アートと文藝のCafe

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ザ・ローリング・ストーンズのブルースまでの長い旅

ザ・ローリング・ストーンズ展 5月6日まで開催

 

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 5月6日まで、東京の「TOC五反田メッセ」で、「ザ・ローリング・ストーンズ展」が開かれている。
 
 それを記念して、4月19日(金)には、彼らの最新CD『HONK』も発売された。
 
 この『HONK』は、これまでの彼らのヒット曲の大半が網羅された36曲入りのベスト盤で、ストーンズの半世紀を振り返るには最適なアルバムかもしれない。

 

 だた、私がここで取り上げたいのは、その『HONK』ではなく、2016年にリリースされた彼らのブルースアルバム『ブルー&ロンサム』である。

 

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 『HONK』のなかにも、このアルバム収録曲の一部が取り上げられているが、やはりブルースに関してはアルバムを通して聞いて、多くの人がその “コク” をたっぷり味わってほしいと思っている。 

 


彼らはようやくブルースを手に入れた !
 
 で、
 「ようやく !」
 …… と、私は言いたいのだ、このアルバムに関しては。

 「ようやくブルースにたどり着いたな」
 というのが、聞いたときの正直な第一印象だ。

 

THE ROLLING STONES - Everybody Knows About My Good Thing (Blue and Lonesome)

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▼ デビューアルバムのジャケット

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 ザ・ローリングストーンズに関しては、私はデビューアルバムから買っていた。
 1964年にリリースされたファーストアルバムに収録された曲は、

 

  I Just Want to Make Love to You  (Willie Dixon)
  Honest I Do  (Jimmy Reed)
  Mona (Bo Diddley)
  I’m a King Bee  (James Moore)

 

 など、ブルースのオンパレード。
 さらに、

  Carol (Chuck Berry
  Can I Get a Witness  (Brian Holland/Lamont Dozier 他)
  Walking The Dog (Rufus Thomas)

 といったロックンロールやR&Bで埋め尽くされていた。


 いわば、大半が黒人音楽のカバー集といえるようなアルバムだったのに、当時の私は、ザ・ローリング・ストーンズの演奏からはまったく “黒っぽさ” を感じなかった。

 

 ずっと後になってもこの思いは変わらず、ストーンズサウンドのルーツを解説するときに、必ず音楽評論家たちがいう、
 「彼らの原点は黒人ブルースにある」
 という話を、ほとんど信用しなかった。

 

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▲ 若い頃のストーンズ

 

 
ブルースに失敗したからこそストーンズサウンドがある

 

 これに関して、チェスレコードの創始者であるレーナード・チェスの息子マーシャル・チェス(↓)は、BSの音楽番組で、面白いことを言った。

 

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 それは、次のような言葉だ。
 「ストーンズは、黒人ブルースをやろうとしたが、それができなかった。だから、結果的に “ストーンズサウンド” を確立させることができた」

 

 ストーンズのメンバーは、1964年にブルースの聖地であるシカゴに渡った。

 
 このとき、当時の彼らにとってはアイドル的な存在であったマディー・ウォーターズやチャック・ベリーが在席していたシカゴのチェスレコードに寄り、そこでレコーディングを体験している。

 

 当時の顛末をレーナード・チェスの息子であるマーシャル・チェスが観察している。


 後に、マーシャル・チェスは、ストーンズとずっと行動をともにすることになるが、彼らをからかうときに必ずいう言葉があるそうだ。

 

 それが、
 「あんたたちは、チェスレコードがつくり出すような黒人のサウンドを追求しようとしていたが、ついに成功しなかったね (笑)、だから逆に今のあんたたちがあるのさ」
 というセリフ。
 
 これは言い得て妙だと思った。

 

 
ミック・ジャガーの声質はブルース向きではない

 

 もし、彼らがもっと器用で、黒人ブルースやR&Bの真似が上手だったら、案外1970年代ぐらいに消えていたかもしれない。
 
 白人なのに黒人音楽が好きなグループだったら、60年代から70年代にかけて、イギリスにはいっぱいいたからだ。

 

 しかし、ストーンズは、黒人音楽への情熱とリスペクトは溢れるほど持っていたにもかかわらず、黒人のサウンドを真似することが不得手だった。

 

 特に、ミック・ジャガーのボーカルは、声の調子をどう調節しようとも、黒人の声質に近づくことができず、「ミック・ジャガー」という人間のボーカル以外の音を出せなかった。

 

 「だからこそ成功した」
 というのは、マーシャル・チェスの言う通りである。
 
 “下手くそ” (?)な、ブルースコピーバンドとして誕生したザ・ローリング・ストーンズの54年目のブルースアルバムが、この『ブルー&ロンサム』。

 

 実は、ストーンズのオリジナル曲が1曲もないブルースのフルコピーアルバムというのは、これが初めてであるという。

 

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 「もともと、今回はブルースアルバムなど作る気はなかったんだ」
 と、ギタリストのキース・リチャーズ(↑)はいう。

 


やっぱり彼らはブルースをリスペクトしている!

 

 オリジナルのニューアルバムをつくる “準備体操” として、みんなが練習しなくても演奏できるブルースで “肩慣らし” をするという意図しかなかったとか。

 

 そうしたら、みんなブルースに熱中してしまい、次から次へとブルース曲を演奏し続けることになった。

 

 「そうやってレコーディングしたものを聞いてみたら、これアルバムになるじゃないか !」
 という話になった、とキース・リチャーズは語る。
 
 今回のアルバムを聞いた私も、「ようやくストーンズがブルースを手に入れたな」と思った。 

 
 彼らの体内を駆け巡っていた黒人ブルースの血流が、息遣いとして吐き出されるのに、53年かかったのだ。

 

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 (写真 左から)
 チャーリー・ワッツ 77歳
 キース・リチャーズ 75歳
 ミック・ジャガー 75歳
 ロン・ウッド 71歳

 

 たいしたジジイたちだ。
 
 私が、彼らのアルバムを初めて買ったのは17歳のとき。
 そのとき、ミック・ジャガーは23歳だった。

 
 私もまた、彼らと53年付き合ったことになる。
 
 

 
関連記事 「ローリング・ストーンズビートルズの違い」 

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関連記事 「I'd Rather Go Blind 」 

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『燃えよ剣』に描かれたテロリストの美学

 司馬遼太郎の人気小説『燃えよ剣』の映画化が決まり、2020年に公開される予定だという。
 
 主人公の歳三を演じるのは、岡田准一
 近藤勇役は、鈴木亮平
 沖田総司役には、Hey ! Say ! JUMPの山田涼介。

 

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 ほか、芹沢鴨伊藤英明
 土方とからむ女性役には、柴咲コウ

 

 う~む ……
 人気キャストをずらりと並べた映画といっていい。

  


今の人は昔の新撰組評価を知らない

 

 時代がずいぶん変わったもんだ と、私などは思う。


 今の若い人は、みな土方歳三近藤勇という人物に、爽やかで颯爽とした “サムライ” のイメージを重ねているんだろうな。

 

 しかし、私の少年時代だった1950年代当時、「新撰組」といえば悪の代名詞だった。

 司馬遼太郎が『燃えよ剣』を描いた1967年においても、土方歳三は主役でありながら、ダークヒーローとして登場したのだ。

 

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▲ 『燃えよ剣

 
 実際、写真を見るかぎり、新選組幹部の近藤勇土方歳三も、平然と人を斬ってきた人間の凄みを漂わせている。

 

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近藤勇 画像
 
 勇の写真からは、ドーベルマン土佐犬といった、戦う番犬の獰猛さが感じられ、歳三の写真には、優男の風貌を裏切るように、唇の端に酷薄そうな微笑みが浮かんでいる。
 

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土方歳三 画像
 
 はっきりいうと、彼らの顔は怖い。
 「人ひとりの命は、地球より重い」と教える戦後ヒューマニズムの世界で暮らしてきた我々とはまったく異質の倫理を生きていた人間たちの顔に見える。

 


訓練されたテロリスト集団「新撰組
 
 司馬遼太郎は、『燃えよ剣』ではっきりと新選組がテロ組織であることを謳っている。

 

 彼らは、「勤王派」の人間であればみさかいなく斬りまくり、仲間に対しては、粛正という恐怖政治で組織を鍛え上げた。

 

 その戦闘方法や粛正方法も、相手の油断に乗じた不意打ちや騙し討ちが多く、しかも、その計画は狡知を搾り出して周到に練られたものばかり。
 そういった意味で、今風にいえば、彼らは高度に訓練された「テロ組織」だった。

 

 このような陰湿さに、組織内の人間は長く耐えられるものではない。

 当然、隊を脱走する者もたくさん出てくる。


 隊の規律を守るため、歳三は、「剣の暴力」を神聖化して組織の団結を維持し、隊士の不満を「恐怖の力」で押さえつけようとした。

 つまり、脱走だけで、切腹が言い渡された。
 

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新撰組結党の 「精神」 を表す 「誠」 の文字
 
 このような歳三のメンタリティを説明するために、司馬さんは、歳三が百姓の出身であったことに着眼する。

 

 
武士の剣法とは違う百姓の剣法
 
 武士に生まれつかなかった “卑しい百姓” は、いかにしたら武士になれるのか。

 

 歳三は、
 「人を斬ること。闘いに勝つこと」
 だけに専念できる殺人マシンと化すことに、その答を求めた。
 
 彼は「武士道」を掲げながらも、実際の戦闘においては、百姓のケンカの延長として武術を捉えていたという。

 

 田畑の水争いなどで互いに権利を主張しあうとき、百姓同士の争いは陰惨を極める。
 田んぼのあぜ道に隠れて、いきなり後ろから棍棒で殴りかかる。
 卑怯だろうが、ずるかろうが、勝者としてその場に立ち尽くした者が「正義」だ。
 
 歳三は、そのようにして自分流の「武士道」を築き上げていく。 
 本物の武士たちが行う剣術道場での立ち会いなどは、歳三にすれば典雅なスポーツにしか見えなかった。
 
 「人を斬るための剣を持ちながら、今の武士たちは、剣を自分たちのステータスを満足させる飾りのように思っていやがる」
 
 歳三にもし教養があれば、彼はそうつぶやいただろう。

 

 そしてさらに、
 「今の時代では、武士という言葉は単なる “階級” を意味しているに過ぎず、 “戦士” であることを意味していない」
 と弁舌を奮ったに違いない。
 
 ただ、歳三の考える武士は「斬り合いに強い男」というイメージを超えるものではなかったから、「美学」にはなっても「哲学」にはならない。
 

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▲ 剣
 
 人を斬ったことによって、どんな世界が実現するのか。
 そういう哲学的かつ政治的な省察は、歳三の頭の中には生まれない。

 

 彼は、自分が斬った薩長浪士たちが頭に描くような「日本国改造アイデア」など、おそらく一度たりとも考えたことはなかったろう。
 
 そもそも、武士の時代が終わろうとしていた時代に、武士になろうということ自体、とてつもないアナクロニズム(時代錯誤)である。
 司馬遼太郎はそこに歳三や新撰組の悲劇を見た。

  

 
寡黙こそ、歳三の美学
  
 
 しかし司馬さんは、同時に「時代の流れに逆らっても、おのれの信じる道を曲げない男」として歳三を描いた。
 
 彼は、歳三の冷酷さに「意味」を与えたのだ。
 
 『燃えよ剣』の中の歳三は、自分の想う武士道を守るために、世間の悪評が重なることを恐れることなく、一番の汚れ役・嫌われ役を進んで引き受けていく。
 
 そして、そのことを、歳三は誰にも弁明しなかった。
 はなっから他人の理解などを求めないのだ。
 
 弁舌に酔う勤王派の志士たちに対し、自分は、
 「黙して語らず。ただ斬るのみ」
 という男を演じ続ける。

 

 そこには、
 「理屈は人をなまらせる」
 という偏狭な信念に裏打ちされた、歪んだ精神がある。
 
 しかしながら、その偏狭な信念がもたらせるヒリヒリするような緊張感と、その緊張感を糧として生き抜く男の「美学」は伝わってくる。
 

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栗塚旭さんがテレビドラマ 『燃えよ剣』 で演じた土方はカッコよかった

