アートと文藝のCafe

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キリコ作『街の神秘と憂鬱』の謎

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アート批評
ジョルジョ・デ・キリコの形而上絵画

  
 われわれは「イタリア」という言葉から、人間性謳歌する享楽的で、現世的な文化風土を想像しがちである。
 しかし、そのような「明るく陽気な」風土が広がるイタリアというのは、ローマ以南、ナポリシチリアのような地中海世界に限られたものだ。
 
 トリノのような北イタリアには、それとは違ったイタリアが存在する。
 春や夏のイタリアではなく、秋と冬のイタリアがある。
 シュールレアリズムの祖といわれるジョルジョ・デ・キリコは、そのようなイタリアを描いた画家だ。
  

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 かーんと晴れ渡った、限りなく透明な空の下に横たわる、人のいない街。
 午後の一瞬を、「永劫の時」に凝固させたまま動かない空。
 地面に伸びる影もまた、秋の日差しを凍結させたまま、流れの止まった「時」の中に眠っている。

 

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 地上に立たされた人影は、人なのか彫刻なのか区別もつかず、永劫の時間に閉じこめられた風景に「不安」の彩(いろどり)を添える役割しか持たされていない。
 そこには、人間の住むことを拒むような、どこか超越的な気配に染められた世界が描かれている。

 

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 キリコは、自らの絵画を「形而上絵画」と呼んだ。
 この世を超越した思念や感性に満たされた「絵」という意味だ。

 

 つまりは「この世ではない世界」を描いた絵であり、現実としては見ることのできない風景を捉えた絵ということである。
 
 かといって、それはダリやルネ・マグリットの描いたシュールレアリズム絵画のように、「この世に存在しないもの」が描き込まれた絵ではない。
 イタリアには普遍的に存在するファサード、広場、噴水、彫刻などが描かれているに過ぎない。
 
 この世にないものなど一つも描かれていないのに、なぜ彼の絵からは「非現実感」が伝わってくるのか。

 

 それを考えることは、われわれの住んでいる「世界」 …… すなわち「近代」という時代区分の中で生きている私たちの「精神風景」が、いったいどのようなものであるかを問い直す作業につながってくる。

 

▼ キリコ自画像

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遠近法的な世界観の誕生 

 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、彼が近代絵画の手法を意図的に “無視した” ところから生まれている。

 具体的にいうと、彼は、近代の具象画の常識となった「消失点作図法」をわざと壊したのだ。
 
 「消失点作図法」というのは、一般的に「遠近法」といわれる技術を指し、画面の中心に、すべての物を吸い込んでしまう「消失点」を設け、そこから放射状に逆放射される “架空” の放射線に沿って、建物、人物などを配置していく描き方をいう。

 

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 こうすると、遠景の建物は、放射線に沿って小さく描かれ、手前の建物は大きく描かれることによって、見かけ上の “奥行き” が生まれる。
 
 この手法は、ルネッサンス絵画の時代に少しずつ生まれ、その後、近代絵画の時代に精緻に理論化されていった。
 

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 現在のわれわれは、こういう “遠近法” で描かれた絵を観たときに、それを「リアル」と感じるように訓練されている。
 
 しかし、実は、それは人間の自然な眼の動きではなく、「消失点作図法」という絵画上の技術によって確立された人工的な “視線” でしかない。

 

 そのことは、江戸時代の浮世絵やルネッサンス初期の宗教画のような、近代絵画が誕生する前のフラットな絵画と比較してみると、よく分かる。

 

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 近代以前の人々が描いた「空間」は、近代以降の人々と同じ「空間」を見ていたはずなのに、奥行きを失った、ベタっとした平面で描かれている。

 

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 このことを、「昔の絵描きは幼稚で、現代の絵描きは上手くなった」
 と、捉えてはいけない。
 
 近代以前の絵描きたちは、それでも十分に、「リアルな現実」を描いたつもりでいたのだ。

 
「奥行き」を必要としなかった中世の人々


 なぜ、近代以前の人々は、このような奥行きを失った絵画を「リアル」だと感じていたのだろうか?

 それは、「何に感動するのか?」という感動の原点が、現代人とは異なっていたからだ。
 
 たとえば、ヨーロッパ中世から近世にかけての時代。
 遠くから旅を続け、各地に散らばる町の教会を訪れた巡礼たちは、そこに掲げられる宗教画を眺め、人智を超えた神の世界から届くメッセージを受け止めたはずだ。

 

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 それらを眺めた彼らは、キリストの受難に涙し、背徳にまみれた町が劫火に包まれることに恐怖し、赤子を抱きかかえるマリア像に癒されたことだろう。
 

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 すなわち、そこに描かれた「世界」が、もうストレートなメッセージだったのだ。
 
 中世において、人間にメッセージを与える存在は「神」しかいなかった。
 「神」は、そもそも “奥行き” などを超越した世界にいるから、2次元空間の絵画などには描きようもない。

 

 おそらく、中世の人々は、近代絵画から生まれた「遠近法的空間」などを知ったとしても、何の興味を示さなかっただろう。

  


自然科学的な世界観が生まれて人間の感性が変わった
 
 しかし、近代社会が成立するようになると、宗教的世界観に代わり、自然科学的な世界観が浮上してくる。

 

 自然界は、数学的に、物理的に計測可能なものになり、その数学的な計算に従って、絵画空間を再構築しようという動きが出てくる。
 
 「消失点作図法」という遠近法は、そのような “近代の眼差し” から生まれたものだ。
 

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 そのような、“奥行き” のある絵画を眺めることによって、人は、やがて、世界を眺める揺るぎなき「自己」という存在に気づくようになる。

 

 眺める「自己」
 眺められる「自然」 

 すなわち、「主体」
 そして、「客体」
 
 この二つが明瞭に分離できるという思想こそ、近代合理主義の源になっている。

 

 どのように自然界が混沌としたものに見えようとも、それを眺めている「自分」だけは揺るがない。

 「近代的個人」というのは、そこから生まれた。
  
 
「自己」が不安にさらされる時  
 
 ジョルジョ・デ・キリコは、その近代に確立された「揺るぎなき自己」を、もう一回解体するような絵を描いた。

 

 彼は、「近代的な個人」というものが仮構の存在であり、「個人」を成立させるはずの合理主義的などというものは、実に安定感を欠いたものであることを、自らの絵で示そうとした。
 
 キリコの絵を前にすると、理由のはっきりしない不安、けだるいメランコリー(憂鬱)、得体の知れない恐怖が、足音を忍ばせながら、そぉっと近づいてくる気配を感じるわけだが、それは、「自己」が解体していく過程に立ち会うからだ。 
 


絵の中に無数の消失点が生まれる不可解さ

 

 その例を、彼の絵で具体的に追ってみよう。

 下の絵は、有名な『街の神秘と憂鬱』という絵だが、左側の白い建物と、右側の黒い建物の輪郭をなぞる線が、それぞれ別の消失点に向かっていることが分かるだろう。
 
 さらに、黒い建物の隅にうずくまる馬車は、両側の建物とはまた別の方向に向かう輪郭線を示しており、この絵の中に、「無数の消失点」が存在することを伝えてくる。 

 

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▲ 「街の神秘と憂鬱」

 

 「消失点」が一つしかないということが、近代的遠近法を成立させる “お約束事” であったのだが、ここでは、その近代的遠近法を狂わせる手法がわざと多用されている。

 

 つまり、ここには、「世界」を見る確固たる「自分」は存在しない。
 「自分の眼」は無数に増えて散らばり、「統一された自己」を裏切り続ける。
 
 キリコの絵に漂う「非現実感」というのは、「現実を捉えきれなくなった自己」へのおののきから生まれてくる。
 そこにはまぎれもなく、「自己の絶対性」を主張して止まない「近代」への懐疑が潜んでいる。
 
 だから、ここに描かれているのは、近代の意匠に包まれた人間が、その意匠を剥ぎ取られたときの、生々しい「生の実感」そのものなのだ。
 
 実は、人間は、本来はこのようにして「世界」を観ているといっていい。
 
 今われわれが、絵画、写真、映画、ゲーム類を通してなじんできた「3D画像」は、実は「安定した自己」を前提とした “近代的感受性” に支えられた虚構の視点でしかない。
 
 それは、「見る自己」と「見られる対象」の間には、科学的に計測可能な「距離」があるという盲目的信仰に依拠するもので、その「距離」への信頼を失ってしまえば、「世界」はたちどころに、夢のような世界に近づいていく。
 
 しかし、それは、ダリやマグリットが描く幻想世界とは別のものだ。
 

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▲ ダリ 「内乱の予感」

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▲ マグリット 「ピレネーの城」

 

 
キリコの絵に漂うノスタルジーの秘密
 
 絵画の中には「幻想的な絵」というものが数多くあるが、多くの幻想画が、単なる “不可解” なるものをたくさん集めたコラージュによって荒唐無稽の世界を描いているのに比べ、キリコは近代的な作図法そのものに中に、その破綻を見出した。
 
 そこには、揺るぎないと信じていたものが遠のいていくときの、取り残された者を襲う「根源的な寂しさ」が宿っている。
 
 そして、その寂しさは、人が、様々な近代的意匠を脱がされて、原始の人間に戻っていくときの懐かしさにも通じている。
 
 キリコの絵に漂うメランコリー(憂鬱)が、ノスタルジー(郷愁)ともつながっているのは、そこに理由がある。
  

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“オネェ系” の店でモテるコツ    

 “オネェ系” というのか、昔は「オカマ」っていったんだけど、あの人たちって、面白いよね。

 ときどき顔を出す居酒屋で、カシラを塩で焼いてもらって遅い夕食をとっていたら、隣りのオカマバーのママさんがふらりと入ってきた。
 
 「マスター、やきそば! お客が来ないんで、鏡を見ながら自分を口説いていたら、フラれちゃったわよ。
 あんな “ブス” にフラれるなんて、私も落ちたものよ」
 
 はるな愛というよりは、マツコ・デラックスに近いそのママさんのひと言で、店内の雰囲気が一変した。
 
 独り者の老人たちしかいないどんよりとした店だったのに、オカマの《彼女》が入店しただけで、とたんに、マフィアや芸人や、不倫カップルがひしめく妖しくも華やかなナイトクラブのように見えてきたのだから不思議である。

 

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 あの人たちが持っている「空気を変える力」というのは、どこから出てくるのだろう。

 

 テレビを見ていても、マツコ・デラックス、IKKO、ミッツ・マングローブ美輪明宏あたりが登場するだけで、場の空気がさぁ~っと変化する。

 

 それは、《彼女》たちのしゃべりが、たとえ「毒舌」であったとしても、そこに冷徹な真実が隠されているという説得力に裏打ちされているからだ。
 
 その説得力というのは、自分自身を自虐ネタとして使える、ふてぶてしいサービス精神から生まれてくる。
 
 《彼女》たちの会話が面白いのは、自分自身をピエロ化して、「自分を笑ってもらう」精神に徹しているからだ。

 

 だから、オカマバーに行っても、大半のお客は、“バカで間抜けな” そのオカマを、遠慮なく笑い飛ばす快感を与えられる。
 
 しかし、調子に乗ると怖い。
 《彼女》たちは、自分自身を冷静に分析する視線を、今度はお客の方に向ける。
 
 その “取り引き” のタイミングを飲み込めない客は、《彼女》たちから辛らつな皮肉を浴びることになる。
 オカマバーは「人間道場」だな と、つくづく思う。

 

 

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 昔、オカマバーで、給料の半分を一晩で使ってしまったことがある。
 その月の後半は、ほとんど水だけを飲んで寝ていたが、それでも後悔しなかった。
 
 池袋の場末のスナック街を一人でふらついていたとき、妖しげなバーの前にたたずんでいた不二家のペコちゃんみたいな女の子に声かけられた。
 「1時間2千円でいいから、遊んでいかない?」
 声は、男そのものだった。

 

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 そこは、剥げかけたカウンターの前に、ひび割れたスツールが6脚だけ並んだ粗末な店だった。
 真ん中のスツールに腰掛けた私は、たちまちのうちに、ドサ回りの田舎芝居のような一団に取り囲まれた。

 

 ペコちゃんとママさんは “美人系” 。
 残りの2人は “怪物系” 。

 

 《彼女》たちの乾杯の音頭が店内に鳴り響き、たちまちのうちに、店は、リオのカーニバルのような喧騒に包まれた。
 
 “異次元” の世界に引きずり込まれるのは、あっという間だった。
 気づくと、すでに私は、飛び込みでこの店を訪れた「芸能スカウト」の役を振り当てられていたのだ。

 

 ママさんがいう。
 「あなたさぁ、芸能界の雰囲気を知っている感じの人よね、ひょっとして、新人タレントを発掘しているスカウトマンじゃない?」
 
 もちろん《彼女》たちだって、本気でそう思っているわけではない。
 話題をスタートさせるための、“空気” をつくっただけなのだ。
 
 「おいおい、よせよ。今日は仕事を忘れて、飲みに来ただけなんだから。俺が芸能スカウトマンだとしても、今日は仕事をしないよ」
 
 冗談めかしてそう答えただけなのに、それで、《彼女》たちの、今晩のお客のからかい方が決まったようだ。
 つまり、店全体が、タレントになりたいためにオーディションを受ける人間が集まる疑似イベントの場となった。
  
