は台湾が中国に呑み込まれるだろう。

 過去にも、中国はチベット人を弾圧し、ウイグル民族を弾圧して、中国政府への抵抗を封じ込めてきた。

 

 こういう弾圧政策は、ある意味、中国の立場に立つとやむを得ない部分がある。
 中国のように、文化や宗教の異なる多民族がひしめき合う国家になると、個々の民族の自由を容認すると収拾がつかなくなる。

 

 収拾がつかなくなれば、分裂が生まれ、反乱が生まれる。
 それを防ぐために、中国は強力な国家理念を掲げて人民を管理しているのである。
 
 
 では、国家による管理が強くなると、個々の人民はどうなるのか。

 どの人も、人間性を「数値」に還元して理解するような思考を自然に受け入れるようになる。


 具体的には、たくさん儲けて、お金持ちになれる人を「優秀な人間」と評価する傾向が強まる。

 言葉を変えていえば、それは「人間のAI 化」である。
 
 実際、いま中国では、人間の能力や個性をAI を使って数値化していくことがブームとなり、結婚でも企業への就職でも、AI による人間評価が重視されつつあるという。

 

 つまり中国では、新しい “人間観” が生まれつつあるのだ。

 

 こういう人間観の先に見えてくるのは、人間の「個性の違い」よりも「同一性」を重んじる社会だ。

 そういう社会では、「個々人の違い」を前提とする「民主主義」という政治思想も必要なくなる。
 
 
 こういう中国社会の動きを「民主主義の死」として捉えるような危機感は、現在のアメリカにはない。

 

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 トランプ大統領の頭のなかにあるのは、中国との貿易戦争を通じて、最終的には、アメリカがどれだけ利益を確保できるかどうかということだけであり、東アジアの民主主義が危機的状況に陥っているかどうかということに対しては、トランプ大統領の感受性では捉えることができない。

 

 「陸の大国」として復活した中国に、かつての「海洋王国」アメリカが破れていくのは時間の問題という気もする。
 
 アメリカの凋落を招いたのはトランプだという意見も多いが、そもそも斜陽に傾いたアメリカそのものがトランプを登場させたという言い方もできる。
 
 同じことがイギリスにもいえる。
 EU離脱問題にいまだに決着を付けられないイギリスも、かつて海洋国家として “七つの海” を支配した頃の面影はない。

 
 イギリス議会を混乱に導いているボリス・ジョンソン新首相も、凋落していくイギリスそのものが生んだ指導者といえる。

 

 このような “西側諸国” の劣勢を計算した韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は、日米韓の連携を抜け出し、北朝鮮や中国などに歩み寄る姿勢を見せ始めた。

 

 要は韓国でも、強大な勢力を確立した文在寅ムン・ジェイン)政権によって、民主主義が死滅しようとしているのだ。

 

 文在寅ムン・ジェイン)政権を支える政治勢力(「共に民主党」)は、民主主義運動を推進する「進歩派」を語っているが、それは現在香港などの若者が掲げる民主主義とはまったく別ものである。


 つまり現在の韓国大統領府(青瓦台)は、自分たちの保身と利益を優先する既得権益集団と化してしまっている。

 

 そもそも「民主主義」という思想そのものが、第二次大戦後の一時期だけ可能になった奇跡でしかなかったという見方もあるのだ。

 

 日本はそれを守り続けるのか。
 それとも、それに代わる新しい政治理念を打ち立てるのか。

 

 いずれにせよ、深刻に考えないと、東アジア全体から「民主主義」は霧散していく。 

文在寅大統領のしたたかな野望

 ここ1ヶ月ほど、日本のメディア(特にテレビ)は、ほとんど連日 “戦後最悪” といわれる日韓関係の報道に徹している。


 現在その話題の中心は、文在寅ムン・ジェイン)大統領の最側近で、文(ムン)氏の後継者として次期大統領の候補と目されている曺国(チョ・グク)氏の不正疑惑について集中している。

 

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 識者のなかには、
 「安倍首相に対する “モリカケ騒動” などをあっさりパスした日本のマスコミが、隣国大統領側近の不正問題などを過熱報道するのはおかしい」
 という人もいる。

 

 確かにそうだが、現在隣国で展開しているこの文在寅ムン・ジェイン/曺国(チョ・グク)騒動の方がはるかに面白いのも事実だ。
 すでに多くの人が指摘するように、これは “生きた韓流ドラマ” であるかもしれない。

 

 しかし、この文在寅ムン・ジェイン)大統領をめぐる一連の騒動は、韓国内の革新勢力と保守勢力の政権闘争を超えた新しい問題を提起している。

 