  

  
坂本龍馬と逆の道を歩んだ歳三

 

 結局、私がこの『燃えよ剣』に感動したのは、それまでは「悪の権化」に思われてきた男にも、別の角度から光りを照射すれば、そこに「美学」があることを発見したからだ。
 
 この小説の魅力は、負から正へ、邪から聖へと鮮やかに転換を遂げるときのダイナミズムにある。
 
 だから、土方歳三のことを、最初から「まばゆいヒーロー」としてイメージしている人たちには、この逆転の輝きが見えないだろうと思う。
 
 司馬遼太郎が、この『燃えよ剣』を書き始めたのは、司馬さんの人気を確定した小説である『竜馬がゆく』の連載の真っ最中だった。
 
 時代に対する鋭い洞察力を持ち、日本の進むべき道へのグランドデザインを描き、人に愛され、人を愛することを知る坂本龍馬
 龍馬と歳三は、何から何まで対極にいる人間同士だ。
 
 司馬さんが本当に描きたかったのは、坂本龍馬の方だったろう。
 ところが、書いているうちに、正反対の道を選んだ歳三への好奇心がつのって仕方がなかったのではなかろうか。
 

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坂本龍馬 画像
 
 光の下にさらされた物には、常に「影」がある。 

 幕末の激動期。
 竜馬という人間に「陽光」が当たり、彼の存在感がますます輝いていくのと歩調を合わせるように、ダークな世界を目指した歳三の「影」も濃さを増していく。

 

 
五稜郭に死に場所を求めて
 
 歳三の真骨頂が発揮されるのは、むしろ新撰組が崩壊してからだった。

 鳥羽伏見の戦いにも敗れた新撰組と幕軍は、北海道まで逃れ、五稜郭に立てこもる。
 
 しかし、官軍と幕府軍の戦いは、もう結末が見えていた。
 戦うための「大義」も、もう幕府軍からは奪われていた。
 
 にもかかわらず、歳三は、わらじと羽織を捨てて、ブーツとフランス風の軍服に着替え、武士のシンボルであった髷まで切り落として、官軍に最後の決戦に挑む。
 
 歳三は、「死に場所」を求めていた、と司馬さんは書く。
  
 彼は彼なりに、これまで斬り殺してきた無数の薩長浪士、そして粛清してきた隊士たちに、自分もまたその後を追う形で、落とし前をつけようとしていたという。
  

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新撰組 隊旗
 
 最後の決戦の日。
  「函館政府・陸軍奉行」
 という肩書きを持つ歳三は、その肩書を使わず、官軍の前で剣を抜き放ち、
  「新撰組副長、土方歳三!」
 と名乗りをあげる。
 
 そして、それを聞いた官軍は “白昼に龍の蛇行を見たごとく” 恐れおののいた ことになっている。
 
 事実は少し違うらしいけれど、司馬さんの描く歳三の心意気は、読者の胸を打つ。 
 
 
 坂本龍馬の死は、悲惨な死に方ではあったが、神に召されて命をまっとうしたという宿命性が感じられる。

 

 しかし、土方歳三の死は、自殺に近い意味のない死に方である。
 ただし、そこには強烈な美しさがある。
 
 日本人は、こういう死に方に弱い。
 

 

司馬遼太郎 参考記事 

campingcarboy.hatenablog.com

 

 

 

平成最後に「場末」を眺める

 「場末」って、好きだ。
 
 BASUE ……
 
 今、この言葉はどれほどまで機能しているんだろうか。
 ひょっとして、もう「死語」なのかな。
 若い人は、もうこういう言葉を知らないんじゃないか?

 

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 「街の中でも、目抜き通りから少し外れた、さびれた場所」
 … っていうような意味なんだけど、色としてはくすんでいて、カタチとしては崩れていて、音としては歪んでいて、照明でいえば、蛍光灯じゃなくて、もちろんLEDなんかじゃなくて、「裸電球」という感じ。
 
 男が立ちションベンしていても、誰もとがめない場所 っていうのかな。

 

 『白い幻想』とか、『チャコの店』とか、『ムーランルージュ』なんていう昭和丸出しの看板を掲げた古めかしいスナックが並んでいて、いずれもスツールに5人座れば満席となるようなカウンターの奥で、化粧の濃い70過ぎぐらいのおばあさんが、物憂そうに煙草を吸いながら客を待っている感じ。
 
 いいよねぇ。
 オレ、そういう場所がこの上もなく好きなの。
 
 で、ときどき、男だか女だか分かんねぇ化粧の濃い女装の人間がドアの外で客待ちしていてさ。
 「兄さん、1時間2千円でいいから、飲んでかない?」
 とか、声かけられてよ。
 
 「千円しかねぇよ」
  とでも言おうもんなら、
 「バカやろー、金のねぇビンボー人がうろうろする場所じゃねぇよ!」
 とか怒鳴られたりね。
  
 
 昔は、そんな場所でよく飲んだ。
 隣りには、シワシワのスーツに折り目の消えたスラックス履いたサラリーマンがさ、カウンターに頬つけて居眠りしててよ。

 

 「ケンちゃん、もう朝の5時だよ。このまま会社いくんかい?」
 なんてママさんに小突かれたりしててさ。
 
 そんな場所が街から少しずつ消えていって、どこもかしこも清潔になっていって。
 街がどんどんつまらなくなって。

 

 だから、街を歩いていて、「場末」の匂いを嗅ぐと、やっぱり元気になる。
 昔は新宿の一角に、まさに “THE バスエ ” という場所があった。
 「国際劇場」という映画館があったところだ。
 そこでは、ずっと “ポルノ映画” やっていた。
 
 「アダルト」じゃなくて、言葉の響きもなつかしい「ポルノ」だよ。
 

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 2012年頃までかなぁ、その映画館はそこに現存していたわけよ。
 当時もうパソコンでアダルト無修正画像が見られるような時代になっていて、いったいどういう人が入るんだろう って、入り口前にしばらく立ち尽くしてしまったこともあったな。

 

 入っていく人は誰もいなくて、出てくる人も誰もいなくて。
 階段の奥は、しんと静まりかえっていてさ。
 

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 そういうたたずまいを見ているだけで、もう「幻の映画館」っていう感じでさ。
 中に入ると、映画なんてやってなくて、妖精や妖怪がパーティでもやってんじゃねぇの?  って、無類に想像力を刺激されたこともあった。

 
  
 この「国際劇場」の方には入ったことはないけれど、東映のヤクザ映画をやっていた「新宿昭和館」の方にはよく通った。

 

 『仁義なき戦い』シリーズなんてのは、みんなそこで観たんじゃなかったかな。
 40年以上も前の話だけど。

 
 うだつの上がらないサラリーマンたちがさ、誰も待っていない家に帰ってもしょうがねぇ ってんで時間をつぶしているような映画館でさ。(オレもその一人なんだけど)

 
 で、映画がハネると、「元気」もらって、近くの居酒屋で一人でコップ酒あおってさ。
 
 そろそろ終電だ ってんで店を出て、ホテル街の方に消えていく男と女の背中を横目で見ながら、アパートに帰るために、駅の方に向かってね。

 

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▲ 昔よく通った居酒屋。新宿「千草」。まだあったんだね 
 
 この前、久しぶりに、昔「国際劇場」があったところをうろうろして、そんな時代を思い出した。
 
 昔からそういうエリアを歩くのが好きなの。
 「ワイルドサイド」 っちゃ少しおおげさだけど、「Take a walk on the wild side」って、ほらルー・リードが歌うじゃない。
 
 あんなニューヨークのようにカッコよかねぇけどさ。
 新宿の一角には、どこか和風のワイルドサイドが、少しだけ残ってんのね。 

 

 日なたに出ると、日光で殺菌消毒されちゃいそうな男と女が闇に消えていくような街って、いいよね。
 

 ▼ walk on the wild side

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占い師の裏話 

 自分は占いを信じるタイプか?
 そう自分自身に問うてみると、若いときは、けっこう占いの結果にこだわる人間だった。

 

 受験の失敗、失恋
 先行きに暗雲が立ち込めてくるようなときは、雑誌の片隅に掲載された星占いの結果ですら、ものすごく重要なメッセージに思っていた。
 そのようなものを意外と信じやすい迷信深い若造だったのだ。

 

 しかし、20代になったばかりの頃か。
 占いというものに対する考え方が変わった。
 占い師の友達ができたからだ。

 

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 まだ、やくざな学生だった時代。
 小雨が宙を舞う東京・吉祥寺の街角で、私は、酔っ払いのオヤジに絡まれた一人の占い師を見つけた。

 

 「バカヤロー! そんなことを聞きたくて金を払ったんじゃねぇや。いい加減なことをホザいていると、てめぇの首根っこをへし折ってやるぞ」

 

 酔っ払いオヤジが、その占い師に向かって吼えている。
 オヤジの罵声を聞き流しているのは、若い男の占い師だった。

 

 ジーンズにTシャツ。
 髪は長髪。
 占い師の格好は、その様子を立ったまま見つめている私とほとんど変わらない。
 年齢的にも似たり寄ったり。

 

 しかし、その若い占い師は、私などが持ち合わせないような豪胆さで、今にも拳を振り上げそうな中年男の罵声をクールな視線で受け止めていた。

 

 「もう一度やり直せってんだよ。このインチキ野郎」
 「何度やっても同じことです。天が一度定めた運命は、私の力でひっくり返すなどできません」

 

 そのやり取りを野次馬していた私は、この占い師を助けてやらねばと思った。

 

 で、占い師とオヤジの間に割って入り、
 「ねぇ、俺の手相を見てよ」
 と、占い師に向かって手のひらを突き出した。

 

 「てめぇ誰だ? このやろー」
 と、しばらくオヤジは騒いでいたが、しょせん酔っ払い。
 いつの間にか、どこかに消えた。

 

 雨のしずくが垂れる髪をかき分けながら、私と占い師は目を合わせた。

 「何が知りたいの?」
 その冷たい目に、ぞっとした。

 

 助けてやったのだから、もう少しフレンドリーな笑顔を見せてくれたってよさそうなのに、彼の眼は、試験管の中で起こる薬物の化学変化を待つように、何の表情も浮かべない。

 

 何が知りたい

 

 私にはその用意がなかったのである。

 

 「 将来」
 かろうじて、その言葉を口にした。

 

 「手を出して」
 無表情に私の手を引き寄せる仕草が、素っ気ないほど事務的だ。

 

 彼は手のひらを10秒ほど見つめてから、目をつぶり、また10秒ほど経って、カッと見開いた。

 

 「あなたは、二つの道で活躍できる人だね」

 

 「どうしてそれが分かる?」

 

 「頭脳線がくっきりと二つに分かれている」

 

 「で、その二つの道とは?」

 

 「それは分からない。ただ、たいていの人間は才能に恵まれたとしても、その才能を一つの分野でしか発揮できないまま一生を終える。でも、あなたは、二つの分野でその才能を使うことができる」

 

 すげぇことを言い出す男だ、と思った。

 「しかし
 と、彼は言葉を継いだ。

 

 「そのことは、あなたを一生苦しめることにもなる。ひとつの道に進んだとき、必ず捨てた方の道に未練が残る。
 その未練にほだされて、捨てたはずの道を模索すると、今度は元の道が恋しくなる。一生その繰り返し。だから、大成するとは限らない」

 

 ふぅん。
 手のひらが汗ばむような緊張を覚えた。

 

 自分の運命というものを、はじめて直視した瞬間だった。
 静かに語る男の背後に、オーラが立ち昇っているように思えた。

 

 
 で、そいつと友だちになったのである。
 そして、飲み屋なんかにも一緒に行くようになった。

 

 「占いって、どうやって勉強するの?」
 「どんなことを尋ねてくる人が多いの?」
 「今まで会った人でさぁ、死相ってのが表れた人いた?」

 

 最初のうち彼は、私の無邪気な質問におごそかなもったいぶった解説を加えていたが、ある日、こんなことを言い出した。

 

 …… 占いを商売にしようと思ったら、占いの勉強だけでは済まないんだよ。人間観察力とか、心理分析の力も当然必要になってくるのね。


 だけど、最後は哲学なの。
 社会がいくら複雑になっても、人間の悩みなんて、ソクラテスプラトンの時代から変わらないんだよ。

 

 シャカ、孔子、キリスト、ソクラテス
 この4人の共通点って知ってる?