 そうなると、私の役はオーディションの審査委員だ。

 「だめだめ。そこは高音部がヴィブラートしないとだめ。全盛期の松田聖子でも勉強しろよ」
 と、《彼女》たちがうたう歌に、私が “ダメ出し” をする。

 

 「じゃ、先生ひとつ歌ってよ」 
 と、今度は《彼女》たちが迫る。

 そこでテキトーな歌をうたう。

 

 「すごい! さすがプロ。勉強になるぅ!」
 と、虚偽の賛美の大嵐。
 
 すべては「虚偽」。
 《彼女》たちのタレント志望も虚偽ならば、私のスカウトマンも虚偽。

 

 しかし、“まじめに” 虚偽の人格を装い続ける私に、虚偽の「女性」を生きてきた《彼女》たちは、そこに「同僚の匂い」を嗅ぎ取ってくれたのだと思う。

 

 もし、本当に私が芸能関係の仕事に就いていたら、《彼女》たちの反応はもっと冷ややかなものだったろう。 

 


 
 「1時間2千円」の制限時間はとっくに過ぎて、「ここから後は1時間3千円コースだけどいい?」
 その後は、 「これからは、1万円コースよ。いい?」
 どんどん高くなっていく延長料金。
 
 いい加減に神経もマヒしていた。
 でも、それだけ楽しかったのだ。
 「よーし、ナミちゃんに水割り一杯。ママさんにはブランデーロック」
  ってな感じで、ついに明け方を迎えてしまった。

 

 ああ、 こんな感じで、カネをむしりとられるのだな と分かった時には、もらったばかりの給料の半分を、一晩で使い果たしていた。
 
 でも不思議と私は、それを後悔していない。
 あの時、自分は、八方ふさがりのどん底に追い詰められていた。
 「自分はこうであらねばならぬ」という目指すべき自分と、そこに到達できない自分との乖離を感じてアセっていたときだった。

 その鬱屈した思いが、一晩で、洗い流されたように思う。
 

 

 虚構の「性」を生きるオカマたちは、その不安定さと引き換えに、透徹した認識力を獲得する。
 《彼女》たちは、女であることに甘えている女性も許さないが、それ以上に威張った男を許さない。

 

 別の店で、女を粗末にしていることを吹聴した男が、オカマたちからコテンパンにやりこめられる現場を目撃したことがあった。
 《彼女》たちは、女以上に、「男の既得権益」のようなものを振りかざす男に容赦がない。

 

 自分がどういう「男」なのか知りたい男性は、一度オカマバーに行くといいのかもしれない。
 
   

 

「ジェリー四方」の梅丘(世田谷)ライブ

 東京の赤坂を中心に、西麻布、銀座のライブハウスで活動している「Rock-O-Motions(ロコモーションズ)」というバンドがある。

 

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 そのリーダーのJerry四方(四方寿太郎・しかたじゅたろう)氏(写真下)というのが、私の高校時代の同期生だ。
 年齢的にいうと、60代後半。
 シニアバンドというか、 要は、“爺さんバンド” だね。

 

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 で、この土曜日、いつもは4~5人編成の「Rock-O-Motions」のうちの2人、Jerry四方(ヴォーカル・ギター)と、Eddy早川(キーボード)の両氏だけによる小ライブが開かれた。

 

 会場は、世田谷区梅丘(1-15-13)にある「Bar珍品堂」(オーナー中村早苗氏)。

 

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 骨董品屋の店舗に椅子・テーブルを備え、バー(&喫茶店)の機能も加えたという面白いお店で、20人ほどの来場者があると、そのうちの数人は立ち見になってしまうという可愛らしいお店なのだが、それだけに、会場に居合わせた参加者は知らない者同士でもすぐに打ち解けるというアットホームな雰囲気に包まれることになった。

 

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 この日のライブの企画タイトルは、
 「Jerry 四方&Eddy 早川による、Adult Songs Satarday Live」

 

 う~ん … 、やたら英語が並ぶタイトルで、こういうところに、私たちの世代、つまり、「若いときに洋楽にかぶれたジジイたち」の粋がりが表れている(笑)。 

 

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 で、ライブのしょっぱなが、デル・シャノンの「悲しき街角」(1961年)。
 続いて、テンプテーションズの「マイガール」(1965年)。
 その次が、スティービー・ワンダーの「太陽が当たる場所」(1966年)。 

 

 私とかジェリー四方氏は、こういう曲を、中学生か高校生のときに聴いて育ってきたわけ。

 

  
 四方寿太郎氏のステージを見たのは、もう50年くらい前になる。
 高校の学園祭のステージで、彼は「キックス」というバンドのヴォーカリストとして前面に立ち、学ランの第二ボタンあたりまで外し、スタンドマイクを揺すって黒人顔負けのR&Bを演奏していた。

 

 アーチー・ベル&ドレルスの「タイトンアップ」や、エディ・フロイドの「ノック・オン・ウッド」、サム&デイブの「ホールド・オン」。
 どれも、当時の赤坂や六本木の最先端ディスコで流れるようなバリバリのR&Bばかりだった。

 

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 ショックだった。 
 「俺たちの高校に、こんなカッコいいバンドがあったのか!」
 という驚きが込み上げた。

 

 後で聞くところによると、当時、彼らは高校の授業に出席するのもほどほどに、夜は都心のディスコや米軍キャンプに出演し、本場の外人から熱狂的な支持を集めていたのだとか。

 

 高校時代の四方氏は、
 まず、イケメン。
 歌はうまい。
 楽器も上手。
 しかも、身のこなしが颯爽としている。
 なんとなく、家柄が良さそうだ。
 それでいて、不良っぽい雰囲気がある。

 

 ま、“スクールカースト” などという言葉を使えば、そのカーストの最上位にいた男だったのである。

 

 当時、学ランをちょっと改造して、上着もズボンも細身に絞ったものを着こなすのがスクールカースト上位にいる連中の “作法” だったが、同じように学ランに細工を施しても、私のような人間と四方君たちの着こなしは、何かが違うのだ。

 

 ま、それは、学ランの形にあるのではなく、着る人間の “センス” のようなものだったかもしれない。
 彼は帰国子女で、英語もペラペラ。
 海外体験によって得た “舶来もの” の空気を身にまとっていたからね。

 

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 今は、こんな感じ(↑ 落ち着いたオヤジ)だけど。

 

 で、四方氏。

 若い頃は、校内ですれ違っただけで、こちらが身を斬られるような “風” を巻き起こす男だったけれど、今はだいぶ角が取れて、ギャグとジョークばかり連発する “悪乗りオジサン” になってしまっている。

 

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 この土曜日のライブも、次のような挨拶でスタートだ。

 

 「今日は、お花見にいちばん適した土曜日だといわれていますよね。
 それなのに、お花見に行かず、わざわざこちらのライブに来てくださって本当にありがとうございます。
 まぁ、お花見のメンバーからは声のかからなかった人たちだということなんでしょうね (笑)」

 

 こういう人を食ったようなトークがジェリー四方氏の持ち味だ。
 曲と曲の合間には、こんなことも言っていた。

 

 「いやぁ、僕の良きライバルだった内田裕也ショーケン最近がバタバタと亡くなってしまって、ショックです。
 僕は本当に彼らのことをよく知っていましたから。
 向こうは知らなかったと思いますが   」

 

 「僕は、八王子に住んでいるんですけど、八王子のビッグミュージシャンって3人いるんですよ。 
 知ってました?
 ユーミンと、つのだひろと、ジェリー四方です。
 最初の2人は全国区ですけど、ジェリー四方は八王子ローカルで、しかも近所の人しか知りません」

 

 最後の “オチ” がないと、ただの大ボラ吹きである。

 
 今回のトークではないが、以前お医者さんたちで構成されたオヤジバンドとのジョイントコンサートになったときがある。
 
 四方氏のトークは次のようなもの。

 

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 「次の僕らの曲は、もう “失神もの” の曲ですから、女性の方は遠慮なくどんどん倒れてくださいね。
 心配ないです。今日は楽屋にお医者さんだけの『対バン』が来ていらっしゃいますから。
 しかも無料検診です。
 女性の方は今からもう胸をはだけられるような格好で聞いてください(笑)」

 

 こういうトークの方が、かえって女性客から支持されるのね。
 このへんの女心のくすぐり方は、高校時代と変わっていないようだ。

 

 今回のライブでは時事ネタも披露。

 

 「この前、アメリカのトランプ大統領と、北朝鮮金正恩キム・ジョンウン)第一書記が会談しましたよね。…… 米朝会議。
 あれで、一番怒ったのは、日本の落語家たちだったんですってね。特に、桂米朝の弟子たち。
 『あいつら、なんの断りもなしに、うちの師匠の名前を勝手に使いやがって !』と米朝の弟子たちが怒ること怒ること。
 そのせいで、トランプも金正恩も新宿の『末広亭』は出入り禁止になったらしいですな」

 

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 これは、当日、会場に来るまでの電車のなかで考えたネタだったらしい。
 ついでに、こんなのも。

 

 「アメリカ人は、北朝鮮の人の名前が発音できないらしんですね。
 で、私が当日の会談に出席にした通訳に聞いたところでは、トランプ大統領は、金正恩キム・ジョンウン)の名前が呼べなかったらしい。
 『金(キム)』まではなんとか発音できたけれど、そのあとが分からなくなって、『キム・ジョンウエイン』と連呼していたそうです(笑)」

 

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 こういうヤバイネタも、さらりと披露するジェリー四方氏。
 ま、文字にすると、オヤジ特有の駄洒落なんだけど、彼のトークには独特の “間” があって、聞いているだけで心地よい。
 
 とにかく、歌って、しゃべって、酒を飲んでの楽しい4時間でありました。 

 

 

レクビィ35周年記念ミーティング

 4日間ほど、愛知県を旅した。
 キャンピングカー業界の老舗「レクビィ」さんの創業35周年記念ミーティングにお声をかけていただき、取材も兼ねて、瀬戸市品野町にある「サテライトギャラリー(同社キャンピングカー展示場)」を訪ねたあと、増田浩一社長の案内で、地元の陶芸家の工房なども見学させたもらった。

 

▼ サテライト・ギャラリー「レクビィ・ステーション」

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販売スタッフやキャンピングカー
メディアの記者たちが40人集まる

 

 3月27日(火)の「レクビィ35周年記念ミーティング」に参加したのは、レクビィの車両を販売する各ディーラーの代表者。
 北は北海道から南は九州までの約20社から23~24名。
 それに、レクビィ本社の社員およびキャンピングカーメディアの代表者やキャンピングカーライターが加わり、総勢40人ほどの会合となった。

 

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 「サテライトギャラリー(レクビィ・ステーション)」というのは、レクビィ本社工場の近くにオープンした同社のキャンピングカー展示場。
 本社より車で1分程度の「道の駅 瀬戸しなの」内にオープンし、今年で開設3年目を迎える。

 

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 基本的には、レクビィブランドを中心に展示する営業拠点の一つだが、営業色を抑え、 
 「キャンピングカーというものを詳しく知らない人々に、“現物はこういうものです” 、と知ってもらうための “ギャラリー” 」
 として位置づけられている。


来場者が気楽な雑談を楽しめる展示場

 

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 同社の代表を務める増田浩一氏(写真上)は、こう語る。

 

 「キャンピングカーというと、いまだにアメリカの巨大なモーターホームを想像される方々も多いのですが、街でよく見かけるワンボックスカーだって、立派なキャンピングカーになるんですよ、ということを知ってもらいたい」

 

 そして、
 「われわれスタッフが、来場者にキャンピングカーの魅力を “力説する” のではなく、逆に、展示場に来られた方々から、どのような旅行のスタイルが好きなのか、あるいはどういう仲間と旅行に行くのが楽しいのか、そんな話をいろいろ聞く気楽な雑談の場にしたい」
 という。

 

 もちろん、キャンピングカーユーザーが休憩に立ち寄ることも大歓迎。
 給水も、AC電源の充電も自由だ。

 

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レクビィ35周年の歩み 

 

  「35周年記念ミーティング」が開かれた当日は、各招待者がこのサテライトギャリーに集合し、お昼のお弁当をご馳走になったあと、道の駅の会議室で、レクビィの歴史、企業理念、現行車種の説明、オリジナル装備の機能紹介、マーケット分析、キャンピングカー文化の将来的展望などの説明を受けた。

 

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 参加者に配られた説明資料によると、同社が設立されたのは1984年。当時の社名は「ロータス名古屋」だった。


 「レクビィ」に社名変更したのは1990年。
 今でも同社の主力ブランドとして親しまれているバンコンの「ファイブスター」が誕生したのも、この時期である。

 

 その後、自社ブランドと平行して、輸入車を手掛けたりした時期もあったが、現在は日本を代表する国産バンコンのリーディングカンパニーとして、業界からもユーザーからも一目置かれる存在になっている。


キャンピングカーライターの
岩田一成氏といっしょにトークショー

 

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▲ 岩田一成氏(左)

 

 会議室の説明会では、キャンピングカーライターの岩田一成氏といっしょに、演壇に座り、参加者の前でトークショーを行った。
 テーマは、レクビィ車の機能性とその文化的意義。

 

▼ レクビィのフラッグシップモデル「シャングリラ」

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 岩田さんは、レクビィのバンコンが心がけている
 「簡単なベッドメイキング」
 「人の動線を確保したフロアプラン」
 「(上級ブランドにおける)トイレスペースの意義」
 について言及。

 

 私は、岩田さんの説を補足して、
 「(同社のフラッグシップモデルである)シャングリラをはじめとするカントリー・クラブ、ファイブスターなどのトイレスペースを持つバンコンの心理的効果」について語らせたもらった。


▼ トイレ用個室スペースを持つ「ファイブスター」

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 キャブコンにはトイレ/シャワースペースを持つ車は珍しくない。
 特に輸入モーターホームや大型の国産キャブコンでは、トイレスペースこそが、その車のブランド力をアピールする装備になったりすることもある。

 

 しかし、バンコンでは珍しい。
 もともとバンコンユーザーはスペース効率を優先する志向が強いため、リヤにトイレスペースを持つことを “もったいない” という感覚で見てしまう。

 

 だが、私のように、トイレ付キャブコンを25年間乗り続けてきた人間からすると、キャンピングカーのトイレスペースというのは、単なる機能的空間以上の大切なものだという感覚が強い。

 
キャンピングカーのトイレは
何のためにある?