 すなわち、これは半島国家の韓国が、三方を海に囲まれた “海洋国家” から、大陸の中心部をめざす大陸国家へ移行しようとするきっかけをつかもうとしている騒動なのだ。

 

 文在寅氏の頭にあるのは、北朝鮮と一体となった “ワンコリア” 構想である。
 韓国と北朝鮮が統一されれば、韓国にとって、北朝鮮は大陸への大きな橋頭保となる。

 

 北朝鮮にも海はあるが、その領土的特徴は、半島というよりも、むしろ中国やロシアの国境に食い込む大陸国家としての性質を持っている。

 

 そうなると、統一朝鮮は、国境を接する中国やロシアの旧共産主義陣営と友好的な関係を構築していかなければならなくなる。

 

 「それでいい」
 と文大統領は舵を切った。

 

 「反日」「GSOMIA(ジーソミア)の破棄」といったカードを日本に突き付けた文在寅ムン・ジェイン)大統領は、これまでの “アメリカの飼い犬” という役割を捨て、領土的にも近い中国やロシアとの協調関係を重視するという方針を掲げたのだ。

 

 日・米・韓という自由主義陣営の安保体制を基本に考えてきた日米政府からみると、文(ムン)大統領の方針は、現実を直視することのない無謀な決断に映る。

 

 しかし、もしかしたら、文(ムン)氏というのは、「理想」ばかり追う夢想家ではなく、実はその逆の、案外したたかなリアリストかもしれない。

 彼は、
 「日・米・韓といった軍事同盟は20世紀の遺物にすぎない」
 と、早い時期から見切りを付けていたように思う。

 

 彼は、学生運動のときに身に付けた「社会主義的正義感」を振りかざすだけの原理主義者ではなく、むしろ、中国のプレゼンスが増大していく新しい東アジアの秩序に対応しようとする現実主義者かもしれないのだ。

 
 では、文(ムン)大統領の頭のなかには、どういう韓国の未来像があるのだろうか。
 「朝鮮半島に “核” を持った新国家を誕生させる」
 というビジョンである。

 

 北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)委員長が、アメリカとどういう交渉を続けようが、けっきょく金正恩は「核」を手放さないと文在寅ムン・ジェイン)は見抜いている。
 むしろ、「核」をもった北朝鮮と一体化した方が、文在寅にとっても有利である。

 

 核兵器を持つワンコリアが誕生すれば、同じ核保有国である中国やロシアと対等に接することができるし、アメリカに隷属するという戦後構造から抜け出すこともできる。
 彼の頭のなかには、そういう計算があるように思える。

 
 しかし、問題がひとつ。
 北朝鮮が、はたして韓国との統一話に乗ってくるかどうか。

 

 現状では無理である。
 これに関しては、文(ムン)氏も、北朝鮮の金(キム)委員長が、韓国からの呼びかけに対して冷たい返事しか送ってこないという現実に直面している。

 

 韓国との間に経済格差や文化格差を抱える北朝鮮の金(キム)委員長は、南北統一によって、北朝鮮人民の精神的崩壊を恐れているのだ。

 

 だから、半島の統一が実現するとしたら、それは北朝鮮主導型の “赤化統一” しかあり得ないというのが日本やアメリカの識者のこれまでの見立てだった。
 もちろん私もそう思っていた。

 

 しかし、文在寅氏は、もしかしたら赤化統一ではなく、韓国主導型の半島統一を密かに画策しているかもしれない。

 

 どういうことか。

 

 もし、南北統一が実現されたら、韓国経済や韓国文化に触れた北朝鮮人民は、資本主義社会の豊かさに圧倒され、あっという間に耐乏生活に耐えてきた精神力を骨抜きにされるはずだ。

 

 そうなると彼らは、それまで自分たちを抑圧していた金正恩キム・ジョンウン)政権に反旗を翻すかもしれない。
 場合によっては、北朝鮮軍によるクーデーターが勃発することも考えられる。

 

 そのときは、韓国軍が北朝鮮軍の動きに呼応して、金正恩政権を倒す。
 文在寅氏(ムン・ジェイン)という人は、そのくらいのことをやりかねないしたたかな政治家だ。

 

 南北対談のときは、文在寅ムン・ジェイン)氏は、金正恩キム・ジョンウン)氏に親し気に握手を交わし、顔全面に好々爺といった笑みを浮かべていたが、その内心はどうであったか。

 

 彼は案外、韓国主導による北朝鮮併合を計算していたかもしれない。

 

 もちろん、そういうことが起こったときには、文在寅氏はすでに大統領職から退いている。

 
 しかし、今回法相になった曺国(チョ・グク)が自分の跡を継ぎ、その次も “親北朝鮮” 的な革新政権が続いていけば、文氏の野望はやがて達成される。

  
 曺国(チョ・グク)氏は、その文(ムン)氏の意志をより強固に推進していく政治家だといわれている。

 