 

 彼は、居酒屋のテーブルに空になったお銚子を倒し、こんなことを言い出した。

 

 シャカも、孔子も、キリストも、ソクラテスも、みんなものを書かなかったのね。彼らは本を残さなかったんだよ。

 

 いま残っている教典というのは、全部彼らの弟子たちが編んだものなのね。
 つまり、彼らは弟子たちとのダイアローグ(対話)を深めることで、真理を解き明かしていった人たちなんだよ。

 

 実は、占いも同じなの。

 

 占いってのは相手が黙っていると、実はできないものなんだよ。
 「黙って座ればピタリと当たる」なんてウソ。

 

 一言でもいいから、相手にしゃべらせることが大事なのね。
 で、相手が何を考えているのか探るわけ。
 それを手がかりに、対話(ダイアローグ)を始めるわけね。

 

 そのプロセスで、相手が求めている答が初めて見えてくるわけさ。
 
 その答えは、必ずしも、そのとき相手が望んだものではないかもしれない。
 だけど、もしかしたら、それを機会に相手がまったく新しい考え方を手に入れるかもしれない。
 そのとき、そのお客は哲学したわけさ。

 

 それを聞いて、私は尋ねた。


 「でも、初めて会ったとき、ほとんど対話なんかしなかったじゃない」

 

 「いやぁ、あなたがあの酔っ払いを追い払ったとき、もう対話が始まっていたのさ。 あなたの正義感、あなたの好奇心、あなたの純真さ。それがあの行動だけで分かったもの」

 
 彼の占いで、私ははじめて自分の「運命」と出会ったのだが、今度は、はじめて「哲学」と出会うことになった。

 
 この占い師から、私は二度教えられたことになる。

 

 しかし、それからプツリと、彼は吉祥寺の町から姿を消した。
 友だちだと思っていたのに、ふと考えると、私は、彼の本名も連絡先も知らないことに気がついた。

 

 落ち合う場所は、彼が占いのテーブルを広げていた街角だったから、そこに行けば会えると思っていたのだ。

 

 
 彼の言葉は、いまだに脳裏に深く刻み込まれているが、肝心な占いだけは当たらなかった。

 

 私には、二つの才能を発揮するなどという能力もなく、そのために、その二つの才能の間で悩むなんてこともなかったからである。 

 

 

戦争は平和の使者のような顔して近づいてくる

文芸批評

島尾敏雄『贋(にせ)学生』

 

 いちばん危機が迫った社会というのは、一見、平和な相貌をしている。
 大地は豊かな恵みを人間に与え、物資は潤沢に整い、時間はのんびりと流れ、人々の声は明るい。

 

 ちょうど、太平洋戦争直前の日本がそうだった。

 

 今のわれわれは、あの戦争の悲惨な結末を知っている。
 だから、戦争前夜には、多くの国民が不安な思いに駆られていたと思い込みがちになる。

 

 だが、歴史の素顔を眺めてみると、必ずしもそうではない。
 戦争は、明るく平和な相貌に彩られた社会の中で、ひっそりと身を隠し、ネズミに近づく猫のように、静かに迫っていったのだ。

 


危機こそ「優しい顔」で近づいてくる

 

 島尾敏雄の書いた『贋学生』(講談社文芸文庫)という小説を読んでいて、そういうことがよく理解できた。

 

 この小説が刊行されたのは昭和25年(1950年)。
 私の生まれた年である。
 だから、もう70年ぐらい前の作品ということになるが、私は年を取るまで本作を読んだことがなかった。

 

 どういう小説かというと、著者が昭和11年頃に通っていた長崎高商時代の思い出を描いたもので、前半は、授業をサボって、友人2人と諌早、長崎、島原、雲仙などを旅行したときの思い出が楽しく綴られている。

 

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 主人公の「私」は、友人たちと長崎の海の夕凪を楽しみ、町の食堂でオムレツに舌鼓を打ち、旅館の仲居さんの色っぽい仕草にどぎまぎする。

 

 描かれる情景は、どれも古き良き時代の日本の風情をしっとりとたたえ、出会う人たちはみな人情味に溢れ、主人公たちは、旅の楽しい思い出を次々と蓄積していく。

 


国外退去となった外国人の飼っていた
犬が「野良犬」になっていく哀れさ

 

 しかし、文学者としての島尾敏雄の感性は、そのような平和な日本に、夕暮れの影のように忍び寄る戦争の気配を見逃してはいない。

 

 市民の生き方や思想傾向をチェックする “移動警察(特高)” の刑事が、電車の中で自分たちを見張っていることに気づいたり、戦争の気配を察して退去した外国人が置き去りにした犬が、野良犬として哀れな姿をさらしていることに、やりきれなさを感じたりする。

 

 が、それは、まだ「明確な不安」の形をとっていない。

 

 
遊びの余裕さえ漂わせる軍事訓練

 

 旅行から帰ってきた主人公は、校庭で、三八式歩兵銃を担いで軍事訓練に励むが、それは「気持ちの良い汗をかく戦争ごっこ」でしかない。

 

 軍事訓練が終わると、学生たちは街に出て、映画館や喫茶店に寄り、カフェやおでん屋で雑談にふける。

 

 確実に近づいてくる戦争は、ここでは、夏の終わりに、かすかに漂う秋の気配として感知されるだけなのだ。
 色づいていた秋の木々が、いつの間にか葉を落としていたことに気づいた時の、いわれのない不安。

 

 “近づく戦争” は、そのような微妙な「空気の変化」としてのみ描かれるに過ぎない。

 

 そのような「日常生活の中に見え隠れする不安」は、考えようによっては、学生という中途半端な身分を生きている主人公(「私」)の不安定さから来るものであり、思春期特有の過剰な自意識の産物であるとも取れる。

 

 しかし、実は、この話を小説としてまとめた時の島尾敏雄は、特攻魚雷艇の指揮官として出撃命令を待っていた人間であり、死を覚悟した人間の心の揺れ動きを見つめる体験を持っている。

 

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島尾敏雄が出撃するはずだった特攻魚雷艇の「震洋(しんよう)」。
搭乗員が乗り込んで操縦し、目標艦艇に体当たり攻撃を敢行する。


 だから、彼は、戦争が忍び寄る時代の「危機感」を、いくらでもはっきりした言葉で指摘できたはずなのだ。

 

 しかし、この小説は、そういう言葉では語られなかった。
 そこに、私は逆に、戦争が忍び寄ってくる時代の「空気」というものを教えてもらったように思う。 

 


いやな友人が登場してつきまとう

 

 平和な日常の中に漂う、漠たる不安。
 それを、島尾敏雄は、友人の一人である「木乃(きの)」という学生から受ける 言葉にならない違和感” を通して表現する。

 

 木乃は、知らないうちに主人公に近づいてきた同じ学校の学生である。
 彼は、およそ、「知的なもの」を感じさせない男でありながら、主人公たちが持ち合わせていない「世間知」を身につけた人間である。 

 

 主人公は、木乃を好きになれない。
 本能的に、自分たちとは別人種だと感じる。

 

 この木乃という登場人物のフルネームは、木乃伊之吉(きの・いのきち)である。
 そもそも、この名前自体が不吉だ。

 

 ミイラを漢字で書くと、「木乃伊」となる。
 つまり、作者は、最初から「木乃」という人物を、普通の人間とは異なる存在として描こうとしていたことが分かる。

 

 主人公は、木乃から受けた第一印象は、次のように記す。

 
 「紺のユカタを、歌舞伎の女形のように、胸元まできっちりと合わせ、人間というより、紫のかたまりが、ぼうっと入ってきたようだった」

 

 この表現のなかに、すでに、木乃が普通の人間から逸脱した何かを感じさせる存在であることが伝わってくる。

 

 「いやなヤツだ。この人とはつき合うべきではない」
 主人公の「私」は、そう直感する。

 

 しかし、いつの間にか、私生活のすべてが木乃のペースで進むようになり、彼の巧妙なウソ ということは後で分かるのだが、 そのウソに巻き込まれて、最後は主人公の友人や、実の父親、そして妹まで、奇妙な体験を重ねるようになる。

 

 だが、ウソをつきまくって、周りの人々を狂奔させる木乃の目的が、果たして何であったのか、それは最後まで「謎」のまま残される。

 


「贋学生」は何を意味したのか?

 

 彼は天性の詐欺師であったが、その詐欺行為には “営利” の匂いはまったくないのだ。

 

 この木乃という男が、実は贋(にせ)学生であることが最後に明かされるのだが、そのことによるストーリー的な面白さよりも、むしろ、その木乃の身辺から流れ出てくる存在論的な不安感そのものが、何よりも、ここでは「忍び寄る戦争の影」そのものであることが伝わってくる。 

 

 戦争が近づいてきているというのに、あくまでも平和に見える社会の “言いようのない” グロテスクさ。


 その気持ち悪さを、島尾敏雄は、木乃という贋学生のグロテスクさと重ね合わせている。

 

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▲ダリ(内乱の予感)

 
 もちろん、木乃は、近づく戦争の「寓意」ではない。
 「暗示」でもなければ「比喩」でもない。

 

 しかし、戦争前の日本の空気には、どこか「グロテスクな匂い」があり、それは木乃という男が発散する体臭と同質のものだった、と作者はいいたいのだ。

 

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ベルイマンの『沈黙』の1場面。
平和な町の街路に突如登場して去っていく戦車。

この戦車が何を意味しているのか観客には解らない

 

 今の “平和な時代” に、どのような危機が紛れ込んでいるのか、それは誰にも分からない。

 

 しかし、これだけ「平和」なのに、誰もがそれに安住せず、常に漠たる不安を感じて生きているということは、なんらかのカタストロフ(悲劇的な結末)が迫っていることを示唆しているのではないか。

 

 島尾敏雄の『贋学生』をのどかなカフェに座って読みながら、ふと青空を見たりしたときに、そんなことを考える。

 


参考記事
戦争を体験した作家たちの小説 (

campingcarboy.hatenablog.com

 

 

井上陽水の天才性を証明した『傘がない』

 「天才」とは、自分の凄さみたいなものは確信しているけれど、「どう凄いのか」ということを自分で説明できない人のことをいう。

 

 そういう意味で、井上陽水というミュージシャンは、天才ではないのか。
 この土曜日、NHKの歌番組『SONGS「井上陽水」』の2回目を見ていて、そう思った。

 

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 私はあまり井上陽水の良きファンではなかったため、彼をめぐる言説空間で、彼が一般的にどういう評価を下されているのか、また彼自身が、自分をどのように語るのかを聞いたことがなかった。

 

 そういった意味で、『SONGS』のインタビューにはとても興味を持った。

 

 だが、話を聞いた第一印象は、なんと平凡なことしかしゃべらない人間なのだろう というものだった。

 

 謎めいた歌詞が散りばめられたシュールな歌が多いので、さぞや特異な芸術家意識をふんだんに振りまくエキセントリックな人間なのだろうと予測していたのだが、まぁ、お茶目で、少しシャイな  “普通のおっちゃん” 。

 

 ツアー途中のリハーサル室で、インタビューを受ける彼のトークを聞いているかぎり、作詞の世界から感じられる「ミステリアスなアーチスト」という雰囲気はまったくなかった。

 

 むしろ、彼自身が、“斜に構えたアーチスト” っぽいミュージシャンに対して恥ずかしいものを感じるという感覚を持っていることがうかがえた。


 しかし、私は、今でも彼のデビュー作ともいえる『傘がない』(1972年)をラジオで聞いたときの、突然、背中に氷を押し付けられたような冷気を忘れることをできない。

 

 それは決して心地よいものでなかった。

 

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 ♪ 都会では、自殺する若者が増えている、と新聞の報道は伝える。