 

 もちろん機能面だけに限定しても、室内にトイレがあることのありがたみはとても大きい。


 確かに、道の駅や高速のSA・PAや、コンビニにもトイレがあるご時世だが、いちいち車から降りてトイレに行くというのは、年を取ってくるとだんだん億劫になってくる。
 
 さらにいえば、小さな子供と旅行しているとき、暗い道の駅などで、子供をトイレに行かせるのも心配なときがある。


▼ 「シャングリラ」の個室空間 

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 だが、「トイレにも使える個室」を持つキャンピングカーというのは、機能以上の価値を生み出す。
 それは、“逃げ込める空間” になるからだ。

 

 いくら仲の良い夫婦といっても、長旅が10日以上、時に2週間以上になってくると、息が詰まってくる。
 そのときに、お互いに顔を合わせなくて済む “個室” が車内にあるというのは、息抜きの空間を持っていることになる。


トイレ空間は長旅の必需品

 

 たとえ、その中に実際に閉じこもらなくても、そういう “空間” が車内にあると意識するだけで、ずいぶん心が軽くなる。

 

 私たち夫婦は、そういうふうにして、2週間以上続く旅行においても、お互いに気楽に旅してきた。
 だから、トイレスペースに使える個室を持ったバンコンの意義をもっと強調してもいいと思っている。


ミーティング資料でも紹介を受ける

 

 今回のミーティングでは、レクビィさんが用意した36ページにも及ぶ討議資料の最終ページに、なんと、私が25年前に手掛けた『RV&キャンピングカーガイド』という年間本の94年版と95年版の表紙と、その編集後記が載せられていた。

 

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 当日参加した若いスタッフは私のことを知らない人も多い。
 それを考慮した増田浩一社長の好意であろう。
 思えば、増田社長とも25年の付き合いが続いたことになる。
 うれしい配慮であった。

 
 当日は、そのあと、レクビィ本社工場を見学。

 

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 同社のバンコンがどのように造られているのかという説明を受けたあと、「猿投(さなげ)温泉」という温泉宿に全員バスで移動。
 山深い “秘境” の風情すら漂う落ち着いた宿で、宴会となった。

 

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瀬戸焼きの工房『燄(えん)』を見学

 

 翌日は、有志だけの参加となったが、瀬戸市内に瀬戸焼の窯を構える波多野正典氏の工房『燄(えん)』の見学メニューが用意されていた。

 

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 波多野正典氏は、陶芸ビエンナーレ賞、朝日陶芸展・秀作賞、日本現代工芸美術展賞などの数々の賞を受賞した華々しい陶歴の持ち主で、高校生たちに陶芸を講義することもある地元の名士。

 

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 同氏の工房は、レクビィ社とも縁が深く、レクビィの看板バンコンである「カントリークラブ」などのシンク(写真下)が、この波多野工房で生産されている。
 

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「クールジャパン」のキャンピングカー版

 

 瀬戸市が “瀬戸物” の産地として知られているため、同じ瀬戸市に工場を構えるレクビィが、波多野工房に「瀬戸焼き製シンク」の製作を依頼したという経緯もあるが、そもそもキャンピングカーのシンクに “瀬戸物” を使うという発想自体が面白い。

 

 それこそ、日本製の漫画・アニメなどのポップカルチャーや、日本製ゲームコンテンツ、現代アート、ファッションなどを総称する「クールジャパン」の “キャンピングカー版” ともいえる。


 今回は、レクビィ・ステーションの見学に始まり、本社工場の視察、さらに陶芸工房を訪問して、瀬戸焼きの創作の現場を見せてもらうなど、メニュー豊富な旅を楽しむことができた。

 

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 旅行日数は、行きと帰りの移動日に、それぞれ2日掛けるという贅沢なものになった。
 昼は中央自動車道の山並みを眺めながら走り、夜はSA・PAで音楽を聞きながらの独り宴会。
 キャンピングカーの旅は楽しい。

 

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サテライトギャラリー(レクビィ・ステーション)
(道の駅 瀬戸しなの 第2駐車場)
電話:0561-59-7788
火・水曜休(祝日営業) 10:00~17:00

recvee.jp


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アクセス 
東海環状自動車道・せと品野から瀬戸市街方面へ約3.3km
レクビィ本社工場から車で1分

  

   

見城徹氏の直球勝負で書かれた読書論

  文芸批評
『読書という荒野』 

 
 見城徹(けんじょう・とおる)氏の『読書という荒野』という本を読んだのは、2018年7月の猛暑日だった。

 

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 まさに、真夏の炎天下を思わせるような、熱い本だった。
 すべて直球勝負。
 それも、うなりとともに人の胸元をえぐってくる剛速球である。

 

ページをめくると、そこから火花が散る

 

 本を開くと、最初に「はじめに」という文章が出てくる。
 その章には次のようなタイトルが掲げられている。

 

 「読書とは、『何が書かれているか』ではなく、『自分がどう感じるか』だ」
  
 う~ん !
 あまりにもまっとうな正論に、ぐうの音も出ない。
 さらにページをめくっていくと、ページが発熱して燃え上がりそうな小見出しが次々と登場する。
 
 「世界の矛盾や、不正や、差別に怒れ」
 「正しいと思うことを言えなくなったら、終わり」
 「自己嫌悪と自己否定が、仕事への原動力となる」
 「絶望し切って死ぬために、今を熱狂して生きろ」

 

 タイトルというより、アジテーションに近い。


 1960年代末期に、日本の各大学で学生運動が巻き起こった。デモ隊が集結した広場で、左翼革命を目指した活動家のリーダーが、みなこういう口調で演説していた。
 現にこの本には、「左翼に傾倒しなかった人はもろい」というタイトルを持った章もある。

 

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 見城徹氏。
 幻冬舎社長。
 1950年生まれ。
 今年(2019年)で69歳。

 

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学生運動の経験が見城氏を育てた

 

 高校時代から学生運動に身を投じ、慶応大学に入学してからはさらにその活動に拍車がかかり、「革命によって世の中の矛盾や差別を正さなければならない」と本気で信じていたという。

 

 この見城氏と私は、まったく同年代である。
 私もまた、1950年生まれ。
 1960年代末期には、彼と同じように学生運動の周辺を逍遥していた。

 

 だから、似たような体験も重ね、似たような読書経験も持っている。
 しかし、この本を読み終わったとき、若い頃の話においては、私と見城氏が精神的に重なっているところはほとんどないと感じた。


 私は見城氏が胸に秘めた “燃える闘魂” とは無縁な青春を送っていたからだ。

 

 彼が世の中の差別に憤りを感じ、弱者に対して理不尽な圧力をかけてくる社会に闘争を挑もうとした頃、私はナンパに精を出して、ディスコに通い、マージャンにうつつを抜かしていた。


 ときどき学生運動のデモ隊に加わったが、政治集会が終わったあとは、敵対するはずのセクトの学生と一緒に酒を飲み、そいつらのアパートでギターを弾いてフォークソングを歌った。

 

 見城氏が、吉本隆明詩篇(『転位のための十篇』)に触れ、その切ない思想の切れ味に涙していた頃、私は吉行淳之介の恋愛小説を読みあさり、ナンパするための女心の研究に余念がなかった。

 

 あの時代に読書体験を持ったインテリ学生が傾倒した高橋和巳の著作に対しても、見城氏は「夢中でのめり込んだ」と述懐するが、私は『憂鬱なる党派』一冊を読んだだけで胸焼けを起こした。

 

 もちろん、それ以外の読書体験としては重なっている部分も多い。


 この本で見城氏が触れているヘミングウェイ夏目漱石小田実沢木耕太郎吉本隆明五木寛之石原慎太郎村上龍村上春樹山田詠美宮本輝、北方健三、高村薫三島由紀夫などという作家たちの著作は、(代表作だけかもしれないが)私もまた目を通している。

 ただ、どうしても微妙なズレを感じた。

 
 好きな作家として共通する名が挙がっても、そこで論評される個々の作品は必ずしも同じではないのだ。


 もちろん、私の読書量の浅さが問題なのだが、いくつか共通して読んでいる作品のなかには、「えっ? この作品のどこが素晴らしいの?」と首をかしげるようなものも、彼の愛読書のなかに混じっている。

 

なぜ歴史書美術書はスルーしてしまったのか?

 

 全体的な読書傾向としていちばん感じたのは、歴史書美術書のたぐいを見城氏がほとんど話題にしなかったことだ。

 
 私なら、塩野七生司馬遼太郎といった歴史本の2大エンターティナーがまず筆頭に挙がってくるところだが、見城氏はそのへんをスルーしてしまう。


 その2人は、氏にとっては、すでに大衆的評価の定まった “大御所” という位置づけなのだろう。つまりは、編集者としての食指が動かなかった人たちなのかもしれない。

 

 また、角川書店に勤めたこともあるというのに、片岡義男に対して冷淡なのも少し気になる。村上春樹を称えるならば、春樹と片岡義男の違いは何なのか? というところまで踏み込んでもよかったと思う。


 
 自慢ではないが( といって自慢してしまうわけだが)、私は当時フィレンツェにいた塩野七生氏に手紙を書き、東京にこられたときにインタビューすることができた。
 また、片岡義男氏には電話で原稿を申し込み、当時私が携わってきた冊子に原稿をもらうことができた。


 だから、これらの著者たちには、私は今でも熱い思いを抱いている。 
 
 
 閑話休題
 『読書という荒野』に戻る。

 

「読書」は「格闘」であるという信念

 

 見城氏の読書というのは、一言でいうと「格闘」である。
 「本」という名の “リング” に登り、著者と血のにじむような闘争を繰り広げる。
 著者に対する畏敬の念も、共感も、すべて格闘を通じて獲得される。

 

 それは確かに素晴らしいことだ。
 はっきりした対決姿勢で臨まないかぎり、ほんとうの意味で、著者への共感も生まれない。


 読書における「共感」とは、著者との “刺し違い” の別名でもあるからだ。

 

 しかし、著者と刺し違えるということは、(自分も成長して大きくなることも意味するが)基本的には、リングの上に自分と等身大の相手を見つけることにすぎない。
 
 もともと「理解する」ということは、対象を自分の “身の丈(たけ)” のサイズに縮めて手に入れることである。


 人間は、身の丈よりも大きなものは理解できない。
 だから、この本では、すさまじい格闘の末に、見城氏が著者の思想を理解するに至った顛末は述べられるけれど、見城氏の理解を超えたものに関しては、それと格闘したという気配すら描かれない。

 

 余談だが、若い頃に吉本隆明に染まった人は、往々にしてそういう傾向が強い。

 
 吉本隆明という思想家は、手ごわいライバルや敵対的な思想に対して真正面から闘争を挑み、相手の反撃を打ち砕いて、乗り越えていった人だが、それだけに、最初から  “歯が立たない”  ものへの畏敬の念が薄い。

 

 彼には、真正面から挑めば論破できないものはないという信念がある。だが、その分独りよがりになってしまうところがある。 

 

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 つまりは、吉本氏も見城氏も、「己を信じる気持ち」が普通の人の何倍も強いのだ。
 困難な状況を乗り越えてきたという自負が、自分を超える力の存在を過少評価してしまうのだろう。
 
 生意気な結論を一言だけいうならば、見城氏のこの読書論にも、自分の理解を超えるものへの “おののき(畏れ)” がない。

 

貨幣と言語が通用しない “荒野” をめざせ !
 