 彼らのプロパガンダの推進力となっているのが、「反日」だ。

 

 文在寅ムン・ジェイン)氏や曺国(チョ・グク)氏の掲げる反日思想は、ナチス政権の掲げた反ユダヤ思想に非常に酷似している。

 

 ヒトラーは、ドイツ国民の団結力を高めるために、反ユダヤ主義を呼びかけることを思いついた。

 
 そして、ドイツ人たちに、ユダヤ人商店への不買運動を呼びかけ、ユダヤ商人の店には “立ち入り禁止” の札を貼り、ユダヤ企業をつぶしてその資産を没収した。

 

 「日本製品不買運動」、「日本 “戦犯企業” 商品のレッテル貼り」など、現在の韓国文政権に同調する様々な組織による反日行動は、まさにナチス政権下のユダヤ弾圧そのものを踏襲しているように見える。

 

 だが、ヒトラー反ユダヤ主義が、やがて国際社会の裁きを受けたように、文(ムン)政権の反日主義も長くは続かないかもしれない。

 

 これもすでにいろいろなメディアで報道されていることだが、文政権の極端な「反日プロパガンダ」の異様さに気づいた韓国の若者たちがたくさん生まれているという。

 

 そういう新しい韓国の若者と、どういう連帯を持つべきか。


 それがこれからの日本政府と日本のメディアに課せられたテーマである。
 文政権の「反日」に対抗するために、日本人の間に「嫌韓」を煽ることこそ、もっとも愚かな行為である。

  

民主主義の時代は終わったのか?

 2017年に、トランプ氏がアメリカの大統領に就任して以来、世界が劇的に変わった。

 

 その最大の特徴は、第二次大戦後にスタートした西側諸国による「自由と民主主義」を標榜する政治理念が地盤沈下したことだ。

 

 経済的にみれば、それはグローバル経済の終焉であり、閉ざされた保護貿易の復活という形をとった。


 世界はどこの国においても、「自国ファースト」の政策に急速に舵を切り、国際政治のテーマから国同士の「協調」や「助け合い」という理念が縮小していった。

 

 「自国ファースト」というのは、いってみれば、それを標榜する国家元首の「自分ファースト」を意味する。


 つまり、権力者のわがままがその国の政治を左右し、しいては国際社会のルールすら変えてしまおうという政治が生まれてきたのだ。

 

 アメリカのトランプ大統領
 中国の習近平主席。
 北朝鮮金正恩委員長。
 ロシアのプーチン大統領
 イギリスのボリス・ジョンソン首相。
 そして、いま話題の韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領。

 

 これらの21世紀に出現した政治リーダーは、基本的にみな「自分ファースト」の政治家である。

 

 これに、ブラジルの新しい大統領ジャイール・ボルソナーロ。
 フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領を加えてもいいかもしれない。

 

 これらの新興国国家元首に共通していえることは、みなアメリカのトランプの政治を参考にしているか、もしくはトランプに共感していることだ。

 

 すなわち国益よりも、自分の人気の方を優先し、その人気を維持するためには、国民にフェイクニュースを流すことなども日常茶飯事。国民の気持ちが離反しそうになると、国外に仮想敵国をつくり、小気味よい口調でその国を批判する。

 

 こういう政治家が現れると、昔の国民は “独裁者” として警戒したりしたが、現在はその “独裁者” を支持することが国民のひとつの “遊び” になってきている。

 

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 では、世界で何が起こっているのか。

 

 「民主主義」というものが死滅しかかっているのだ。

 

 民主主義が定着するには、その国において、ある程度の経済成長が維持されており、かつ国民の教育レベルが高く、経済格差が少ない社会であることが条件となる。
 
 そういった意味で、20世紀の民主主義をもっとも体現した国家は、戦後の高度成長期を体験した日本だけだったかもしれない。

 

 しかし、21世紀になると、どの国家においても、経済格差や教育格差が拡大し、民主主義が機能する土壌が崩れ始めた。

 

 地球規模で、「21世紀型不平等社会」が出現したのである。

 

 こういう社会においては、国民はみな困っている人に手を差し伸べようという余裕を失い、誰もが自分より裕福な人々にジェラシーを抱くようになる。
 つまり、お互いに相手の意見を尊重し合うという「民主主義」的精神が希薄になっていくのだ。

 

 実際に、ロシアのプーチン大統領は、自由主義諸国が育ててきた「民主主義」に対し、「もうそれは時代遅れの思想だ」と断言するまでになった。

 

 イギリスの新首相になったボリス・ジョンソンも、さっそく民主主義的手法を排除し、自分の独断で議会を閉会してしまった。

 

 韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は、閣僚から裁判官まで自分に忠誠を誓う左派系の人材で固め、反対する声を徹底的に弾圧している。

 

 アメリカのトランプ大統領も、基本的に民主主義という思想にほどんど共感を示さない。

 

 こういう「自分ファースト」を行動原理にしている国家元首たちは、国を統合するという意志を最初から持たない。


 むしろ、「分断」と「対立」を煽る。

 

 国を統合するということは、きわめて理性的な地道な努力を要求する。
 国民の知性を訴えかけなければならないからだ。

 

 そういう努力の積み重ねが「民主主義」の基盤になるのだが、21世紀の国家元首たちは、この理性的な国民統合を放棄し、「分断」と「対立」を煽る道を選んだ。

 

 政治家の演説においては、威勢よく「分断」と「対立」を叫ぶ方が「相互理解」や「友愛」を求めるよりも人気を得やすい。
 人間は、感情的な動物だからだ。
 
 そのことを知っている新時代のリーダーたちは、最初から100%の国民の支持など期待しない。
 40%程度の支持があれば、十分に国家運営ができると思っている。

 

 つまり、知性的な国民の60%の支持を期待するより、感情的に熱狂しやすい40%の岩盤支持層さえあれば、自分の地位は安泰であるということを新しいリーダーたちは分かってきたのだ。


 こういう政治リーダーたちの精神的背景になっているものは何か?

 

 「権力欲」

 

 身も蓋もない言い方をしてしまえば、その言葉に尽きる。

 
 しかし、権力欲というのは後天的に目覚めるもので、それ自体は人間の本能ではない。

 

 最初から権力欲を満たしたくて、誰もが政治家になるわけではない。
 ほとんどの政治家の場合、その最初の動機は、国民や共同体に奉仕するというピュアな使命感であったはずだ。

 

 つまり、権力欲というのは、権力を手にできるようになった人間が、組織や他人を自在に動かせるようになってはじめて芽生えてくる “欲望” である。

 

 それはすさまじいほどの “快感” を権力者に授ける。
 独裁者というのは、そういう権力に対する “欲望” を自分だけが独占したいと思う人間のことだ。

 

 現在、この欲望にいちばんどっぷり浸かってしまったのが、韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領である。

 
 彼は、清廉潔白な “人権弁護士” という看板を掲げて政界に進出したが、大統領に就任してから、権力を行使することの快感を知ってしまった。

 

 (繰り返しになるが、)彼は前政権の息のかかった閣僚をことごとくパージし、最高裁の判事たちまで、自分と同じ思想の人間を抜擢し、韓国の左派系大統領としては、かつてないほど強力な執行体制を築いた。

 

 そうやって、権力の頂点に登りつめた人間は、今度はその座を奪われることに対する恐怖や不安と戦うことになる。
 彼の最近の常軌を逸した日本バッシングの言動などをみていると、すでに病(やまい)の兆候すら感じ取れる。

 

 さらに、GSOMIA(ジーソミア)破棄に関しては、アメリカまで騙そうとして、トランプ大統領に「信用できない人物だ」とまで批判された。

 

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 文在寅ムン・ジェイン)氏の悲願である朝鮮半島の南北統一は、北朝鮮金正恩委員長がいるかぎり実現することはない。

 

 文在寅ムン・ジェイン)氏が、いくら北朝鮮へラブコールを送っても、金正恩委員長から冷たい返事しかもらえないのは、金正恩にその気がないからだ。

 

 考えてみれば簡単なことである。


 アメリカ文化になじみ、豊かな食生活や娯楽文化に慣れ親しんだ韓国の人々が、今の貧しい北朝鮮の人民と交流するようになれば、金委員長には、もう貧しい生活に耐えてきた北朝鮮の人民をコントロールすることが不能になる。

 それは、彼が維持してきた体制の崩壊につながる。

 

 だから、金正恩委員長の頭には、あくまでも北朝鮮主導型の南北統一しか存在しない。


 そして、現状ではそれすらも困難であることを金委員長は分かっているから、彼は即急な半島統一を望んでいない。

 

 それを韓国の文在寅ムン・ジェイン)大統領は理解できているのかどうか。

 

 それとも文氏は、北朝鮮に対する韓国の圧倒的な “経済力” と “文化的優位性” で、金正恩体制を圧倒するつもりでいるのだろうか。

 

 いずれにせよ、文在寅氏は、日本人の心を読めない以上に、同族である北朝鮮の人々の気持ちも読めていない。

 

 幸いなことに、硬直化した文氏の思考に懐疑的な韓国の若者が増えてきているという。
 それは日本にとって朗報である以上に、韓国民にとって素晴らしいことだと思う。