  というのが、その歌い出しの部分。
 
 しかし、それよりも問題は、傘がないことだ。
  と歌詞は続く。

 歌に唄われる主人公は、そのことを、ひたむきに嘆く。
 
 これから君に会いに行かなければならないのに、外は雨。
 なのに、「傘がない」 。
 自殺する若者が増えているなんてことは、どうでもいい。
 「問題は、傘がない」

 

 この訴えは、たぶんその当時これをリアルタイムで聞いた人間をみな凍らせたことだろう。

 

 1972年。
 学生運動が急速に終焉に向かっていた季節であったから、この歌を、政治闘争に敗れた若者の「うつろな心情」を表現したものであると解釈する人が多かった。
 
 誰だったか、後に、この歌のことを「社会的な問題に背を向けるミーイズム(自分中心主義)世代の登場」をテーマにした曲だと言った人がいたくらいだった。

 

 しかし、陽水は、
 「別にそんなふうに考えて作った歌ではないんですよ。ただ単に、周りが政治の季節であったというだけのことで
 と(いう感じで)淡々と話す。

 

 そして、この歌をつくった23歳の頃と、70歳になった今では、歌に対する思いが少しずつ変わっているともいった。

 

 「それはどういう違いですか?」
 と、インタビュアーが突っ込む。

 

 彼の答は、こうだ。

 「傘がない、というときの “ない” という意味が、ほんとうに “ない” ということなんですよ。
 単に、物質的な意味での傘がない “ない” ということ以上に、 “ない” という意味が広がって感じられるんですよね」

 

 なんのことか、よく分からない。


 彼も苦笑いを浮かべて、
 「うまくいえないなぁ
 と頭をかく。

 

 そして、最後は、
 「やっぱり、説明能力不足ですね。とにかく歌を聞いてください」
 とトークを打ち切った。

 

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 このおしゃべりを聞いていて、思った。 

 

 彼が自作をうまく解説できないということは、そこにこそ、彼の天才性があるのではないか。

 

 「評論家」なら、その歌のモチーフからその社会的意義まで、うまい言葉ですべて説明するかもしれない。

 

 でも、井上陽水はそれができなかった。
 つまり、彼は直感でこの詞を選び取ったわけだ。

 

 直感で拾われた言葉にすぎないのに、この詞は彼の想いを超えて、なにがしかのメッセージを含んでしまった。

 

 生み出されたものが、作者の計算以上の世界を図らずも創ってしまう。
 それは、天才以外にはできないことなのだ。
 
 つまり、天才は、受け手に過剰な読み込みを行わせてしまう「何か」を持っているということに他ならない。たとえ、本人が意図しなくても。
 
 私は、いまだにこの『傘がない』という歌が自分の胸に突きつけてくるものの正体がつかめずにいる。
 
 最初に聞いたとき、どこかホッとするような解放感と、これじゃいけないんだという焦燥感と、取り返しのつかないものを失ってしまったという喪失感と様々な方向に自分の感情が分裂してしまったことを思い出す。

 

 そして、その「分裂の感覚」は、今もなお胸にうずいている。

 

 一つだけいえることは、
 「自殺する若者が増えている」という社会現象や、
 「テレビで、我が国の将来を誰かが深刻な顔でしゃべっている」という政治番組よりも、この歌の主人公は、もっともっと切ない問題を抱えてしまったということだ。
 
 たぶん、その切なさの意味を探り当てる言葉が、その時代にはなかったのだ。
 だから、この歌は新しかったのだ。

 

 そして、この詞は、新しい意味を含んだまま、今もその新しさの内容を説明していない。

 

 だから、すべてが、あいかわらず「謎」。

 

 時代を超える歌というのは、そんなものだ。

 
 好きな歌ではないけれどね。  
 でも、忘れられない歌なのだ。

  

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人類最後の日を人々は何をして過ごすのか?

映画批評
『On the beach 渚にて

    
 原発事故による「放射能汚染」の話題が出るたびに、思い出す映画がある。
 アメリカ映画の『渚にて』( On the beach )だ。


 1959年にスタンリー・クレイマー監督が撮った(当時の)近未来SF映画で、まさに地球規模の “放射能汚染” がテーマになっている。

   

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 1964年に勃発した( ことになっている)「第三次世界大戦」の核被害によって、北半球の人類は滅亡。

 
 南半球は、直接の被爆をまぬがれたが、死の灰が南半球まで及んでくるのは時間の問題という、せっぱ詰まった状況に置かれたオーストラリアが、この映画の舞台となる。

 

 核爆発の時に、たまたま深海に潜っていたアメリカ海軍の潜水艦が1隻だけ助かり、死の灰を逃れて、オーストラリアの軍港にたどり着く。

 

 ストーリーは、その潜水艦の艦長であるグレゴリー・ペックと、彼がパーティで知り合った地元のオールドミス(エバ・ガードナー)との淡くて短い恋愛を軸に、“ゆるやか” に展開する。

 
 それに絡んで、オーストラリア海軍の若い将校夫婦や、核開発にも関わったことのある科学者たちのサブストーリーが散りばめられていく。

 

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 もともとは、ネビル・シュートの小説を映画化したもので、分類でいうと、核戦争後の地球を描いたSFものということになるのだが、地球滅亡ものでおなじみの、大げさなパニックシーンを見せる映画ではない。

 

 むしろ、地味だ。
 だから、核戦争の非情さが、逆に浮かび上がってくる。
 このあたりは、原作の静謐なタッチを、映画もよく踏襲している。

 
  
 北半球を覆った “死の灰” は、南半球までは来ないだろう、と最初のうちは、オーストラリアの科学者たちは予測した。

 

 しかし、そういうオーストラリアの科学者たちが立てる希望的観測は、ひとつひとつ打ち砕かれていく。

  

 迫り来る核汚染を防ぐ手立てがすべて失われてしまったことに、オーストラリアの人々も気づき始めた頃には、残された刻限はあと5ヶ月と迫っていた。

 

 身近に迫る死の恐怖に、自暴自棄になる人々も出てくる。
 しかし、一方で、残された最後の時間を、せいっぱい “人間らしく生きよう” と決意し直す人もいる。

 

 世界の滅亡が秒読みになったとき、人々は無秩序な暴徒と化するのか、それとも、生きている限りは人間の尊厳を保ち、秩序正しい社会を維持しようとするのか。
 この映画は、人類が直面する究極の問いかけを投げかけているようにも思える。

 

 画面では、死を覚悟したオーストラリア国民が、パニックに陥ることなく、休日には渓谷のマス釣りを楽しみ、海岸で海水浴をして、自動車レースを楽しもうとする情景が描かれる。

 

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 人々が人生最後のバカンスを楽しもうとするときに流れるのが、オーストラリアの国民歌謡「ワルチング・マチルダ」である。
 
Waltzing Matilda

youtu.be

 

 草原のキャンプ場で、海水浴場で、そして、親しい家族が集まるホームパーティーで、オーストラリアの人々はみんなで、この歌を合唱する。

 

 映画を見ている観客も、心のなかでこのメロディーの合唱に加わる。

 

 フォークダンスの伴奏曲のような明るく陽気な曲で、これが人々の野外パーティーの合唱歌として使われたりすると、この映画のテーマが悲惨な最終戦争ものであることを忘れさせる。

 

 しかし、その陽気なメロディが、途中から涙が出そうなくらい悲しく響いてくる。
 同じ曲でも、それを歌なしで演奏すると、今度はレクイエムの響きを持つのだ。

 

 そうなると、観客が見つめるオーストラリアの風景そのものが不思議な光彩を帯びて来る。

 

 豊かな緑に囲まれた牧場。
 帆に風をはらんで海原を駆けるヨット。
 家族や仲間で楽しむ川原のバーベキュー。

 

 観客は、それらの美しい風景を、いつしか末期の目を通して眺めていることに気づく。
 そこには、この風景を写し取った監督やカメラマンの心情が反映されているからだ。

 

 単に、「美しい風景」や「優しい風景」というのであれば、撮影機器や画像処理のテクニックが進歩した現代映画の方が、優れた風景を再現できるはずだ。


 ただ、そこに「かけがえのない 」という哀切感を盛り込むことができるかどうか。

 

 平和な日常生活がいかに貴重であるかを訴える映像は、CGのテクニックをいかに研ぎ澄ましたところで、実現できるものではない。

 
 それは、「ありふれた生活」を一瞬のうちに崩壊させてしまう、戦争のむごたらしさを経験した人間の視線からしか生まれてこない。

 

 1950年代は、まだ第二次大戦の惨禍が、人々の胸に強烈な印象として残っていた時代だったのだ。

 
 逆にいえば、戦争がもたらした悲しみと苦しみをリアルな体験として持っていた人たちがいたからこそ、作れた映画だった。

 

 ラストシーンでは、再びアメリカ兵たちが潜水艦に乗り込み、故郷のアメリカ大陸に帰るところが描かれる。

 

 すでに、北半球に「アメリカ」という国はない。
 あるのは、高層ビルが墓石のように取り残された、無人の大地でしかない。
 それでも、彼らは、「どうせ死ぬなら、最後は故郷で眠りたい」と、人影の絶えた北米大陸に戻っていく。

 

 オーストラリアの港を発ったアメリカの潜水艦は、そのレクイエムに送られて、深海へと潜航を開始する。

 去り行く潜水艦を見送るエバ・ガードナーの後ろ姿が切ない。

 

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 静かな終わり方に、反戦への祈りと、戦争によって失われたあらゆるものへの追悼が込められている。

 

Great Scenes: Waltzing Matilda Finale

(しんみりと聞こえるもう一つのWaltzing Matilda  ↓)

youtu.be

 

 

「平成」は現代の「平安時代」だった?

 平和ながらも、人々の不安が増大した時代。
 「平安」も「平成」も、そんな印象が強い時代であったように思う。

 

 ただ、794年に始まる「平安時代」といわれる歴史区分のなかに、「平安」という元号があったわけではない。

 
 平安時代というのは、「延歴」から「文治」まで約90の元号が続いた時代の総称で、そのなかに「平安」という元号はない。

 

 しかし、人々の精神状態や文化状況を考えると、「平安時代」と「平成時代」はかなり似ているところがある。


▼ 優雅な貴族文化が栄えた「平安時代

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対外戦争がなかった時代

 

 ひとつは、平成天皇がおっしゃったように、ともに「戦争のない時代」として、国民の記憶に残る時代になったということだ。

 

 日本の近代史では、「明治」も「昭和」も大きな対外戦争に直面した。
 比較的平和だったといわれる「大正」時代も、(局地的な参戦であったが)日本は第一次大戦に関わっている。

 

 しかし、「平成」という時代は、対外戦争のない時代のまま終わろうとしている。

 
 そういった意味で、「平成」は、どこの国とも戦争することなく、390年の平和を維持した「平安時代」の短縮版だといえないこともない。

 

 だが、「戦争がない時代」が、必ずしも健全で安定した時代であったかどうかというのは、また別の話である。

 

 平安時代を振り返ってみると、400年近く大きな戦争こそなかったものの、その時代を生きた人たちの精神状況が安定していたとはいえない。

 

 
平安時代には「怨霊」と「鬼」が実在していた

 

 「平安時代」という言葉から、われわれは優雅な貴族文化が繁栄した時代だというイメージを思い浮かべがちである。

 
 しかし、庶民生活においては、飢饉や疫病への不安が増大し、世情の混乱を背景に、怨霊と鬼が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)した時代でもあった。


黒澤明の映画に出て来る荒れ果てた羅生門(1950年)

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 すでによく知られたことだが、平安時代というのは、時の実力者であった菅原道真遣唐使を廃止したことなどもあって、国風文化が栄えた。


遣唐使

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 合理的な思考を重んじる中国風文化が薄められていった結果、平安時代は日本古来の土俗的な精神文化が復活するようになった。

 

 たとえば「鬼」というのは、中国では「死者の霊魂」を指す概念であったが、日本では、古来の土俗信仰などと融合し、「人を食う異形の怪物」というイメージで語られるようになっていく。

 

 人々の心の中に、「鬼」や「怨霊」が実在した時代。
 私は、平安時代という時代をそう理解している。

 

 だから、天皇をはじめとする都の貴族たちは、人間に災いをもたらす「鬼」や「怨霊」を恐怖し、貴族たちの政治行動の大半は、それに対処する加持祈祷(かじきとう)に費やされたといっても過言ではなかった。

 

▼ 映画『陰陽師2』(2003年)に登場した鬼

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「生霊」というのは幽霊か? 人間か?