 それでも、この見城氏の著作からはいろいろなものが見えてきた。


 印象に残ったくだりは、村上龍と見城氏の交遊録。
 2人で、伊豆の川奈ホテルに投宿し、昼間の時間はテニスだけに費やし、夜はひたすら贅沢な食事を繰り返して、酒類を痛飲したという。

 

 そういう非生産的な行為の繰り返しに価値を置く見城氏のスタンスは、それなりにカッコいい。


 シャンパンの泡にも似た軽さと、贅沢さと、アンニュイと、メランコリー。
 そういう宿泊体験の蓄積が、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』という小説に結実した。

 

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 実は、この小説は村上龍の作品のなかでも、私がもっとも好きなものの一つである。

 
 一度だけ、西新宿の高層ホテルのスイートルームで村上龍に取材したことがあったが、彼がインタビューする私に興味を抱いてくれたのは、私が『テニスボーイの憂鬱』の感想を口にしてからであった。

 

 「ほんとうによく読んでくださってますね」
 村上龍は、ようやく眠気が吹っ飛んだという目で、私を見つめ直してくれた。

 


 最後に、なぜこの『読書という荒野』という本を買う気になったのかということを記す。
 ずばり、タイトルに惹かれたからだ。
 
 「荒野」という言葉は、無類に私の想像力を刺激する。


 この言葉には、ルーティン化した日常生活から脱し、身の危険すら覚悟して、いまだ足を踏み入れたことのない地平を目指せというメッセージが込められている。

 

 このタイトルだけで、もう販売部数の7割方は確保できたのではなかろうか。
 それだけ、イマジネイティブな書籍名だといっていい。

 

 見城氏は編集者だけあって、本のなかに使うキャッチ類(章タイトル)がとてもうまい。


 「極端になれ! ミドル(中庸)は何も生み出さない」
 「旅に出て外部にさらされ、恋に堕ちて他者を知る」
 「死の瞬間にしか人生の答は出ない」

 

「夢」や「希望」を語る人間は薄っぺらい

 

 文章のなかに隠れている次のような “啖呵(たんか)” もカッコいい。
 
 「『夢』『希望』『理想』『情熱』などについて熱っぽく語る人間は嫌いだ。これほど安直な言葉はない。夢や希望を語るのは簡単だ。しかしそれを語り始めたら自分が薄っぺらになる」

 

 同感である。

 

 “旅” に関しては、こんな記述もある。

 

 「旅の本質は、『貨幣と言語が通用しない場所に行くこと』だ」

 

 つまり、貨幣と言語というのは、それまで生きてきた自分が無意識のうちに手に入れた、“使い慣れた武器” である。
 その武器が使えない場所にあえて身を置いてみろ、と彼はいう。

 

 もちろん、「貨幣」も「言語」も比喩である。
 要は、自分がもっとも使い慣れた “武器” を捨てなければならない場所に立て、ということだ。
 具体的にサハラ砂漠やアマゾンの奥地を指しているわけではない。

 

 見城氏は、そういう場所に立つことを、自分を守ってくれる環境の『外部』に身をさらすことだと語る。
 その “外部” こそが、すなわち “荒野” である、と見城氏はいいたいのだろう。

 

 編集者というのは、けっきょく “アジテーター” なのだ。
 私もまた見城氏のアジテーションに魅せられた人間の1人である。 

 

春という季節は亡くなった人を妙に思い出す

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エッセイ 
伯父さんの話 
  

  
 伯父がいた。
 その妹である母の話によると、きっぷのいい遊び人だったという。

 「きっぷのいい」という言葉は死語かもしれない。
 現代風に言うと、「気性のさっぱりした」というような意味になるのだろうか。

 

 母は、その言葉を、半分は褒め言葉として使った。
 しかし、残りの半分には、「おカネを無造作に使ってしまうダメな人」というニュアンスを込めていた。
  
 つまり、「蓄財の才覚がない」ということだ。
 母も金銭感覚にうとい人間だったが、その母が眉をしかめていうくらいだから、伯父のカネの使い方は浮世離れしていたのかもしれない。

 

 もともと母方の実家は、地方の有力な事業主だったという。
 母も伯父も、幼少の頃は贅沢な暮らしをしたようだ。

 伯父は長男だったので、その家業を継ぐことになるはずだったが、実際には継いでいない。

 

 その経緯は、私には分からない。
 ただ、伯父はおカネを持てば、大金でもその晩につかい果たしてしまうような人だったらしく、どっちみち家業を継いでも、うまくいく見込みはなかっただろう。

 

 代わりに、漢詩を読んだり、短歌をつくったりする趣味には長けていたという。
 事業家の血筋を引きながら、文学趣味の濃い人だったようだ。
 

 

 伯父が元気だった頃、私はまだ小学生だった。
 家人との会話で、「出版社」を経営しているということを得意げに話していたのを小耳に挟んだような気もする。
 
 もっとも、「出版社」という言葉を聞いても、当時の私にはあまり理解できなかったし、第一、それほど関心もなかった。

 

 伯父は新潟に住んでいた。
 古町という市内でも最もにぎやかな目抜き通りだった。
  
 夏休みだったろうか。
 母と遊びに行った。
 一階が他人の経営するレコード店で、伯父の住まいはその二階だった。
  
 レコード屋の裏の細い階段を上がる。
 靴が4~5足集まれば床が見えなくなってしまうような小さな玄関を上がり、その二階に入る。


 そうとう古い建物らしく、階段の手摺も天井板も、醤油で煮染めたように黒ずんでいた。

 8畳ほどの居間と、4畳半の台所と、3畳程度の仕事場があった。
 その3畳のスペースに小さな本棚と机が置かれ、そこで伯父は原稿を書いていた。

 

 雑誌をつくる仕事をしていたのだ。

 一人で雑誌をつくり、一人でそれを売り歩く。
 たしかに “出版社” には違いなかった。

 

 一冊手にとってみる。
 週刊誌サイズの20ページほどの薄い雑誌。
 正装した紳士たちの写真が掲載されていて、その周りを小さな活字が埋めていた。
 地元の名士たちらしい。

 

 伯父は、その名士たちを順繰りに取材し、その業績を文字にすることで、広告料の代わりにしていたのだ。

 

 今でいうタウン誌の “人物版” のようなものだったのかもしれない。
 名士たちが、その雑誌に載ることで、自分の功績が世に喧伝されるようになると期待していたかどうかは分からない。
 
 彼らは自分の半生記を人にまとめてもらうことで満足していたのかもしれないし、あるいは、たぶんに個人的な付き合いの範囲にとどまるものだったかもしれない。
 だから、その雑誌の発行が、どれだけ伯父の家計を支えていたのかは分からない。

 

 もっとも、当時小学生の私に、収益構造のことは分からなかったし、それに思いを馳せるほどの智恵もなかった。


 ただ、小学生の目から見ると、怪獣もロボットも戦艦も出てこない「まったく面白くない雑誌」だった。

 

 

 伯父は甥っ子の私が来たことをいたく喜び、夜は私だけを伴って、近所の寿司屋に連れていった。
 自分の子供が2人とも娘だったせいか、血縁の中に男の子がいたということがうれしかったのだろう。

 

 「回転寿司」も「立ち食い寿司」も生まれていない時代。
 寿司は、大人だけに許された贅沢な食事だった。
 
 遠慮を知らない私は、好きなネタだけを選び、ひたすら食べまくった。
 伯父はそんな私を目を細めて見つめながら、自分はほとんど何も食べず、酒ばかり飲んでいた。
 人が喜ぶ姿を見ることにカネをつかってしまう性格だったのだ。

 

 

 私が住んでいる東京にも、伯父は何度か遊びに来た。
 いつも、子供の目から見ても高そうなスーツを着ていた。


 しかし、それがみな古そうだった。
 昔つくった贅沢な服を、大事にしながら、ずっと着ているという風情だった。

 

 夕方になって、「帰る」という伯父を駅まで送っていくのが私の務めだった。
 たいてい、すぐには電車に乗らない。
 
 必ず、駅近くのバーとか小料理屋のようなものを見つけ、
 「ちょっと寄っていこう」
 と、私を誘う。
 
 見知らぬ土地の、見知らぬ飲み屋に入るのが、無類に好きだったのだろう。
 私は、また母に怒られることを知りながら、伯父に付き合う。

 

 小学生だから、酒は飲まない。
 ジュースを飲みながら、伯父と、そのママさんの会話を黙って聞いている。

 

 何が楽しいのか。
 伯父は、ママさんの手料理の品評などしながら、淡々と酒を喉に流しこんでいく。
 そして、二度と来ることもないような店なのに、高い酒をどんどん頼み、ママさんにも気前よくおごる。

 

 酔うと歌が出る。
 カラオケなどまったくない時代。
 つぶやくような低い声で、歌が始まる。
 北原白秋が詩を書いた「からたちの花」とか「砂山」のような童謡だ。

 

 「♪ 海は荒海、向こうは佐渡よ。すずめ鳴け鳴け、もう日はくれた

 

 伯父の目には、新潟の海の向こうに見える佐渡ヶ島が映っていたのかもしれない。

 

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 伯父は、結局、貧乏のうちに死んだ。

 

 しかし、いま思うと、私はことごとく伯父の嗜好を受け継いでいる。
 二度と来ないような知らない飲み屋でカネを使うのが好き。
 酔って歌を唄うことも好きだ。
 蓄財が苦手で、カネが貯まらないところも似ている。

 

 一つだけ違うことがあるとすれば、大金を使うことに対して、私はちょっと臆病であるということだけかもしれない。

 

 

 伯父が亡くなって、一度だけ、母と新潟に墓参りに行ったことがある。
 私はもう学生になっていた。
 伯父の家はすでになく、私たちはホテルに泊まった。

 

 せっかく新潟に来たのだから、「甘エビを食べよう」と母がいう。
 今のように、食品の流通が活発でなかった時代。
 甘エビは、新潟や北陸で食べるのが一番鮮度が高く、おいしいと言われていた。

 

 母は気前よく、甘エビをたくさん注文し、それを食べているうちに、私は寿司屋に連れていってくれた伯父のことを思い出していた。
 
 店を出ると、春先だというのに、雪が舞っていた。
 桜の花が散るような雪で、頬に当たっても冷たくはなかった。

 

 翌日、墓参りをすませ、私たちは少し足を伸ばして、海を見に行った。
 雪は止んで、日本海には青空が広がり、佐渡ヶ島がくっきりと見えた。

 

 小さい頃見た新潟の砂浜には何もなかったように記憶していたが、そのとき見た浜辺には、殺風景なテトラポットがたくさん積まれていた。

 

 しかし、砂山らしきものは残っていた。 
 伯父が飲み屋で唄った「砂山」の歌が、頭の中でかすかに鳴った。

  

 砂山(中山晋平 作曲)/渥美清

youtu.be

 

 

「フェイクニュース」とはネット時代の「デマ」を意味する言葉

 トランプ米大統領が、自分に批判的なマスコミの報道を「フェイクニュース (fake news)」と切り捨てるようになって以来、この言葉は流行語となった。

 

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 しかし、メディア評論家によると、この概念はけっして新しいものではないという。
 すなわち、昔風にいえば「デマ」のことだ。

 

 ただ、「デマ」という言葉には、二通りの意味があるとか。
 民衆側から出たニセ情報のことをいうときは、「デマ」。
 それに対し、権力側が意図的に流すニセ情報を「プロパガンダ」というのだそうだ。
 
 今でいう「フェイクニュース」というのは、その両方を含んでいる。

 

 しかし、「フェイクニュース」という言葉には、「デマ」とか「プロパガンダ」という言葉とはまた違った、新しいニュアンスがあるような気がする。

 
 それは、ネット社会の情報錯綜を反映した言葉であるように思える。

 

 「デマ」や「プロパガンダ」は、活字媒体が支配的であった時代の言葉。
 それに対し、「フェイクニュース」は、情報がペーパー媒体からネットメディアに移行した状況を示している。

 

 「デマ」や「プロパガンダ」という言葉からは、(意図は悪意であっても)一度印刷してしまうと情報の修正がむずかしいことを理解している活字媒体世代の責任感のようなものが匂ってくる。

 

 それに対し、「フェイクニュース」という言葉からは、愉快犯が面白がってニセ情報を流しているという無責任さが感じられる。

 

 つまり、世界中の誰もが簡単にネットにアクセスできるようになったために、恣意的に加工したニセ情報を流して他人が右往左往するのを見たいという人々のシンプルかつ陰湿な欲望が野放しになってきたのだ。
 
 
 このような事態を招いた背景には、ネットのおかげで、情報拡散のスピードが、旧社会の人間の持っていたスピード感をはるかに超えてしまったことが挙げられる。
 つまり、情報の消費が早すぎて、誰もが情報の真偽を確認できなくなったのだ。
 

 さらに、もう一つ。

 ある意味 “豊かな社会” になって、人々がニュースに娯楽性を求めるようになったためだ。

 
 同じニュースでも、「えっ? それってホントー?」という刺激性の強いニュースの方に人々は惹かれるようになってきた。

 