 

 このように「鬼」や「怨霊」の祟りが日常化していく背景には、疫病、地震、落雷、干ばつといった自然現象があったが、社会生活上の混乱が続くと、人間はどうしても疑心暗鬼になってしまい、次第にオカルト的な考えを引き寄せがちになる。

 

▼ 映画『陰陽師』に登場した生霊

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 日本に「生霊」という思想が誕生したのも平安時代だった。
 紫式部は、『源氏物語』のなかで、人が生きたまま「怨霊」になるというアイデア六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)という人物に仮託して、日本ではじめて創造する。

 

六条御息所は能の世界ではしばしば「般若」の面で表現される 

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 それがきっかけとなり、生きた人間ですら、「あの世の闇」を抱えた存在であるという認識が日本人に広まるようになった。

 

 これをもって、「ホラーの誕生」といっていいかもしれない。

 

 死者が祟るのが「怪談」であったとすれば、「ホラー」は、死者の祟りすら超える恐怖をもたらす “生きた人間”  がこの世に現われる物語だといえる。

 

 
平成もまたオカルト的な空気とともに始まった


 「平成」もまた、「人間が生きたまま化け物になっていく」という社会不安とともにスタートした。

 

 1988年(昭和63年)、宮崎勤という “オタク趣味” を持っていたとされる若者が幼女の連続殺人事件を起こす。

 

 1989年(平成元年)、宮崎は、逮捕後の公判で犯行を認めながらも、その動機を「夢の中でやった」「ネズミ人間が現れて指示した」などと、錯乱した供述を続け、精神鑑定を受ける。

 

 しかし、鑑定の結果もあいまいなままに終わり、けっきょく、その供述が真実なのか虚偽なのか分からないまま、彼は死刑判決を受ける。

 

 犯罪心理の専門家は、これを「昭和」と「平成」を分ける象徴的な事件だったという。

 

 つまり、昭和的な犯行が、「物取り」や「怨恨」といった動機のはっきりしたものであったのに比べ、平成の犯行は、容疑者本人ですら、自分自身の心の<闇>を解き明かせないようなものに変わっていった。

 

 
国際社会から孤立すると人の心は内向きになる

 

 そこには、時代の閉鎖感も関わってくる。
 平安と平成の精神文化を並べてみると、ともに対外的な開放感を失い、人心が内向きになっていく時代であったことが分かる。

 

 平安時代が、当時の世界帝国であった中国(唐)の文化の影響を脱して国風文化になじみ始めた時代だったとするならば、「平成」もまた、国際社会から孤立した社会に向かい始めた時代だった。


 「平成はグローバル化時代の幕開けであった」という説もあるが、逆である。
 平成は、世界のグローバル化から取り残された時代の始まりだったのだ。 

 

 昭和の時代には、あれほど国際競争力を誇った日本企業は、平成になると、のきみな地盤沈下を起こすようになる。

 

 平成3年(1991年)から平成4年にかけて、世界的なブランド力を誇った日本企業の大型倒産が相次ぎ、どこの会社でも「リストラ」「事業所閉鎖」「希望退職」などという言葉が飛び交うようになった。

 

 その理由は、この時代、ソ連共産党が解体されて東西冷戦が終結し、地球全体がすべて資本主義国となったためである。

 

 日本企業は、東西冷戦を前提とした組織作りで勝ち抜いてきたため、このような、“世界同時資本主義” というメガコンペティションが吹き荒れる状況に乗り遅れてしまったのだ。

 


天変地異が次々と日本列島を襲う

 

 さらに、平成になって、天変地異が重なる。
 平成5年(1993年)には記録的冷夏。
 翌6年には、記録的猛暑。
 自然の猛威が、人間生活を脅かすような出来事が次々と日本列島を襲うようになる。

 

 決定的な悲劇が起こったのは平成7年(1995年)。
 その年の1月に、「阪神淡路大震災」が関西を襲った。

 

 これによって、神戸を中心とした関西経済圏は消滅。
 鉄壁の信頼性を寄せられていた都市のインフラも壊滅状態になり、日本の安全神話が崩れた。

 


オウム真理教酒鬼薔薇聖斗事件

 

 世の中が不安定になるときには、人々の精神面も恐怖と不安に満たされる。
 それを象徴するのが、同じ平成7年(1995年)に起こったオウム真理教による地下鉄サリン事件だった。

 
 さらに、警察庁長官の狙撃事件が続いて起こる。
 (この犯人はいまだに特定できていない)

 

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 政情が不安定になってくると、人々は政治にも、お笑い的な “明るさ” を求めるようになり、 平成7年の知事選では、大阪府知事にお笑いタレントの横山ノック氏が当選。
 
 一方の東京都知事には、お笑い作家の青島幸男氏が選出され、いっときの話題性を集めたものの、ともに議会に混乱をもたらせただけで姿を消していく。

 

 都市整備も、犯罪捜査も、政治家も、すべて不透明な霧に包まれはじめ、日本はだんだん、魔界の怨霊たちが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代に近づいていく。
  
 それを象徴するような事件が、平成9年(1997年)に起こる。
 神戸連続児童殺害事件である。

 

 これは、犯人が「酒鬼薔薇聖斗(さかきばら・せいと)」と名乗る犯行声明文を地元新聞社に送ったため、“酒鬼薔薇事件” とも呼ばれた。 

 

 この事件は、通り魔に襲われて死亡した複数の小学生のうちの一人の頭部が切断されて、地元小学校の校門に置かれるという、きわめて猟奇性の強い事件として、世間を震撼させた。

 


不安を煽る風聞が続出

 

 犯人が逮捕されるまで、様々な目撃情報がマスコミをにぎわせた。
 ・ 重そうなビニール袋を提げた怪しい浮浪者が小学校の前を歩いていた。
 ・ 事件当日、不審な白い乗用車が小学校の前に停まっていた。

 

 このような目撃情報の広まり方は、まさに『今昔物語』(平安末期)などに書き記されている、
 ・ 比叡山の八瀬の村に、鬼が出没した。
 ・ 羅城門で鬼が琵琶を弾いていた。
 ・ 紫宸殿の上空に、恐ろしい声で鳴く怪鳥が現れた。
  という平安時代の説話をそのまま現代によみがえらせたような感じであった。

 

百鬼夜行

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 しかし、「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る容疑者が捕まってみると、それが普通の中学生であったことが、世間をさらに驚かせた。

 

 事件後に押収された少年の日記には、殺した犠牲者を「バモイドオキ」という架空の神に捧げるなどという記述も見られ、この少年の殺人動機を外部から読み取ることは不可能だとされた。

 


ミステリーよりホラーが読まれる時代の到来

 

 高橋敏夫氏が書いた「ホラー小説でめぐる『現代文学論』」という本(宝島社新書 2007年)によると、「ホラー的なものが文学において突出してきたのは1995年(平成7年)以降」だという。

 

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 高橋氏はいう。
 「1989年(平成元年)に起きた宮崎勤事件から、何かが変わった。
 従来は犯人逮捕によって事件は解決され、終わりがやってきたにもかかわらず、宮崎勤事件は、むしろ犯人逮捕によって事件が始まり、さらに終わりも解決も見えないように感じられた。
 それは『解決可能性』というものが消滅した時代の始まりを意味した」

 

 それまで、娯楽小説の王道は「ミステリー(推理小説)」だった。

 
 ミステリーにおいては、どんな複雑な事件も必ず解決され、真犯人が特定されるとともに、物語も終結した。

 

 しかし、ホラーには終わりがない。
 そもそも、ホラーは、合理的な解決を拒むことで、物語たりえるからだ。

 

 このように、「平成」という時代は、娯楽小説の主役がミステリーからホラーに変わった時代でもあった。

 

 平成5年(1993年)からスタートした「日本ホラー小説大賞」(角川書店とフジテレビ)では、ホラー作家として脚光を浴びることになる貴志祐介がカルトホラーの『ISORA』で登場する
 
 『リング』(平成3年 1991年)で人気の出た鈴木光司が続編の『らせん』でベストセラー作家になったのは、平成7年(1995年)。
 平成11年(1999年)には、岩井志麻子が『ぼっけぇ、きょうてぇ』でデビューする。


▼ 『ぼっけぇ、きょうてえ』(角川文庫)の表紙

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ヒューマニズム」という昭和的思想の後退

 

 これらの物語に登場する “魔物” は、幽霊とも、精神疾患者とも、宇宙人とも、超能力者とも断定することができない。
 ただ単に、この世の規範を超えた “異形の者たち” として登場するだけである。

 

 その正体が最後まで分からないというところが、いかにも「平成的」であった。
  
 昭和という時代は、戦争への批判や反省から、戦争への対抗軸として「人間」とか「ヒューマニズム」という概念が大事にされた時代であった。
 
 そういう思想が風化した頃に、ちょうど平成が始まった。

 

 昭和までの怪奇小説では、その “主役” は幽霊だった。
 幽霊は、実体的には捕縛できなくても、存在意義は明確であった。
 彼らの目的は、「怨恨」か「復讐」だったからだ。
 
 しかし、平成のホラーで主役を張るのは、もう幽霊ではない。
 つまり、その出自が「人間」であったのかどうかも不明のものたちが、幽霊に代わって “主役” を張るようになったのだ。

 

 そこに、昭和的な「人間」あるいは「ヒューマニズム」という価値観が後退したことを読み採ることも可能だろう。

 


ノストラダムスの予言』の影響

 

 このような “ホラー的空気” が支配的になった背景のひとつに、『ノストラダムスの予言』(五島勉・著 祥伝社)という書籍の影響があったことも加えておきたい。

 

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 この本が最初に発行されたのは1973年であったが、「1999年の7月に空から恐怖の大魔王が降臨し、人類が滅亡する」という予言のインパクトさゆえに、平成10年(1998年)まで全10冊のシリーズが続いた。

 

 けっきょく、1998年に “人類の滅亡” は起こらなかったが、この予言がもたらした終末論的空気は、平成人の心をどこかで支配し、時代のオカルト気分を助長させた。
  
 実際に、オウム真理教麻原彰晃などは、この『ノストラダムスの予言』を自分たちの教義に取り込んで、独自の終末論を展開していた。
 
 先に紹介した作家の高橋敏夫氏は、
 「このようなホラー的環境が整ってきた背景には、日本経済の沈没ががあり、そのため、毎日どこかで電車の前に身を躍らせるリストラ男の血みどろの惨劇があった。
 そして、崩壊してしまった学級へゾンビのように通う子供たちの姿があった」
 と書く。

 

 平成11年(1999年)に高見広春が書いた『バトルロワイヤル』は、中学生たちが閉じこめられた小さな空間で殺し合いを強いられる物語だったが、そのような学級崩壊は、昭和から平成にかけて顕著になり、今はだいぶ沈静化してきたとはいえ、いまだに「いじめ」という形で各学校に痕跡をとどめている。

 

 
ネットの普及が平安時代の精神文化を再現

 

 「平成」という時代のオカルト的、 というか、ホラー的な空気が生まれてきた背景として見逃せないのはネット文化の普及である。

 

 そもそも「携帯電話」の登場そのものが、日本古来の “霊聴現象” を意味する。

 

 つまり、携帯を持参するというのは、どんな場所においても、肉体の耳(聴覚器官)では聞くことができない “声” や “音” などを認識する現象であり、昔ならば、憑依状態に陥っている人間でしか体験できないようなものだった。

 

 さらにネット文化の普及で、顔も氏素性も分からない人間同士が、SNS、メール、ブログなどを通じて、日常的に交信することが可能になった。
 
 このような、リアルコミュニケーションからはみ出した交信は、昔だったら “霊界” との接触を意味していた。

 

 すなわち、現代人は、科学やテクノロジーという言葉で自分を納得させつつも、もののけが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する平安時代の闇世界を再び生き始めたのだ。
 
 この不可思議さに、現代人は誰も気づいていない。 

 