 そういう傾向が助長された遠因として、私はテレビのワイドショーに出演するキャスターやコメンテーターが芸人によって占められる率が高くなってきたことを挙げたい。


 今やダウンタウン松本人志やタレントの坂上忍などは、もう立派な天下のご意見番である。


 今のワイドショーでは、この人たちの発言の方が、専門家の解説よりも視聴者の支持を得やすくなっている。


 このように、フェイクニュースの横行には、ニュース番組の “芸能化” も背景にあることは間違いなく、それはそのまま、今の日本の若者たちが置かれている状況を反映している。

 

 すなわち、東大のような大学に入って、官庁や優良企業に進み、日本を支えるエリートになるか。
 それとも、お笑いの世界に入って頭角をあらわすか。

 

 今の日本の若者が、「夢」を持つときには、その二つの選択肢しかなくなってきたのだ。

 

 今の時代は、勉強さえ一生懸命やれば東大に行けるような世の中にはなっていない。

 そこに至るまでには、塾代や家庭教師料も含め、親が途方もない資産家であることを求められる時代になってきている。


 そういうコースを最初から諦めざるを得ない家の子弟は、幼いころから芸人を目指して、他人を “いじって” 笑いを取る訓練に励むようになる。

 

 今のテレビには、どちらにもロールモデルも用意されている。
 東大志望の子弟には、現役の東大生がどれだけ頭が良いかを際立たせるようなクイズ番組がたくさん企画されている。

 

 そういうクイズ番組に出演する東大生は、普通の社会人では理解できないような設問を一瞬のうちにクリアし、ものすごい知識量があることを喧伝する。

 

 視聴者はあっけにとられて、正解者に賛辞を贈るが、そこに落とし穴がある。
 クイズの正解は一つかもしれないが、人生の正解はけっして一つではないからだ。

 

 しかし、視聴者はこのようなクイズ番組に慣れることによって、人生の正解も一つしかないような錯覚に陥る。

 

 だから、最初からエリートコースにおける “正解” を放棄した若者は、「人生には答がない」ことを示し得る “お笑いの世界” を目指す。

 そして、こっちの方向に進むときのヒーローとして、松本人志爆笑問題カンニング竹山坂上忍らがいる。

 

  という私の発言も、まぁフェイクニュースの一つかもしれないね。
  
   
 

1978年に女の歌が変わった

エッセイ 
男から脱出した女たち

 
 昭和歌謡を振り返ってみると、女性シンガーの歌が途中からガラっと変わる時期がある。
 1970年代の後半あたりからだ。
 女たちが、自分の正直な気持ちを歌い始めたといっていい。
 
 たとえば、杏里の『オリビアを聴きながら』。
 尾崎亜美の作品で、杏里のデビューシングルともなった曲である。

  

▼ 『オリビアを聴きながら

youtu.be

 

 曲調は優しい。
 メロディーもきれいだ。
 杏里の歌い方には、どことなくアンニュイの影が漂う。

 

 しかし、深夜のラジオからこの曲が流れてきたとき、激痛に近いショックを感じた。
 それは、男から見ると、ついに「異形の女」が現れたというくらいの衝撃だった。
 同時に新鮮だったし、興奮もした。
 
 静かな曲調とはうらはらに、残酷な歌でもあると感じた。
 自分の心から、ひとりの男を追い出す女の歌なのである。

  
 この歌に登場する “男” は、女の誕生日にはカトレアの花を贈ることを忘れない優しい男である。

 
 なのに、彼女は「優しい」と断言しない。
 「優しい人だったみたい」
 と過去形の、しかも推測の形を残した言い方で終わらせている。

 

 つまり、男の “優しさ” が、この時点で効力を失っていることが、「 だったみたい」という過去形の言葉になっていることから分かる。
 
 続く歌詞は、
 「♪ 夜更けの電話、あなたでしょう
 話すことなど何もない
 愛は消えたのよ、二度とかけてこないで
 
 おとなしい言葉だが、ここには断固相手を拒否する強靭な神経がむき出しになっている。
 
 「いつのまにか、女が化物のように強くなっている ! 」
 当時は、そう思った。

 

 いま聞くと、きわめて当たり前のことが歌われているに過ぎない。
 なのに、その時代にこの歌が新鮮に聞こえたのは、このようにはっきりと男を拒絶する歌が、それ以前にはなかったからだ。


女たちは「待つ女」をやめた
  
 それまで、演歌においては、ひたすら女は、男を待ち、騙され、傷つけられ、耐え忍ぶものとして描かれてきた。
 多くの男たちは、この演歌的な “待つ女” をそのまま女の実情としてとらえてきた。

  
 『オリビアを聴きながら』は、そういう世の男たちに、はじめて女の真実の声を届けたといってもかまわない。
 女が男を捨てるときは、いかにあっさりしたものか。
 そのことをズバリ歌にしたのが、この1978年の『オリビアを聴きながら』だったのだ。
 

「昔の男」には、もう出る幕がない

 

 同じ年、そのことを別の角度から歌い上げた曲が誕生している。
 桃井かおりが歌った『昔のことなんか』だ。
 作詞・作曲は荒木一郎
 彼は、この時代、突出した恋愛関係の洞察者だった。

 

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 歌詞は、こういう調子である。
 
      昔のことなんか聞かないことにしましょう。
    もう夜も更けてきたわ。
    昔の恋なんかママゴトみたいなものよ。
    もうあなたのことだけよ。
    昔の私は、何色だったのかしら。
    もう思い出せないのよ

 

 この曲は、ただ漫然と聞いていると、現在進行形の恋に夢中になっている幸せな女の歌にしか聞こえない。


 だから、男が聞いた場合、女から、“新しい恋人として選ばれた自分” に酔える心地よい歌に聞こえるはずだ。

 

 しかし、この歌には、もう一人の男が登場する。

 それは、昔、「ママゴトみたいな恋」だったと吐き捨てられる “過去の男” である。その男の方に感情移入すれば、男のリスナーはとたんにやりきれなくなるだろう。

   

 

ピンクレディの『UFO』は老練な男
の恋のテクニックを示唆した歌だ

 

 この時代、女たちが、同世代の男に見切りをつけて、恋愛のハイグレード化を図ったことが分かる、もう一つの歌がある。

 

 ピンク・レディーの『UFO』がそれだ。
 作詞を担当したのは阿久悠である。
 
 歌のなかの少女は、UFOに乗ってきた “宇宙人” と遭遇する。
 その宇宙人は、
 「見つめるだけ愛し合えるし、話もできる」。

 

 そして、自分が言葉に出さずとも、何を願っているのか、さりげなくキャッチして、
 「飲みたくなったらお酒」
 「眠たくなったらベッド」
 と、うぶな女の子を巧みにリードしていく。

 

 この “宇宙人” が、恋の手管を知り尽くした老獪な年上男性を意味していることは、いうまでもない。

 つまり、年上男の高級なくどきのテクニックに酔ってしまった少女は、
 「近頃すこし、地球の男に、飽きたところよ」
 と、同年代の若い男たちに物足りなさを感じてしまうのだ。

 

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 この歌がヒットしたのも、『オリビアを聴きながら』と同じ時代。
 1977年の12月。
 このとき、精神の未熟な若い男には、女の心をつなぎとめることができないという女性側のメッセージが明るみに出てしまったのだ。  

 

女の恋愛は常に「上書き」保存される

 

  「男は、過去の女たちとの恋愛を、別々のフォルダに保存して思い出すことができる。しかし、女の恋愛は、そのたびごとに、常に上書き保存される」
 という言葉がある。


 これは、歌手の一青窈(ひととよう)が、あるテレビ番組に出演したときの発言らしい。

 

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 それを聞いた精神分析学の斎藤環は、『関係する女 所有する男』(2009年講談社現代新書)で、次のように書く。


 「男は、恋愛関係の思い出を、別々の『フォルダ』にいつまでもとっておける。だからこそ、同時に複数の異性と交際できる。

 女性にとっては驚きかもしれないが、男は過去の恋人に対しても、実は小さめのフォルダをずっと残している。
 別れに際して、男の方がはるかに未練がましいのは、フォルダがなかなか捨てられないからである。

 いっぽう女は、現在の関係こそがすべてだ。
 女にとって性関係とは、まさにあらゆる感情の器にほかならず、それゆえ『一度に一人』が原則だ。新しい恋人ができるたびに、過去の男は消去(デリート)され、新たな関係が『上書き』される。

 夫婦の場合、男の浮気は元のサヤに戻ることが前提だが、女性の浮気は事実上、結婚生活の終わりにほかならない。
 複数の男性と同時につきあえる女性がいたとしたら、それは自暴自棄あるいは自傷行為のようなものかもしれない」

 

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演歌に歌われた「耐える女」
とは「母」のことだった 

 

 このように、1978年というのは、演歌で歌われた「待つ女/耐え忍ぶ女」が、ニューミュージックの「去る女」に変化した年だった。
 
 この「待つ女/耐え忍ぶ女」という存在を別の言葉に置き換えると、それは「母」である。

 
 つまり、男の存在を丸ごと肯定し、庇護し、男のわがままにも唇をかんでじっと耐えてくれる存在。

 
 そのような「母」を、女性全般に求めたのが、それまでの男性社会だった。
 それが、1978年まで続く。
 
 そこに至るまで、男たちは、女の母性に支えられることを前提に、「社会」という戦場に出撃できる と思い込んでいた。


 この時代(まさに高度成長期 ! )、世界に伍して日本の繁栄を勝ち取るために戦ってきた男たちというのは、実はマザコン的精神構造を抱えて生きてきたともいえる。

 


1970年代後半から
キャリアウーマンの比率が増える
 
 ところが、1970年代後期頃から、女たちは、男に対して「母」として振舞うことをやめる。


 この過程には、専業主婦よりキャリアウーマンの比率が増えていくという時代背景も関係している。

 つまり、経済的に自立できれば、男に頼る必要もないという風潮が女性の間に広まっていった時代が訪れたということなのだ。
 
 それまでの演歌で歌われた「待つ女」とは、「結婚を待つ女」だった。
 「結婚が女にとって最大の幸せ」という前提があったからこそ、「待つ女」が演歌の美学にも成り得た。

 

 逆に言えば、結婚できないような恋愛を強いられた女は、日陰に生きて「耐え忍ぶ女」にならざるを得なかった。

 


山口百恵も『プレイバック Part2』で
未熟な男を切り捨てる
 
 その構図が崩れ始めたのが、1978年だったのだ。
 この年、山口百恵は、『プレイバック Part2』(詞 阿木燿子)で、「バカにしないでよ」と未熟な男を怒鳴りつけ、「坊や、いったい何を教わってきたの?」とあざ笑う。
  

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 このような流れに、男たちはどう対応しようとしたのか。
 結局は、なすすべもなく、あっちの女に振られ、こっちの女に振られ、必死に昔の女を頼ろうとして、また振られ

 
  
 そんな女々しい男を見つめる女の気持ちを歌った歌が、1984年に小柳ルミ子がリリースした『今さらジロー』。
 ここでは、一度振った女のもとに再び現れ、ものの見事に拒絶される悲しい男が描かれている。

 
昔は昔、今は今 

 

▼『今さらジロー』

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 歌い出しが秀逸だ。
 「あれは確か、2年前の雨降る夜に、あたしの手を振り払って、出て行ったっけ」

   
 カギとなる歌詞は、最後の「 たっけ」 。
 この「 たっけ」で、ものの見事に、「いまさら」が表現されている。

 

 「あんた自分から出ていったんだよね。それを今になってノコノコと
 というニュアンスが、この「 たっけ」に集約されている。
 
 そして、未練たらしく戻ろうとする男に対して、女はつぶやく。
 「昔は昔、今は今」

  
 作詞・作曲は、シンガーソングライターの杉本真人。

 阿久悠荒木一郎もそうだが、こういう歌を男が作っているというのがミソ。
 たぶんこういう形で、男たちは、女たちの新しい主張に徐々に耳を傾け、それに対応するすべを身につけていったのかもしれない。 
 

 

「七人の侍」のような映画は今後100年生まれない

 映画批評  
七人の侍

 

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 3月21日に、NHKBSプレミアムで放映されていた黒澤明の『七人の侍』を、また観た。
 「また」という言葉を使ったが、もう5~6回観ている。

 

 それだけ観ていれば、ストーリー展開の細かい部分も覚えるし、登場人物たちのセリフもだいたい覚える。

 

 しかし、観るたびに、まったく新しい作品に接したような感動が得られる。
 こんな映画はほかにない。
 おそらく、この先観るであろう映画も含めて、自分が一生かかって鑑賞した全映画のうちの最高傑作だと断言できる。

 

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 だからこそ、フランシス・コッポラも、ジョージ・ルーカスも、スティーヴン・スピルバーグも、自分たちの映画制作の基本をこの『七人の侍』に置いているのだ。

 

 私も、この作品以外の黒澤明のちゃんばらモノはほとんど観てきた。
 『用心棒』、『椿三十郎』、『影武者』、『乱』
 しかし、それらを全部足しても、この『七人の侍』にはかなわないのではなかろうか。

 

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数々のリメイク版を生み出した傑作

 

 制作されのは、1954年。
 もう70年近い歳月が流れているにもかかわらず、まったく古さを感じさせない。
 まずもって、それが不思議だ。


 1980年代につくられた『影武者』や『乱』の方が、いま観ると古めかしい感じがするくらいだ。

 

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 『七人の侍』の概要を一言で記す。

 時は戦国時代。
 村の収穫期に必ず来襲する野武士の侵攻に怖れをなした村人たちが、村を自衛するために侍を七人雇って、野武士と対抗するという話だ。


 ハリウッド西部劇の『荒野の七人』というリメイク版も出たから、ストーリー展開がどのようなものであるか知っている人も少なくないだろう。

 

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▲▼ 野武士の頭領

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 しかし、やはり本家の迫力には、リメイク作品も及ばない。
 いったい、この映画はどういう “奇跡” を起こしてしまったのだろう?