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平成の中盤から時代の空気が変わる
 
 ただ、いままで述べてきたようなことは、平成のスタートから中盤にかけて生じたもので、平成も終わりを迎えた昨今はこのような “暗さ” からだいぶ解放されてきた。
  
 「失われた20年」という言葉がささやかれるようになった平成20年代(2010年代)以降、次第に世の中の “オカルト的空気” は薄らいでいった。

 

 おそらくそれは、平成の中頃から、すでに新しい時代がスタートしていたからである。
 つまり、平成20年以降、ようやく日本経済が回復期に入ったのだ。

 

 
「令和」への明るい橋渡しに期待

 

 経済の専門家にいわせると、
 「これまで企業は、リストラやコストカットによって収益を確保し、先行きが不透明なため、内部留保金を貯め込んできたが、業績が上向いてきたことを実感する企業が増えてきたため、今後は従業員が働いて稼いだカネを従業員に還元していく企業が増えていく可能性がある」
 とか。

 

 もし、労働者の賃金が上昇すれば、消費が回復し、企業の業績がさらに伸びることも予想される。

 

 なによりも心強いのは、インフラ整備に対する事業計画がそうとう進んでいること。

 

 リニア中央新幹線の開業予定は’27年。
 首都高速の大規模改修も、’20年に羽田線の上りが完了したあと、’28年まで継続して整備が進む。

 

 そうなると、オリンピックが終わった後でも、10年以上にわたる莫大な経済波及効果が見込まれるというのだ。

 

 経済が豊かになれば、人々の心にも合理的な思考が育っていく。

 

 そう考えれば、「平成」という時代は、戦後の経済復興を遂げた「昭和」が、その壮大なジャンプからいったん着地し、次の「令和」へのジャンプに備えて、膝を屈めた “準備の時代” だったといえなくもない。

  

 

まっすぐな道はさびしい

 俳句とか短歌が持っているなんともいえない情感が好きである。
 病院などに入院して、退屈な午後をやり過ごしているとき、デイルームなどで拾った週刊誌などを開いていると、必ず短歌や俳句のページに目が行く。

 

 病院という閉鎖空間に閉じ込められていると、週刊誌の時事ネタやスキャンダルネタに目を通すよりも、短歌や俳句のページを開いている方が、心が “旅する” ような気持ちになるからだ。

 

 昔、入院中に、『サンデー毎日』(2016年10/30号)の “サンデー俳句王(はいきんぐ)” というページで、次のような句を拾った。

 

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ

 

 作者は高野素十(たかの・すじゅう)。

 

 俳句という文芸にうとい私にとってはじめて聞いた作者だったが、この句を選んだ石寒太(いし・かんた)氏の解説によると、高野素十は、1895年に生まれて1976年に亡くなった茨城生まれの歌人だとか。

 

 たぶん『サンデー毎日』を読まないかぎり、一生知ることのなかった作家であったかもしれない。

 

 この句のインパクトは何か?
 それは、100%情景しか詠(うた)っていないことの鮮烈さである。
 
 描写されているのは、「まっすぐな道」と「秋の暮れ」の二つだけ。
 それを見て、「面白い」とか「さびしい」とか「悲しい」とか「切ない」などという作者の詠嘆は一言も詠われていない。

 

 なのに、この句が孕んでいるとてつもない “さみしさ” は、いったいどこから来るのだろうか?


 これを病院のデイルームで読んだとき、鳥肌が立つような切なさに襲われた。

 

 目に浮かんでくるのである。
 晩秋の弱々しい陽射しに照らされた、何の変哲もない直線路の寂寥感が。
  
 とにかく、構成がうまい。

 

 最初の「まっすぐな道」という一言では、まだ何も語られていない。
 しかし、それに続く「に出(い)でけり = に出てしまった」という言葉で、にわかに読者の心にさざ波が立つ。

 

 おそらく、この句の読み手(主人公)である人間は、それまで、うねうねと曲がった見通しの悪い田舎道でも歩いてきたのだろう。
 
 ところが、突然視界が開け、そこに見通しの良いまっすぐな道が現われた。
 それは読み手に、なにがしかの驚きをもたらした。

 

 その驚きとは、“見通しが良いのに誰もない” という「さびしさの発見」がもたらすものである。

 

 「誰もいない」ということが、どうして分かるのか?

 

 もし、直線路に人がいたり、牛がいたりすれば、「道」ではなく、見たものが語られるはずだからだ。

 

 この “不在感” が、この句の最大のポイントである。

 

 「出でけり」 = 「出しまった」という途方に暮れた感じの言葉づかいが、詠み手の “心細さ” のようなものを表現してあまりある。

 

 そして、ひっそりとした直線路が、“弱々しい秋の陽光に照らされている” という終句で飾られることによって、寂寞たるさしびさが完成する。

 
 「まっすぐな道」はなぜさみしいのか?

 

 それは、見通しが良いのにもかかわらず、目が何も捉えることができないからだ。

 

 「見えるはずだったのに、何もなかった」
 人間の感じる “挫折” というものを一言で言い表せば、そういう言葉になろう。
 「視界が良い」ということは、「さびしい」ということでもあるのだ。

 

 この “一本道のさびしさ” は、また多くの画家が好んで取り上げる画材の一つでもある。

 
 たとえばエドワード・ホッパー(1882~1967年 アメリカ)の描く道。

 

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 上のような絵とからめて、再び前の句を読んでみると、また新しい感慨も湧いてくる。

 

 まっすぐな道に出(いで)けり秋の暮れ
 
 絵画などを眺めながらこの句を噛みしめてみると、見通しの良い直線路こそ、むしろ「迷宮の入り口」ではないかという気分になってくる。

 

 この句を取り上げた石寒太氏は、同じテーマを追求した句として、次の二句も挙げている。

 

 この道や行く人なしに秋の暮れ (芭蕉

 

 まっすぐな道でさみしい (山頭火
 
 ともに、秋の寂寥感(せきりょうかん)のようなものが色濃く立ち込めて来る句である。
   

 

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リキテンシュタイン『ヘアリボンの少女』

絵画批評
アメリカンコミックを “芸術” にした男

 

 
 「ポップアート」というと、誰でもアンディー・ウォーホールの名前を思い浮かべる。
 しかし、もう一人忘れてならないアーティストがいる。
 ロイ・リキテンシュタインだ。
 彼の制作した『ヘアリボンの少女』こそ、まぎれもなくポップアートのなかの “ポップアート” である。
 

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 「ただのアメコミじゃない !?」
 見た人は誰でもそう思う。
 
 現に、この絵がポップアートとして登場した1960年代。アメリカの美術関係者の多くは、「低俗なアメリカン・コミックを模写しただけ」と批判し、この絵が美術品の仲間入りをすることを嫌悪したという。


 しかし、結果的に、この絵がアメリカ絵画の歴史を変えた。
 
 1960年代、アメリカではアブストラクト・アート(抽象画)の全盛期だった。
 写実的なうまさを競い合う古典絵画の決まりごとを「呪縛」と感じていた若いアメリカの画家たちは、抽象画の世界こそ、「創造者の自由な魂の発露」だと主張し、奔放な線と色だけで構成される絵画制作に励んでいた。
 
 当然、鑑賞者には、何が描かれているのかさっぱり分からない。
 
 人々は、次第に現代美術に興味を失い、美術館からも遠ざかっていく。
 それにもかかわらず、アメリカのコンテンポラリーアートの描き手たちは、大衆との隔離こそ、むしろ「孤高の芸術家」の証(あかし)と読み違え、ますます独りよがりの芸術に邁進。 


 そのような作品を「価値」と認める少数の美術関係者たちだけが、自分たちのステータスを満足させるために、画家たちをサポートしていた。
 
 で、ロイ・リキテンシュタインである。 
 彼もまた、最初は流行のアブストラクトに専念していた。
 
 しかし、一向に芽が出ない。
 
 ある日、彼の子どもが言う。
 「パパは絵描きなのに、なぜそんなに絵が下手なの?」
 
 これに参ったロイ。
 「じゃ、絵がうまいところを見せてやろう」
 
 ということで、子どもに対して、流行のコミックをたくさん模写してやったのだそうだ。
 
 「あ、パパ絵が上手じゃない!」
 子どもは大はしゃぎ。
 
 「じゃ、次はスーパーマンな」
  ってな感じで、子どもを喜ばせるコミックヒーローを次々と描いているうちに、ふと気づく。
 
 「もしかしたら、絵画ってのは、これが本物じゃなかろうか
 
 そこで、彼はアメコミを題材にした新しい作風にチャレンジすることになるのだが、彼が目指したのは、コミックそのものを描くことではなく、安いペーパーに印刷されて流通する「大量消費財」としてのコミックをコピーすることだった。
 
 だから、彼の描くコミックは、原画ではなく、印刷された状態であることを示すドット(点描)によって埋め尽くされることになる。 
 つまり、わざと印刷物を拡大した時のような、機械的で無機質的な雰囲気をキャンバスにていねいに描き込んだのだ。

 

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 彼は何をしたかったのか。
 
 従来の絵画は、一部のスノッブなお金持ちのステータスを満足させる商品として、一点モノの贅沢品でなければならなかったが、ロイ・リキテンシュタインは、大量生産品の下世話なコミックをそれらと同列に扱うことで、既成の画壇に風穴を開けようとしたわけだ。
 
 それは、「オリジナリティこそ芸術家であることを証明する」という、それまでの画家たちが持っていた自意識の拡大願望に対する挑戦状でもあった。
 
 しかし、ロイの面白いところは、そのような姿勢が、同時に絵画に対して関心を失った大衆に対する挑発にもなっていたことだ。
 彼は、彼なりに「絵画って面白いよ」というメッセージを大衆に発信したのである。
 彼の子どもが、現代コミックを模写した彼の “落書き” に興奮した事実を知っていたからだ。
 
 こうして、ロイ・リキテンシュタインやアンディー・ウォーホールらの作品をまとめて公開した「ポップアート展」は、今まで絵画に無関心だった一般大衆の注目を大いに集め、興行的にも大成功を収めた。

 

▼ アンディー・ウォーホールの作品

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 ロイはこう言いたかったらしい。
 「皆さんがあまり注目することのなかったモンドリアンたちの抽象画は、実は私の作品と同じなのです。色の配合や線の軌跡はまったく変らない。ただ片方は、描いたものが何ものにも似ていなかっただけ。私の作品は、たまたまコミックに似ていただけ」
 
  ってなことを、本人が言いたかったのかどうか、そこはよく分からないけれど、私流の言葉に直すと、そういうことになる。

 

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モンドリアンの 「赤、黄、青、黒のコンポジション」 ロイ・リキテンシュタインは、この絵と同じ色使いで、「ヘアリボンの少女」 を描いた
 
 ロイは、「芸術を創ったり鑑賞したりできるのは、庶民とは “人種 ”の異なる天才だ」という従来の先入観をぶっ壊し、「芸術を解き明かすことは、どんな人間にとっても平等にスリリングだ」ということを訴えたかったのだろう。
 
 ね、絵画って面白いでしょ?
 絵画を観ることは、推理小説の謎解きを楽しむのと同じようなものである。
  と、思う。

 
 

速報 地球外生命体がついにフロリダ沖に飛来

 アメリカの航空宇宙局(NASA)の発表によると、昨日の未明、フロリダ沖に謎の飛行物体が墜落し、その中から地球外生命体らしき存在を確認して保護していたことが判明した。
 
 この地球外生命体は、外見的特徴としては、地球上に存在する類人猿に近く、保護した当初は、どこかの国がチンパンジーを乗せた人工衛星を打ち上げたのではないかと推測された。
 
 しかし、各国の科学調査機関に問い合わせたところ、そのような事実はなく、生命体自身が、「自分は、滅亡を間近にひかえた惑星から、移住の可能性がある星を探索にきた」と告げたことから、ようやく地球外生命体との確証を得た。
 

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 この生命体は、英語の70%を解読し、さらにスペイン語と中国語を20%程度理解することが確認されている。
 