「人間」をリアルに捉えたすさまじい戦闘シーン

 

 今回久しぶりに観て、その理由が少しだけ見えてきた。

 これほど、“戦いのリアリティ” を真剣に追求した映画というのは、ほかに類例がないのだ。

 

 もちろん、その「リアリティ」という言葉のなかには、殺陣の迫真性というものも含まれる。

 

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 突風の中を、土煙をあげて襲いかかる軍馬。
 雨のぬかるみを這いずり回って繰り広げられる侍たちと野武士の死闘。
 気象条件を上手に使った戦闘シーンは、この映画の白眉である。

 

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 しかし、それ以上に挙げておかなければならないものがある。
 戦いに挑む人間たちの「光」と「影」を徹底的に暴き出すという、「人間」を描くときのリアリティが際立っているのだ。 

 

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 たとえば、こんなシーン。
 剣を振り回しながら馬を疾駆させて村に乱入する野武士に、百姓たちは最初は怖れをなして逃げまどう。

 

 しかし、その野武士が落馬したと思いきや、一転して、彼らは狂気に駆られたように竹槍を振りかざし、惨殺の雄たけびを上げる。
 
 そこに描かれた百姓たちの弱さと、ずるさと、強さと、醜さ。
  というか、「人間」そのものの弱さと、ずるさと、強さと、醜さを画面は正直に伝えてくる。

 

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 対照的に、野武士の悲惨さも描かれる。
 村の広場で、落馬した野武士は、情けないほどうろたえ、逃げまどい、地面に身体を摺り寄せて、命乞いする。

 

 もちろん、日頃痛めつけられている百姓たちには、そんな命乞いの悲鳴も耳に入らない。


 剣や槍といった「武器」ではなく、スキ、クワ、カマという「農具」が、倒れた野武士の頭に振り落とされる。
 観ているとやりきれなくなるくらい人間の醜い、弱い部分がそこには露呈している。

 

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 確かに、切られた腕が宙を飛ぶこともない。
 槍が内臓を抉り出して、臓腑が飛び散ることもない。
 最近のハリウッド映画の戦闘シーンでよく見られる、「視覚上の誇張」はここにはない。

 

 しかし、この『七人の侍』で観客がつかまされるのは、まさに生理的な「痛み」や慟哭するほどの「悲しみ」、身が凍るような「恐怖」である。

 

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 腕を切られた痛さ、槍が突き刺さった苦しさが、観客に「痛覚」として伝わってくるのだ。

 

 ハリウッド活劇の戦闘シーンが、どんなに残酷な映像を写そうが、どこか「スポーツ」のような軽やかさを伴っているのに対し、ここには、まぎれもなく「戦闘」がある。

 

 だから、ひとつの戦闘シーンが終わるたびに、百姓たちと一緒に、観客もへたへたと地面に倒れ込むような疲労感に包まれてしまう。

 そして、画面のなかにいる人間たちと一緒に、死者への哀悼や生き残れたことに対する安堵を共有する。


この映像には戦争体験が反映されている

 

 たぶん、ここには制作者たちの戦争体験が反映されているはずだ。
 太平洋戦争が終結したのが、1945年。
 『七人の侍』が生まれたのは、その 9年後。


 悲惨な戦争の足跡が、まだ街の至るところに残されていた時代である。

 

 そのなかで、制作者たちの多くは、米軍の空襲で焼かれた民家や、沖縄の地上戦で、多くの民間人が殺傷されたときの生々しい記憶を持っている。

 

 だから、この映画を印象づける “逃げまどう百姓たち” という映像には、そういう戦争体験が反映されていると見る方が自然だ。

 
 それが、その後につくられた「戦争を知らないスタッフ」たちによってつくられた戦争映画とはいちばん異なる点である。


百姓たちにとって、あの戦闘は「祭」だったのか?
 
 終わり方も秀逸。
 野武士を殲滅して平和を取り戻した村では、太鼓と笛の音に合わせて、田植えが始まる。

 

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 村人たちのはしゃぎぶりを見つめる生き残った侍たち。
 志村喬が演じる「勘兵衛」、木村功演じる「勝四郎」、加藤大介の「七郎次」の3人が、平和の戻った村の様子を眺めている。

 

 3人の侍たちの表情に、明るさはない。
 
 「また、負け戦だったな」
 と、リーダー格だった勘兵衛(志村喬)がつぶやく。
 「え?」
 と、勘兵衛の部下であった七郎次(加藤大介)は、怪訝そうに勘兵衛の顔を覗き込む。

 

 「勝ったのは俺たちではない。あの百姓たちだ」
 有名なセリフだ。

 

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 勘兵衛のつぶやきに、田植えの作業を景気づける百姓たちの笛と太鼓と、歌声がかぶさる。

 

 すでに百姓たちの心には、自分たちを守ってくれた侍に対する感謝の念もリスペクトもない。

 

 生き残った3人の侍の心を領する徒労感と喪失感。
 ここにはハリウッド映画的なカタルシスはない。
 つまり宿題を渡された形で、観客は置き去りにされる。

 

 

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 この映画に描かれた戦闘って何だったのだろう。
 戦争って何だろう。
 
 その宿題の解を求めるために、きっとまた観てしまうだろう。

 


   

アフロヘア・ガール

 めちゃめちゃに、ブラックミュージックに凝っていた時期があった。
 20代のはじめの話だ。
 
 大学は卒業したけれど、職がなくて、アルバイトをやっていた。
 イタリアンレストランだったが、ハンバーグもカレーもあるっていう店。
 1階と2階に分かれていて、2階がレストラン。1階がスナック。
 夜の10時にレストランのレジを閉めて、その後、1階のカウンターに入ってバーテンをやる。
 
 そんな生活を繰り返しながら、貯めた金で SOUL ミュージックのレコードを集めた。

 

   Mavin Gaye     「What's Going On」
 Four Tops     「Aint't No Woman」
 Chi-Lites       「Oh Girl」
 Curtis Mayfield  「Super fly」
 AL greenn       「Let's Stay Together」
 Gladys Knight&The Pips  「Midnight Train To Georgia

 

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▼ The Four Tops 「Ain't No Woman (Like The One I've Got)」 

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  その時代には、鳥肌が立って、血が泡立つような曲が次々とリリースされていた。

 コンサートにもよく出かけた。

 

 Stevie Wonder
 Wilson Pickett
 The Tempstations
 James Brown
 
 JBがスタンドマイクを引き寄せて、「ゲロッパ!」と叫べば、観客全員が椅子の上に総立ち。会場全体がディスコになった。
 

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 やがて、週末は青梅線に乗って、横田ベースの近くの町まで遊びに行くようになった。

 福生
 牛浜

 その二つの町には、黒人兵がたむろするバーやカフェが点在していた。 
 そういう店では、FEN でリアルタイムに流れる最新の SOUL ミュージックがかかっていた。

 カウンターのストゥールに座っている黒人兵たちに、誰かまわず質問した。
 「今かかっているのは何の曲 ? この曲好き ? 」

 
 片言の英語で聞きまくる。
 なかには面倒くさそうに、うるせぇみたいな目を向けるやつもいたが、たいていのブラックは陽気で、いろいろ教えてくれた。
 
 自分が国に残してきた恋人の写真を見せる男もいた。
 「浮気していないかと心配だ」なんてボヤく。

 そう言う舌の根も乾かないうちに、店に入ってきた日本人の女の子に向かって、
 「へーいキミコ、遅いじゃないか」
 なんて手を振るんだから、お調子者だよ、連中は。
 
 実際、黒人目当てにやってくる日本人の女の子も多かった。
 そういう子たちは、話しかけても、「ナニ ? この Jap」みたいな顔をする。
 おめぇだってジャップだろうが って思ったけど、女が目当てじゃないから放っておく。
 
 たまに黒人兵にあぶれた日本人の女の子と隣り合って話すこともあったが、基本的には「なんで黒人が素敵なのか」って話ばかり。

 
 やつらが言うには、
 「黒人は優しい。女を尊重する」
 もちろん、ベッドの上でもそうなんだそうだ。
 そんなことを、あけすけにしゃべる女もいた。 

 

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 明け方、店がハネてから、仲良くなった米兵たちとベースの中に入る。
 例のカマボコ型の兵舎が並んでいるやつ。

 
 学校の体育館を三つぐらい繋げたような、だだっ広い食堂のストゥールに腰かけ、大味なサンドイッチをほうばりながら、電車が動きだすまでの時間をつぶす。
 
 地元のツッパリ坊主 ヤンキーの日本人たちも、よく来ていた。
 ひでぇ英語なんだ、やつらの会話。
 
 「YOU ね、イエスタディ、サケ飲みすぎ。BUT、ドンマイドンマイ。TODAY ね、ホリデー」
 
 米兵が、それを聞いて愉快そうに笑う。
 そんな会話が、知らないうちに、こっちにも身についてしまう。
 
 ブラックのバーで仕入れた新曲情報のなかから、輸入版があるやつは銀座まで買いに出て、手に入れた。

 
 今度はそれをアルバイトをしているレストランのBGMとして流す。
  「イタリアン」の看板を掲げていたけれど、かまうもんかって気持ちだった。
 そういう曲が流れ出すと、客層も変った。

 

 中年夫婦や家族連れよりも、若いカップルが多くなる。
 「この曲知ってる ? バリーホワイトの『愛のテーマ』っていうんだぜ」

 
 男が、連れの女に向かって得意げに話している。
 そういう会話を耳にするのがうれしかった。
 

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 いつかは、自分の店を持つつもりだった。
 バリバリの SOUL ミュージックの店。
 出す料理は SOUL フード。
 踊れる店にするつもりはないが、片隅に小さなフロアをつくる。
 
 そのうち、アフロヘアの似合う少女が一人、常連客として通うようになる。
 … なんていうことを夢想する。

 

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 看板の明かりを落とし、その日最後のバラードをかけて、客のいなくなったフロアでそいつと踊る。
 “そいつ” がヨメさんになるはずだった。

   
   
 …… 思えば遠くに来たものだ。
 
 今は SOUL ミュージックとは何の関係もない職種のライターをやっている。
 カミさんとなったのは、カーペンターズさだまさしの好きな女だった。
 
 彼女はブラックは聞かない。
 フジ子・ヘミングなんか聞いている。
 日曜日には、それを一緒に聞きながら、豆を挽いてコーヒーを飲む。
 
 ときどき、独りになってから、Mavin Gaye や AL Green を聞く。

 

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 あの時、店を持っていたら、今どうなっていたんだろう
 ふと、とりとめもなく、考える。
 
 空想の中の、アフロの少女が、
 「それも楽しかったかも」
 と、ささやく。

 

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芸能人装うサクラサイトに要注意

 「サクラサイト」っていう言葉があるらしいな。
 
 桜の開花時期を教えてくれる「桜前線情報」のようなものだと思っていたら、“サクラ(成りすまし)” を使った出会い系サイトのことらしい。
 
 ま、昔からある詐欺メールのたぐいで、
 「カレシいない歴3年のOLで~す。スイーツに目のない人がいたらぜひ連絡くださいね。いいお店の情報を知っていたら大歓迎。今度お茶しませんか?」
 みたいなやつ。
 
 こういうのに、ウハウハとアクセスしちゃうと、メールのやり取りだけでお金を取られたあげくに、ドロンされることになるらしい。

 
 ま、途中で気づけば、「やっぱ怪しいわ」で、ポチッと消して終わりだからがいいんだけど、最近のは凝っているとか。
 
 なんでも、芸能人がお忍びでアクセスしてくるサイトを装うやつがあるという。


 そこでは、「4人組の国民的男性アイドルグループの1人◯◯◯◯」とか、「握手もしてくれる超人気女子アイドル集団の◯◯◯◯」とかのメールも寄せられる(ことになっている)んだそうだ。

 

 ま、どうせ返事なんて来ないだろう ぐらいのダメモト気分でその有名人にメールを送ると、なんと、しっかり返事が来るではないか !?