 生命体の話によると、
 「地球は、我々が支配する星になるという映画を信じてここまで来たが、映画に裏切られた」
 と語っているという。
 
 専門家たちは、その映画とは、『猿の惑星』のことではないかと、推測している。
 
出典 「国際 USO ニュース」

  
………………………………………………………………………… 
 
北極海に異変か? 大量の白クマが日本をめざす
 
  
 海上保安庁より、昨日、流氷に乗って東京湾に漂流してきた白クマを保護したという発表が行われた。
 
 この白クマは、東京湾沖で漁をしていた「第6福水丸」の船長、小早川秀俊さん(53歳)が発見したもの。

 
 早朝、小早川さんが流氷に生物が載っていることを発見し、近づいてみると、瀕死の白クマが横たわっていたという。
 
 小早川さんの通報により、海上保安庁の巡視艇「大和2号」が現場に急行。無事白クマを保護した。
 
 このクマは推定年齢4歳のオスで、北極圏から途中エサを採りながら南下してきたと推測される。

 

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 なお、先月は、北海道の知床沖でも、同じように流氷に乗って日本に接近する白クマが確認されており、アラスカ沖でも、流氷に乗って日本を目指す白クマの群れを発見したというカナダの漁船からの報告も入っている。
 
 このことに関し、神奈川科学大学の森山光三郎准教授(45歳)は、次のようなコメントを発表している。
 
 「このような大量の脱北グマが発生したのは、やはり地球の温暖化によって、北極圏が暑くなってきたことを反映していると思われます。
 なぜ大量のクマが日本を目指しているのかは謎ですが、ひとつには某家電メーカーのエアコンが、“白くまくん” と名づけられており、クマがエアコンの前で涼んでいる映像がクマたちに伝わり、日本に行けば涼しいのではないか、という誤解がクマたちの間に広まった可能性があります」


  
 なお、東京湾で保護されたクマは、海上保安庁の職員食堂で、ヒレカツ定食を5人前ほどたいらげ、味噌汁まで飲み干して安堵した表情になったという。
 
 政府は、今後増加すると思われる脱北グマへの対応を検討するために、民間の研究機関とも協議の上、「白クマ歓迎委員会」を設立。

 
 わが国の各動物園に「シロクマ・ワールド」コーナーを新設し、観光資源として育成することを検討する模様。

  
出典 「国際 USO ニュース」
  

「コミュ力」という言葉の軽さ  

 前回のブログで、
 「平成という時代は、コスパ思想が席巻した時代だった」
 という内容の記事を書いたが、実はもうひとつ、「平成」の精神風景を語るときに無視できない概念がある。

 

 それが、「コミュ力」という言葉だ。

 

 平成という時代は、老いも若きも「コミュ力」を高めるために必死にあがいてきた時代だったという気がするのだ。

 

 では、「コミュ力」とは何なのか?
 (こう縮めてカタカナ書きすると、「こみゅか」とも読めてしまう。なんか変な言葉である)
 
 そもそも「コミュ力」とは、「コミュニケーション能力」の略語であるが、略語化した段階で、間の抜けた響きになってしまい、なんか本来の意味から外れてくる感じがする。 


 そして、そこには本来の語義とは異なる日本語としての意味が生まれている。

 

 「コミュニケーション能力」と「コミュ力」の違いは何か?

 

 「コミュニケーション能力」と、最後までこの言葉を言い切った場合、そこには、暗黙のうちに、人間の「スキル」や「キャリア」まで問うような “真剣勝負” の必死さが込められている。

 

 大げさにいえば、真剣勝負の気合が試される場に立つという意味が浮かんでくる。
 
 それに対し「コミュ力」は、他人のインスタに「いいね!」をつけるタイミングの問題にすぎない というわけでもないだろうけれど、そういう軽さがある。

 

 日本人は、この軽さの方を選び取ったのだ。
 
 「コミュニケーション能力」と大上段に構えてしまうと、当然、「コミュニケーションとは何ぞや?」というやっかいな問題も引き受けざるを得ない。

 

 これは、すでに哲学的な問題であり、
 「同じ言語、同じ思考、同じ生活習慣に染まっている者同士が意見交換しても、それをコミュニケーションとは言わない」
 という極端な主張が哲学の世界では、昔から論じられている。

  

 その主張から導かれてくる結論は、
 「言語も、生活習慣も異なる世界に住んでいた者同士が、何かを伝えようと必死になること自体が、すでにコミュニケーションなのだ」
 ということになる。

  

 つまり、結果的に、意志一致が成立するかどうかは、些末なことに過ぎず、
 「自分と意見も、思想も、言語も、思考体系も異なる “他者” 同士が、お互いに相手の存在を認めて対峙すること」


 それこそが、真の “コミュニケーション” だというわけだ。

 

 事実、国際外交の世界では、こういう考え方で臨まない限り、相手のふところには飛び込めない。

 

 「コミュ力」という短縮形は、その面倒くさい議論を切り捨てたときに生まれた、日本人だけを相手にした言葉である。
 
 つまり、「コミュ力」とは、(ボディランゲージも含めた)「おしゃべり上手」という意味でしかなく、「空気を読む」とか、「忖度する」という気配り能力しか意味しない。

 

 こうも言える。
 「コミュニケーション能力」という言葉から哲学と社会学を引いたものが、「コミュ力」である。
  
 
 で、そういう文脈で「コミュ力」をみて、あるネットでは、「コミュ力が高い人に見られる共通の特徴」という情報が載せられていた。

 

 それによると、コミュ力が高い人というのは、
 ① 話題を多く持っている
 ② 協調性がある
 ③ ポジティブで明るい
 ④ 笑顔が絶えない

 

 要は、必死で忖度して空気を読む人になれ、ということなのだ。
 バカなんじゃないの? これつくった人。

 そんなことで、「コミュ力」を高めたところで、日本人が国際社会で生き抜く力は育たない。

 

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 私は、「コミュ力」を身に付けるために必死になっている若い者を可哀想だと思う。

 

 確かに、いま会社の新卒採用の基準に、「コミュ力」を挙げる企業が増えているという話は聞く。


 なんでも、ここ13年連続で、新卒社員の選考基準のトップは「コミュ力」だったとか。

 

 それは、産業構造の変化に伴って、モノを生産する製造部門よりもサービス部門の方に力点を置く企業が増えていることを意味しているのだそうだ。

 

 しかし、企業側も就活側も、何か勘違いしているのではなかろうか。

 ・ 協調性がある
 ・ ポジティブで明るい
 ・ 笑顔が絶えない

 

 もし、そんな属性を「コミュ力」だと定義しているのだとしたら、「体育会系」の人間しか引っかからないことになる。

 

 人間の「想像力」と「創造力」は、無理してポジティブになることによって萎えてしまうことだってあるのだ。

 

 ペラペラしゃべる前に、自分の言葉がどう相手に届くのか。
 そっちの方を想像することの方が大事。

 

 「想像力」によって鍛えられないかぎり、他者の気持ちに届く言葉というのは練り上げられない。

 

 面接官の前で、途切れることなく話す。
 合コンで、狙った女の子の気持ちを会話でそらさない。

 

 そういうのを「コミュ力」とはいわない。

 

 「コミュ力」とは、むしろ、謎めいた人間に思われることである。
 相手に対し、自分を魅力的な “パズル” として差し出す。
 そのためには、無理してポジティブになる必要もないのだ。 
 

 

コスパ思想で始まり、そして終わった「平成」

 新しい元号が発表になって、いよいよ「平成」という時代も、あと1ヵ月を切るようになったが、そのせいか、テレビなどでは「平成」という時代を事件や歌で振り返る番組が増えた。

 

 「平成」とはどんな時代であったか?

 

 私が思うに、「平成」という時代は、“コスパ” という概念に人々が異様に敏感になった時代だったのではないかという気がする。
 これは、私が考えたというより、すでに今年の正月にNHKEテレで行われた「ニッポンのジレンマ」(写真下)でも取り上げられたテーマだった。

 

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 その番組で指摘されるまで、自分でも気が付かなったが、確かに、日常的に “コスパ” という言葉をなんのためらいもなく使っていた。

 

 「自動販売機やコンビニでペットボトルを買うのってさ、コスパ悪いよな。スーパーまで行かないと
 とかね。

 

 なんのことはない。
 「20~30円高いよな」 ってことを言うだけなのに、“時代に乗り遅れない感” を強調するため「コスパ」とか使っていたわけだ。

 

 で、あらためてコスパとは何か?

 

 知ってのとおり、コスパとは「コストパフォーマンス」の略だけど、この言葉がいつから一般的になったかは諸説あるらしい。

 

 ネット情報によると、すでに1970年代には、自動車とかオーディオといった趣味性の強い高額商品を評価するときに使われていたらしいが、私はその時代、そんな言葉を得意げに語れる裕福な環境にはいなかった。

 

 しかし、その後「コスパ」という言葉は、インフルエンザ・ウィルスのようにじわじわと一般的な企業用語として広がっていった。

 

 普通の家庭の主婦が当たり前のように、この言葉を口にするのに気づいたのは、「平成」の中頃である。

 

 カミさんの友だちが、うちのカミさんに向かって、
 「◯◯のランチは、ワンプレート1,000円もするんだけれど、▲▲に行けば、サラダとデザート、コーヒーもついて980円。もうだんぜん  “コスパ”  が違うのよ」
 とかいっているのを聞いて、びっくりした。

 

 会社の営業会議の会話が、主婦層にまで浸透していることを知って、大変な時代になったもんだと思った。
 

 それにしても、なぜ「コストパフォーマンス」なる経済概念が、平成という時代になると “コスパ” という言葉に縮められて、庶民の日常生活にまで浸透してしまったのだろう。 

 

 平成がスタートしたのは1989年。
 社会主義政権のソビエト連邦が崩壊した年(1991年)とほぼ重なっている。


 つまり、「平成」とは、世界の自由主義国家が「資本主義の勝利だ!」と確信した時代の始まりを告げる年号でもあったのだ。

 

 当然、「コスパ」は、資本主義社会を生き抜く日本企業にとっても最重要課題となった。


 「無駄なものを排して純益だけを追求する」
 この精神がないと、経営は成り立たない。

 

 しかし、問題は、それが経営者たちの意識にとどまらず、一般消費者の考え方まで規定するようになったことだ。

 

 バブル崩壊後、日本の経営者たちがそろって口にした言葉に、
 「これからは社員1人ひとりが、みな経営者の立場に立ってモノを考えないと、会社が存続しない」
 というのがあった。

 

 そういう意識がサラリーマンたちに浸透した結果、「コストカット」や「成果主義」、「自己責任」などという言葉が日本中に溢れるようになった。

 

 こういった風潮は、やがて、家庭の主婦やその子供たちまで巻き込むことになった。
 つまり、平成生まれの子供たちは、無意識のうちに、コスパ的世界観のなかで育ったのだ。


 しかし、「令和」とかいう新しい時代になったのだから、そろそろこの平成的な “コスパ的” 世界観から脱却してもいいのではないか?

 

 たとえば、本を買うとき。
 最近は誰でもアマゾンを利用する。いちいち本屋まで行くことは、手間もかかるし、時間もかかる。つまりコスパが悪いということになっている。

 

 しかし、本屋までいけば、探していた本の隣に、さらに魅力的な本があることを発見するチャンスもある。

 そして、その本の方が、10年先20年先の自分にとって重要な本であったりする可能性がある。
 アマゾンで欲しいものだけ注文するのはコスパ的には正しいが、けっきょくは自分の可能性を閉じてしまうことにつながりかねない。
 
 
 つまり、「コスパ」という言葉が浮上してくることによって、われわれは何かを見失ってしまったのだ。 
 そこで見失われたものこそ、「美意識」とか「古典」、「歴史」という概念である。

 

 「コスパ」を意識していると、どうしても考え方が近視眼的になる。コスパは “取りあえず現在の無駄を省く” という考え方でしかないから、10年後20年後の展望を語ることは不得手。

 

 たとえば、2030年ぐらいの地球がどうなっているかなどという問題は、コスパ的思考では語れない。

 

 もしかしたら、2030年の地球では、世界的な温暖化がさらに進行していて、住んでいる土地が沈没してしまう島の住民もたくさん出ているかもしれない。

 

 そういう問題に直面している時代なのにもかかわらず、“コスパ” のような短期的な利益を求めていていいのか? もっと人間の命とか、生活環境とか、そういうものに考えをシフトさせていくことが大事ではないのか。

 

 最初に触れた『ニッポンのジレンマ』という番組では、誰がいったか忘れたが、次のような発言をした人がいた。

 

 メモを取ったわけではないから、正確な表現ではないかもしれないが、いちおう記しておく。
 それをもって、この稿の結論にしたい。
 
 「“コスパ” という経済合理性だけで物事を考えていくと、哲学や社会科学的な思考はすべて “無駄なこと” になる。
 しかし、今の段階では  “無駄なこと”  であっても、それが20年30年先になると、経済合理性のうえでも必要だったというものが必ず出てくるはずだ。
 だから、目先のコスパ的価値観にとらわれず、これからは、絶えず哲学とか社会科学的なテーマにおいても議論を重ね、ものごとの本質を語りあっていくということが大事である」

 

60年代R&Bバラードの頂点に立つ男スモーキー・ロビンソン

 音楽の好みでいえば、1960年代から70年代初頭のリズム&ブルースがいちばん好きである。
 
 仕事で頭が疲れてくると、まずグラスにペットボトルの紅茶を注ぎ、そこにウィスキーを数滴垂らす。
 それをチビチビ舐めながら、パソコンの前に座り、YOU TUBEを頼りに、60~70年代のR&Bを探す “旅” にさまよい出る。

 

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 この前、そういう “旅” の途中で、スモーキー・ロビンソン(写真上)の『Ooo Baby Baby』にぶち当たり、久しぶりに聞きほれた。

 やっぱりいいんだなぁ、これ!

 

youtu.be

 

 本当に、スモーキー・ロビンソンは素敵だ。
 上は、ミラクルズを率いていた時代(1965年)の貴重な動画。

 

 もちろん、この時代、私はラジオでしか、この曲を聞いたことがなかった。
 その曲が収録されたテレビ番組が、こんなふうであったことを知り、もう感無量である。

 

 スモーキー・ロビンソンは、もちろんシンガーとしても大好きな人だけど、ソングライターとしてもっとも敬愛する人の一人だ。
 特に、バラードを作らせたら、R&B界でこの人の右に出る人はいない。
 
 70年代に入って、ソウルミュージック界では、フィラデルフィアサウンドが一世を風靡して、ギャンブル&ハフとかトム・ベルのような人たちが、数々の華麗なバラードを作ってきたけれど、スモーキーの素晴らしさにはかなわなかった。

 

 なんといったって、スモーキーのバラードは、“鼻歌” で歌えるのだ。
 つまり、演奏(カラオケとか )の助けを借りなくなって、気持ちの良い朝に、自転車を漕ぎながら歌えてしまう。
 
 これぞ、“名曲” の原点である。
 坂本九の「上を向いて歩こう」だってそうだけど、鼻歌で歌えるからこそ、世界に広まったのだ。

 

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 YOU TUBEの面白さは、検索しているうちに、思いもかけないアーチストの見たこともないライブに接したりするところにある。

 

 で、このスモーキーつながりで、次に発見したのが、ホール&オーツのダリル・ホールと共演しているライブ映像。
  
 これは、ほんとうに涙モノだった。
 演奏された場所は、あの有名な「Daryl’s House」。

 

 では、この映像のいったい何が「涙」なのか。
 
 それは、ダリル・ホールのソウル・ミュージック(R&B)へのリスペクトがしっかりと感じられるからだ。

 
 彼にとっては、まさにソウル・ミュージック界の神様のようなスモーキーへの熱いリスペクトが、こちらにも伝わってくる。

 

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 ダリルは、スモーキーを横に座らせ、そのスモーキーの持ち歌である「ウー・ベイビー・ベイビー」のイントロを、ちょっと恥ずかしげにギターで引き出す。

 

 たぶん、打ち合わせもない選曲なのだろう。
 ダリル・ホールが歌いだすと、スモーキーの方も、「ええ? オレの歌やるの?」とばかりに、照れとはにかみを漂わせながら笑う。

 

 バックのミュージシャンも、ニヤニヤしながら、その成り行きを見守る。
 で、 “師匠” の前で、あの、あのですよ! あのダリル・ホールが、ずぶの素人のような初々しさで「ウー・ベイビー・ベイビー」を歌い始め、師匠がバックに回ってサポートする。

 

youtu.be

 

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 この心の通い合う温かいやりとり!
 師匠スモーキーを慕うダリル・ホール。


 弟子の成長ぶりを温かく見守るような、スモーキーの笑顔。
 ソウル好きには、感涙なくして見られない。
 
 ああ、紅茶に垂らしたウィスキーがうまい!

 

 次に紹介する「ベイビー・カム・クローズ」は、70年代にFENで聞いたものだが、その時代、日本版どころか、輸入盤も手に入らなかった。

 

 これを買うために、( だけでもなかったけれど)、昔、アメリカに行ったことがある。
 

 で、この『Baby Come Close』
 ねっとりとした甘みを持つ、極上のワインの味わい。
 触れると肌がとろけそうな、シルクの感触。


 ストリングスのアレンジがなんともいえずに心地よいんだけど、決してフィリー系のような華麗さを追求するものではなく、繊細さを大事にしている。
  
 この「ベイビー・カム・クローズ」という曲には、自分が思い描ける最高の快楽の姿があった。


 自分の「恋愛シーン」を思い浮かべるとき、愛する女性とベッドインする機会があったら、ぜったいBGMはこれだ! と思い込んでいた時期がある。 
 
 結局、その思い込みはいまだに果たしていない。
 (結婚したあと、カミさんとも、こういう機会は持たなかった)
 
  ということは、これから来るというのだろうか?
 もうじき69歳なんだけど。

 

youtu.be

 

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人は誰も自分の記憶の古層にはたどりつけない

 すべての人間は、「自分は橋のたもとで拾われた子どもではないか?」という疑問を解消することはできない。

 

 両親の温かい愛に包まれた幸せな幼年時代
 そのような記憶があったとしても、それははたして本当の記憶なのだろうか。

 

 1982年に公開された『ブレードランナー』という映画では、ある人間の記憶をそのまま移植されて、その記憶を自分のものと信じ込んでしまうレプリカント(人造人間)が登場する。

 

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 「レイチェル」(↑)と名付けられたその美貌のレプリカントは、レプリカント産業を創設したタイレル博士の姪の記憶をそっくり移植されていたため、自分のことを「人間」だと信じ込んだまま過ごしている。
 
 だが、ある日、レプリカントを “抹殺する” 仕事の総称である「ブレードランナー」のデッカードハリソン・フォード)のテストを受けた後、レイチェルは自分が人間ではないのかもしれない という悩みを抱える。

 

 彼女は、もう一度、自分の脳裏の底に沈んでいる自分の記憶を再検証する。
 幸せな幼少期を過ごした実家の美しいグリーンに輝く芝生の庭。
 優しい父と母の笑顔。

 

 彼女がそのような記憶をたぐり寄せるときに、画面に流れるのが下の曲である。
 ヴァンゲリスが作曲した「グリーンの思い出」という曲は、「愛のテーマ」と並ぶ、このサントラでもっとも美しいメロディといっていい。

 

youtu.be

  
 彼女は、この曲を思い出しながら、思う。
 「こんなに鮮明な記憶を持っている私が、レプリカントなんかであるはずはない」。

 

 しかし、レイチェルの自信は、美しいメロディとはうらはらに、どんどん揺らいでいく。


 レプリカントとはいえ、一人の美女が自信を失っていく過程に、こんな甘い旋律の曲が使われるというのは、またなんと残酷な演出なのだろうか。
 制作側の美しくも邪悪な意図に、心が寒くなる。

 

 しかし、レイチェルの不安は、実は、人間が誰しも抱える不安でもあるのだ。
 人間のアイデンティティが、個人の「記憶」に頼っている以上、幼少期の「記憶」などは、 両親の人為的な操作などによって、いかようにもにつくり変えることができるからだ。

 
記憶の古層から浮上する “見知らぬ記憶”

 

 人の記憶の古層には、自分が意識しているものとはまったく別の記憶が眠っていることがあるということを、自分で体験したことがある。

 

 昔、会社の同僚が運転するワンボックスカーの助手席に座って、長旅の退屈を持て余し、車内にあった輪ゴムを何気なくよじっていたときのことだった。
 
 輪ゴムのねじれた場所が、数珠玉のように固まっていく。

 

 それを見ながら、遠い昔、ヒマを持て余してこんな行為を飽くことなく繰り返していたな と思っ瞬間、大脳皮質に亀裂が入り、40年以上思い出しもしなかった一つの情景が浮かび上がった。

 

 私は、広場の一角にいる。
 そこでは、露天商がいろいろな物を売っている。
 夕方の太陽が地面に弱々しい陽射しを投げかけている。

 

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 その市場の背景には何があるのか。
 何もない。

 
 異国の砂漠の中で開かれた市場であるかのように、その日最後の夕陽に照らされたぼんやりとした空間が広がっているに過ぎない。 

 

 私はおもちゃの露天商の前に立って、熱心におもちゃを見ている。
 貧しい時代の貧しいおもちゃが並んでいるが、それは今の時代の感じ方で、そこに立っている私は、様々なおもちゃを揃えた店先の贅沢さに心を奪われている。

 

 特に、体に突き立てると刃の部分が引っ込んで、あたかも刺さったかのように見えるブリキのナイフのおもちゃに、私は特別な興味を覚えている。

 

 そのナイフをねだりたいのだが、親の姿は見えない。
 おそらく親が近くで用事を済ませている間、その場所を離れないように とでも言いつけられたのかもしれない。

 

 そのとき、突然、もう二度と親とは会えないのではないかという心細さが襲った。
 自分は、この場所に捨てられたのではないか。

 

 そう思う不安感と、それとは別に、露天商の店先に並ぶ珍奇な品々の輝きに魅入られている自分がいる。

 

 別離の予感と、好奇心と誘惑に彩られた孤独な充実感。

 

 突然脳裏をよぎったその情景は、一瞬の雷光のように、闇に消えた。

 

 

 イメージに残った露天市場の情景は、印象からいうと昭和20年代末期といった雰囲気だった。
 年齢でいうと2歳か3歳頃。

 

 今住んでいる場所に引っ越す前の場所にいた頃だが、その露天商が並ぶ場所がどこなのかは全く分からない。

 

 もちろんなぜそんな情景を思い出したのかも分からない。
 ねじった輪ゴムの記憶も、直接その情景とは結びつかない。

 

 ただ、輪ゴムをねじるという単調な遊びが、逆にそれを退屈と感じさせなかった「黄金の幼年期」に対するノスタルジーを引き寄せたのかもしれない。


デジャブとは何だろう?

 

 私たちは、はじめて訪れた場所なのに、ある光景に接して、前にもその場所を訪れたような錯覚に陥ることがある。

 

 世でいう「デジャブ(既視覚)」。

 

 人間にそのような心理状態が訪れることを、心理学は解明しきれていない。
 だが、記憶の古層に眠っていた光景が、突然何の前触れもなく現出して、それが今見ている風景に重なることはありうるだろう。

 

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 それにしても、私の意識の届かない記憶の底に、封印されたもう一つの私の世界があるというのは不思議な気持ちにさせる。

 

 私の幼年期の記憶というのは、(先ほども言ったように)後になって親から聞いた話を元にして想像で組み立てられた部分もあるに違いない。

 

 そのような人為的に構成された「記憶」に、自分の想像力が絡まって、実際の記憶とは異なる「物語」が創作される。
 そういう可能性は、誰にでもあるはずだ。

 

 いずれにせよ、幼年期に自分がどんな世界に住んでいたのかは本人にも分からない。 

 
 つまり、誰にも、何らかの理由で自ら封印してしまった世界があるのだ。
 その封印を解くことは、もしかしたら「自我」の崩壊を導くことになるのかもしれない。


 冒頭で言ったように、すべての人間は、「私は橋のたもとで拾われた子なのか?」という疑問から一生無縁ではいられない。

 

 本当の自分はどこから来たのか。
 それこそ、人間が抱える根本的な「謎」なのかもしれない。
 

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