 

 その内容が超リアル。

 

 「昨日の夕食も楽屋でコンビニ弁当。もうこれで10日目だ。さすがに飽きたな。今いちばん食いたいのは、ちょっと早いけど冷やし中華。どこかおいしい店知らない?」
  ってな質問が送られてくるという。

 

 そこで、もらった方は舞い上がる。
 ええ !? あの◯◯◯◯(国民的アイドルグループのメンバー)が私にぃ? うっそ~! ありえなぁ~い! とか思いつつ、返信するわけ。

 

 「冷やし中華のお店をお探しですか? 正統的な冷やし中華なら、私の会社の近くにある『上海厨房』の子ダヌキ冷やしが絶品です! 激辛なら『燕京飯店』の辛味噌クラゲ冷やしもいいですよぉ!」

 
 とか、書いて送る。

 

 すると、来るんだな。
 それに対するお礼のメールが。

 

 「『燕京飯店』か。ビックリっすね! 俺のスタイリストで独身の大河原のマンションの近くですよ! わぁ、今度行ってみよう。教えてくれてありがとう」

 

 で、しばらくはこういうやりとりが “無料” で続く。
 そのうち、やりとりの口調がどんどん親密になっていく。

 

 たとえば、女性アイドルグループの一人(になりすましているサクラ)とやりとりを始めた男性のもとに届くメールは、こんな感じだ。

 

 「タケくん! NHKホールでのライブが決まったよ! テレビ中継は20時からだから、絶対観てねぇ! 私、カメラがアップになったら、タケくんに向けて、思いっきり手を振って笑顔を送るからね」

 

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 あるいは、
 「今日もビデオ撮りで12時過ぎだよ。これから家に戻ったらもう爆睡。でも大丈夫。寝る前に、タケくんに “おやすみ” って、投げキッス送るからね」

 

 こんな感じで、やりとりしていると、ある日突然、メールがつながらなくなる。

 

 わぁ  どうしたんだぁ?
 と悩んでいると、

 

 「実はね、プライベートなメールのやりとりは事務所から禁じられていたの。それがバレちゃったの。
 ごめんね、もう直のやりとりはダメになっちゃった。
 だけど、マネージャーを通せば大丈夫。だから、以下の口座に1回500円ずつ振り込んでね」

 

  とかいうのが、サクラサイトのだいたいの手口らしい。

 
 なぁんだ、500円なら安いじゃん !
 と課金していくと、いつのまにか500円が5千円になり、5万円になり、気づけば20万円、30万円と振込額が蓄積していく。

 

 もちろん、芸能人パターンだけでなく、普通のサラリーマンやOLを装う詐欺も増えているという。

 

 そういうのに狙われるのは、孤独なバアさんとか、ジイさん。
 さびしいから、コミュニケーションを取れる相手が欲しい なんて思っているところに、“人の好さそうなメール” で、サクラの若者がするりと入り込んでくるんだな。

 

 そうすると、なかには逢わずに “恋愛” を始めちゃうバアさんやジイさんが出てきちゃうわけよ。
 
 すると、途中から、
 「このあとは有料ね」
 といって、500円、1,000円とつり上げていく。

 

 相手は、「こいつどのくらい払う気があるんだろう?」ということを冷静に見ているから、取れそうだと思えば、さらに100万、200万とふっかけてくる。
 
 で、詐欺に遭った方が、さすがに変だな   と思い始めて、疑問を投げかけたりすると、それを引きどきの合図に、ドロン。

 

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 こういう詐欺の被害総額が、現在100億円を超えているんだとか。

 

 なにしろ、メールのやりとりだと、相手の顔が見えないし、声も聞こえない。
 だけど、その方が、人間の想像力ってふくらむじゃない?

 

 「恋愛」もそうだけど、相手に対する妄想をはぐくむのは、すべて想像力だから、詐欺を仕掛けている方には都合がいいわけよ。

 

 アルバイトの男の子が仕掛けていても、相手は勝手に “超美人” の女の子を思い浮かべているわけだからね。

 

 もう、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の世の中だよ。

 

「人間」という思想は “砂漠” で生まれた


評論
イエス・キリストはいかにして「人間」を発見したか?

  
 1960年代ぐらいまでは、人間の精神活動の主要テーマは「思想(イデオロギー)」という言葉を中心に回っていた。

 

 それは、アメリカの「自由主義」と、ソ連の「社会主義」という二つのイデオロギーが対立していた冷戦構造を反映していたからである。

 

 しかし、1980年代に冷戦が終結し、「思想」というテーマが色あせてきた代わりに、現在は「宗教」が浮上してきている。

 
 世界を読み解くためには、宗教を理解することが大事であるという見解がこの時代から生まれてきたといえよう。


日本人には理解できない一神教
 
 そのとき、われわれ日本人の前に立ちはだかるのが、キリスト教イスラム教という一神教の世界である。
 
 ジャーナリストの池上彰氏は、『宗教がわかれば世界が見える』(2011年刊)。という著作のなかで、こう語っている。

 

 「宗教は、それぞれの土地の気候風土が反映している。たとえば中東の砂漠地帯では、人間は本当に無力な存在でしかなく、ちょっとした砂嵐に巻き込まれただけで死んでしまう。
 それが、一神教の教えの根幹をなしている。
 キリスト教の母胎となったユダヤ教イスラム教も、ともに砂漠から出現している。
 それほど激しい環境の中で生かされているという実感が、人間は神の怒りに触れるとあっけなく死んでしまうという『旧約聖書』(や『コーラン』)の世界と通じ合う」

  

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 解りやすい説明であるとは、思う。
 
 たぶん、今の日本人が必要としているのは、この手の “解りやすい解説” であるという信念が、池上氏やこの本の企画者たちにはあったのだろう。

 
 「小むずかしい宗教論や哲学ではなく、一言でスゥーっと頭の中に入っていく解説こそ、現代人の求めているものである」という確信が。

 

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 しかし、この解説は十分でない。
 大切なことが見落とされている。

 
見慣れた風景の中の新しい発見
 
 「世界が変わって見える」とき、人間は、必ず日常の見慣れた風景の中から今までとは違ったものを発見している。

 
 たとえば、一神教は、「砂漠の厳しさ」から生まれたといわれるが、そうではない。
 それは逆だ。
 
 一神教によって、逆に「砂漠の厳しさ」が発見されたのだ。
 
 「神は民の苦しみを取り除き、心の平穏を約束してくださるはずなのに、なぜ、この世には “砂漠” のような荒涼とした不毛な地が広がっているのだろうか?」
 
 砂漠は、ユダヤキリスト教あるいはイスラム教の民が、「神」を知ることによってはじめて見つけた新しい「風景」なのである。
 
 もちろん、一神教が誕生する前から砂漠はあったというべきだろう。
 しかし、それは単なる「交通の困難な空間」にすぎなかった。
 
 そのような砂漠が、「不毛の地」という認識を脱して、「超越した空間」に変わっていくのは、“神” が人々の心に降りるようになってからである。

 

 「キリスト教」という思想がこの世に誕生した背景には、このような “砂漠” という空間に対する認識の転換があったのだ。

 

 それは、どのような転換であったのか?


 その場所で、「人間」が発見されたのだ。 

 いきなり、そう言い切ると、理論の飛躍がありすぎるかもしれない。
 もう少し、順を追って話してみたい。


エスとは、何を視た人間だったのか

 

 原始キリスト教グループを創出した “ナザレのイエス” は、それまでユダヤ教の戒律では「人間」としては下位に位置する人々に対し、積極的なアプローチを試みた。

 

▼ 映画に出てくるイエス

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 イエスは、ことさら徴税人や精神疾患の病者、売春婦たちといったユダヤ人の市民階級から嫌われ、蔑まれてきた人々と親しくつきあい、彼らに教えを説いた。
 
 この情景を現代人が目撃したとしても、そこに違和感はないだろう。
 むしろ、「貧者にも慈悲の心を示す」キリスト教らしい布教の1シーンと眺めることだろう。
 
 しかし、当時のユダヤ社会の中では、それは、きわめて異例の光景だった。
 つまり、徴税人や売春婦、精神疾患のある人たちというのは、「人間」としてカウントされない「余計者」だったのだ。
 
 そのような「蔑まれ、嫌われる人々」は、共同体のケガレを一身に背負うことで、いわばスケープゴートのように、共同体の結束を取り結ぶ道具としてのみ存在を許されていた。
 
 イエスは、そのような人々にこそ、熱心に教えを説いた。
 
 なぜなら、イエスは、そのようなユダヤ人共同体から忌み嫌われる人々に対しても「人間」を見出したからだ。
 
 ここで注意しなければならないのは、この時代にまだ「人間」という概念は存在していなったということである。

 

 この時代に存在していたのは、「貴族」であり、「兵士」であり、「農民」であり、「奴隷」であり、「売春婦」ではあったが、「人間」はいなかった。
 
 古代社会では「奴隷」が人間として認められなかったように、少なくとも、その時代に「人間」を名乗れるのは、自分の属する共同体の恩恵にあずかれる人々だけに限定されていた。


「人間」という思想は近代になって定着した
 
 「人間」がようやく一般概念として認知されるようになったのは、それから1500年ほど経ったルネッサンス期においてであり、さらに「人間」という存在が思想的にも容認されるようになったのは、18世紀の啓蒙主義の時代以降のことである。
 
 ならば、なぜナザレのイエスは、そういう時代が来る前に「人間」という概念を手に入れることができたのか?
 
 こう言いかえれば分かりやすいか。
 なぜ、イエスは、「王」や「貴族」や「商人」や「奴隷」という階層化された人々の区分を超えて、「人間」という普遍法則があることに気づいたのか?
 
 イエスは理解したのだ。
 「人間」は “砂漠” から来るということを。


▼ イエスは、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、40日間荒野に留まり、悪魔(サタン)の誘惑を退けながら、思索を深めた。(イワン・クラムスコイの絵)

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「人間」 という思想は砂漠で生まれた
 
 砂漠は、人の住めない不毛の地であったが、そこは象徴的な意味で、人間が共同体の中で保証されていた身分や出自を無効にする空間でもあった。

 

 砂漠のなかでは、「王」であろうが、「貴族」であろうが、「奴隷」であろうが、そのような身分や肩書が通用しない。
 「水」と「食料」を維持できる立場にいる者だけが、その不毛な空間を越えていくことができる。

 

 そういった意味で、砂漠は、「王」や「奴隷」という身分上の区別を維持していた村、町、国家の効力が途切れる場所であったのだ。
 いいかえれば、「王」でも「奴隷」でもない、「人間」が生まれる場所であった。

 

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 「人間」に出会うためには、「家族」も、一度は切断されなければならなかった。
 イエスは、『マタイ伝』の中で、こういう言葉を残している。
 
 …… 私が来たことを、地上に平和をもたらすためだと思ってはならない。私は、平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。父を、娘と母を、嫁としゅうとめを “敵対させる” ために来たのだ。
 
 イエスが語るこの言葉を、「家族」を直接否定したものと読む必要はない。
 ここで語られる「父」や「娘」は、「王」や「貴族」と同様に、“共同体が保証する身分” という意味だ。
 
 彼は、こう言おうとしている。
 「父や娘を棄てたときに、“人間” に出会う」
 
 ここで、いきなり突出してきた「人間」という概念は、おそらく当時の人々にとっては、どう理解していいのか、“手に余る” ものであっただろう。
 
 しかし、神の前に等しく平等な存在としての「人間」を手に入れたことで、一神教はようやく成立することになる。
 
 イエスは、いかにして、個々に分かれて存在していた人々の中から、「人間」という共通したものを抽出できたのか。
 問われなければならないのは、そのことである。
 
 そして、そのような謎の存在に気づかせてくれるものを、真の意味での宗教解説書と呼んでいいだろう。
 
 宗教によって「世界が見える」というのなら、そこで見えてくる世界は、そのようなものでなければならないはずだ。 

 

campingcarboy.hatenablog.com

 

春の夜風

 春の夜風は、なまめかしい。
 なまめかしい、とは「艶かしい」と書く。

 

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 女性の性的な魅力を表現するときに使われる言葉だ。
 「色っぽい」の同義語として使われることが多い。

 

 しかし、春の夜風にまぎれ込む「なまめかしさ」には、もっと根源的な、生きることの “狂おしさ” みたいなものが潜んでいる。

 
 たぶん、冬の間に生命のタネを胚胎していた生物たちが、気温の上昇とともに、新しい命として “うごめき出す” 気配のようなものが、立ち昇ってくるからだろう。
 
 命の形をとる前のものが、ようやく「命」という形をとろうとするときに生まれる、無音のざわめき。
 それが「なまめかしさ」の正体のような気がする。

 

 だから、落ち着かない。
 吉兆のしるしか、それとも凶事の前ぶれか。

 

 ひとつの種の誕生は、別の種の死滅を意味することもある。
 新しく生まれる生命が、この世に何をもたらすのか、それは誰にも分からない。

 何かが生まれ、じっとこちらを見ている気配。

 

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 春の夜風に吹かれていると、風の向こう側に、何億年という虚無の闇を突き抜けて、ようやくこの世にたどり着いた「命」がたたずんでいる気配がある。

 

 胸騒ぎがする。
 そういう夜は、闇夜にぼんやりと浮かぶ飲み屋の赤提灯が、奇妙に恋しい。
 

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卒業 ―― 高校三年生

今週のお題「卒業」

 
 「卒業」という言葉から受け取るイメージは、世代によってずいぶん異なるように思える。

 

 それをテーマにした歌ともなれば、多くの日本人が思い浮かべるのは、まずユーミンの『卒業写真』であったり、海援隊の『贈る言葉』だったり、森山直太朗の『さくら』、長淵剛『乾杯』、レミオロメン『3月9日』、いきものがかり『YELL』といったところだろうか。

 

 しかし、私のような1960年代に中学の詰襟を着た世代になると、“卒業の歌” といえば、もう圧倒的に舟木一夫の歌った『高校三年生』になる。

 

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     赤い夕陽が 校舎をそめて
     ニレの木陰に はずむ声
     ああ 高校三年生 ぼくら
     離れ離れに なろうとも
     クラス仲間は いつまでも

 

 この歌が大好きな友人が、昔いた。
 小学校の同級生だった。
 卒業後は別々の中学に進んだが、その友人は地元の中学に入り、そこで “番を張った” 。

 

 この表現が、今の若い人たちに通じるのかどうか、私にはあまり自信がない。 
 “番を張る” というのは、要するにその学校の番長をやっていたということである。

 

 彼によると、「番長」というのは、いわばその学校の「私設警護団長」のようなものだという。


 つまり、他校の不良中学生から自校の生徒を守るため、昼は校門の近くに張り込み、放課後は繁華街にたむろして、いじめられそうな自校の生徒を守るため、他校の不良とケンカをすることが “役目” だったとか。
  
 武勇伝がある。
 他校の番長から呼び出されて、「タイマン」だという言葉を信じ、1人で決闘場に出向いたところ、10数人に囲まれてケンカになったという。

 
 そのとき、相手方全員に体を拘束され、口の中に丸太を突っ込まれたらしい。
 そのせいで、歯が全部欠けた。

 

 「オレ全部差し歯なのよ」
 飲み屋で昔話になると、彼はそう語りながら歯をむき出し、ニッと笑う。

 

 「でも、オレは一歩も引かなかったぜ。その後向こうの番長を町のなかで見つけ出してよ。しこたま仕返ししてやったわ」
 というのが自慢話。

 

 つまり、彼は中学生の頃から、授業に出ることもなく、ましてや校門をくぐることもなく、街で他校の不良学生とケンカばかりしていたということになる。

 

 その彼の愛唱歌が、舟木一夫の『高校三年生』だった。

 

 中学を卒業した彼は、やがて地元の旋盤工場に勤め、機械工作の技術を身に付ける。
 ガタイもよいし、根性もあり、手のひらも大きく、器用な男だったから旋盤の扱いがうまく、優秀な工員として経営者にも気に入られたらしい。

 

 彼と再会したのは、そんなふうに、彼の仕事も充実していた頃だった。
 私はまだ親のすねをかじった大学生。
 社会人の彼は大きく見えた。

 

 そんな男が、酔うと、『高校三年生』を歌う。
 カラオケのない時代。
 居酒屋で飲んだ深夜の帰り道。
 あるいは、人気の絶えた夜の公園の野外ステージ。

 

 「♪ あかぁ~い、夕陽が、校舎を染めぇてぇ」

 

 中卒の彼は、そもそも高校生活を経験していない。 
 クラスメイトとのなごやかな交流に背を向け、他校の不良たちと殺伐としたケンカに明け暮れた男が、『高校三年生』という歌に何を求めていたのか、私はいまだによく分からない。

 

 ひとつだけ言えることは、この歌が、彼にとっての “卒業” を意味していたということだ。
 中学すらろくに通っていなかった彼は、当然、卒業式というものも知らなかったろうし、クラスメイトの顔すらもろくに覚えていなかったろう。

 

 ましてや、この歌の2番にあるような歌詞。 

 

   ぼくら フォーク・ダンスの 
     手をとれば
     甘く匂うよ 黒髪が

 

 ここで歌われるようなフォーク・ダンスというものを、彼は在校中に踊ったことがないはずだ。

 
 気になった女性がその中学にいたかどうかも分からぬ。

 

 いたとしても、“番を張っていた” 硬派の少年が、それを態度で示すようなことはプライドが許さなかっただろう。

 

 そうであるならば、歌にうたわれる “幻の学園生活” は、彼にとってキラキラ輝いて見えたはずだ。

 

 彼にとっては永遠に訪れることのない「卒業式」。
 それをイメージさせる『高校三年生』という歌を、彼は社会人になってからも、酒に酔った晩には、歌い続けた。

  
 やがて、彼は地味な旋盤工を辞め、半場を流れ歩く工事現場の建設作業員になった。
 バブル前。
 建設系の仕事はどんどん増えていった。
 彼の金遣いは派手になった。

 

 われわれカネのない学生を引き連れ、彼は、女性のいる高い店に遊びにいくようになった。

 
 ボトルを入れ、店のホステスたちにも酒をふるまい、豪勢なツマミをたくさんテーブルに並べた。

 

 中卒の自分が、大学生たちに高い酒を奢ってやるということが、彼の自尊心をいたく満足させたのかもしれない。

 

 その頃になると、すでにスナックにはカラオケが常備されていた。
 彼は店のマイクを握り、演奏付きの『高校三年生』を朗々とうたった。

 

 その後、バブルは弾け、建設系の仕事はめっきり減った。
 彼は、徐々にホームレスに近い生活になっていき、昭和が終わる頃に亡くなった。

 

 酔って、歩道からいきなり車道に飛び出したという。
 自殺か事故か。
 それはいまだに分からない。

 

 ただ、なんとなくだが、もし酔っていたのなら、彼は死ぬ直前まで、『高校三年生』を口ずさんでいたような気がするのだ。

 

youtu.be

 

映画の話題で知り合った女性

エッセイ・追憶・映画
ウッディ・アレン『マンハッタン』
 
 
 ウッディ・アレンが監督を務め、かつ主演を張った『マンハッタン』が公開されたのは、1979年だった。
 公開前から、このクィーンズボロー・ブリッジのベンチの写真が色々な媒体で紹介されていて、それを見るたびに、僕はその美しさにため息をついた。
 

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 だから、この映画が上映されるやいなや、僕はすぐに封切館に飛び込んだ。
 
 観た印象はどうであったかというと、実は、あまり記憶に残っていない。
 たぶん、期待したものが大きすぎて、ちょっと裏切られたような気分であったからだ。
 
 都会的なセンスを身に付けた教養人といわれたウッディ・アレンであったが、彼の「都会性」と「教養」は多分に複雑すぎて、僕の頭と感性ではついていけなかった。

 

 きっと、今もう一度観ると、この映画の良さが分かるのかもしれない。

 

 でも観ないだろう。
 このクィーンズボロー・ブリッジのスチール写真だけ眺めていれば、それで十分だという気もするからだ。

 

 だから、今日ここで書くのは、映画『マンハッタン』の話ではない。
 このスチール写真がきっかけで知り合った、一人の女性の話だ。

 

 

 

 映画を観終わって、少し索莫とした気分でいた僕は、家に帰るまでの時間を持て余していた。
 夕飯を食うことを思いつき、ついでに酒を飲むつもりで、ときどき顔を出したことのある地下の居酒屋の階段を下りた。 
 
 その店に特徴があるとしたら、酒と料理が安いこと。
 それ以外に、何の魅力もない居酒屋だった。
 
 店内は混み合っていて、相席となった。
 客の98%は中年男性のサラリーマンで占められ、僕が相席を勧められたテーブルだけが、残りの2%である女性の二人連れだった。
 
 一人は、都会生活に慣れたOL風。25~26歳ぐらい。
 もう一人は、田舎から遊びにきたその友だち風。27~28歳ぐらい。
 
 二人は何を間違えて、この中年男たちの「巣窟」に迷い込んでしまったのか。
 酔狂な女たちもいるもんだと思いながら、僕は一人でコップ酒をあおり始めた。

 


 
 「あら
 田舎から遊びに来た風の女性が、僕がテーブルの上に置いたウッディ・アレンの『マンハッタン』のパンフレットに視線を注いだ。
 この映画に興味を持っている風情だった。
 化粧気の薄い、地味な顔立ちの女性だったが、好奇心をみなぎらせた目が美しかった。
 
 「ご覧になりますか?」
 そう言って、僕はパンフレットをテーブルの上に滑らせて、相手の方に押しやった。
 
 「いいんですか?」
 そう発した声に、どこかの地方のなまりがあった。
 
 「今日、これを観ようと思って新宿に出てきたんです。だけど時間が合わなくて」
 と、彼女はパンフレットを手に取ってから、同僚の同意を求めるように振り向き、二人でクスっと笑った。
 
 その後は、たぶんその映画の話になったと思う。
 僕は正直に、「映像はきれいだったけれど、話はよく分からなかった」と伝えた。

 「いいんです。映像がきれいなら、ストーリーなんてどうでもいいんです」
 
 妙に自信を持った彼女の言いっぷりが面白くて、僕は「なぜです?」と聞き返した。
 
 どうやら彼女は絵を描く女性だったようだ。
 しかも、テンペラという、今ではあまり使われない技法で描いているというのだ。
 
 「テンペラって、ルネッサンス期の画家たちが教会の壁なんかに描いていたやつでしょ?」
 「あら、ご存知なんですね」
 笑うと、浅黒い肌から白い歯がのぞき、南国育ちのおおらかさのようなものが、彼女の笑顔からこぼれ出た。
 
 話題は、それから絵画の話になった。
 それがつまらなかったのか、もう一人の女性が「明日早いから」と席を立った。
 
 取り残された田舎から遊びに来た風の女性も、一緒に店を出ようとするのだが、
 「いいの、いいの。あなたはいなさい」
 と、立ち上がったOLは取り合おうとしない。
 たぶん気を利かせたつもりだったのだろう。

 

 僕たちは、取り残されたことで、なぜか幸運を手にしたような気分になり、その後しばらく店の喧騒に負けないくらいの声で、絵画について、映画について語り合った。

 

 

 その女性とは、その後一度だけデートしたことがある。
 どういう経緯で逢うことになったか思い出せないのだが、たぶん別れ際に渡した会社の名刺を頼りに、彼女が電話をくれたのだと思う。

 
 僕たちは、銀座で落ち合って、食事をしてから、ジャズのライブを聞きに行った。

 絣の和服を着た彼女は、どこかしら都会のライブハウスでは浮いていた。
 肌の色が浅黒かったその女性に、暗色の和服は、地味で暗い印象を与えていた。
 
 でも、それは、もしかしたら彼女の精いっぱいの盛装だったのかもしれない。
 僕はそれを愛しいと思った。
 
 曲と曲の合間に、尻切れトンボになりつつも彼女が語ったのは、やはり自分の目指している絵のことだった。

 

 平凡でも幸せな主婦になるつもりで普通の勤めを始めたのだが、自分の中に巣くう絵に対する炎のようなものをかき消すことができない、と言う。
 
 でも、絵で食べていくのはあまりにもリスキーだ。
 もし失敗したら、自分には帰る場所がない。
 
 そういう彼女の話には、せっぱ詰まったものが鬱積していて、今ようやくそれを吐き出せる相手が見つかったといわんばかりだった。

 詳しいことは分からなかったが、どうやら家族の反対を押し切って家を飛び出してきたという雰囲気がある。
 きっと、それにまつわる様々な葛藤や事件があったのだろう。
 
 彼女の話が激しさを帯びるにつれ、ライブを演じるジャズメンたちの顔が間延びした表情に思えてきて、彼らの出す音が薄っぺらな音に聞こえた。

 


 
 店を出て、夜の舗道を歩いた。
 「一度、絵を見せてもらえませんか」
 と僕は言った。
 「駄目なんです。描けてないんです。今はどうしてもうまく描けないんです。たぶん焦っているのでしょうね」
 
 そういうとき、なんて励ませばいいのか。
 「頑張ってください」
 と月並みな言葉をかける気にならなくて、たぶん僕は言葉を探しながら、黙って自分たちの足音に聞いていたのだと思う。

 


 
 彼女の個展の招待状が届いたのは、それから4~5年経ってからのことだった。
 名前が変っていたが、「旧姓」として、出会った頃の苗字も添えられていたから、僕はすぐ彼女だと分かった。
 
 その頃、僕も結婚をしていて、子供も生まれていた。
 その招待状が届かなければ、僕はもう彼女のことを思い出すこともなかったろう。

 


 


 個展の会場で久しぶりに会った彼女は、相変わらず暗色の絣の着物に身を包み、浅黒い肌に白い歯を見せて、以前と同じように美しい目で笑った。

 

 彼女が描いたという数点の絵の前にたたずみ、それが想像したようなものとはおよそ違っていたので、僕はびっくりした。

 

 みな裸婦だったのだ。
 それも、赤身の強い、まるで林武の描く「赤富士」のような筆致で描かれた雄渾(ゆうこん)な裸婦だった。
 
 「男の人が描いた絵だと思いました」
 月並みな表現しかできなかったが、それに続く感想として、そのデフォルメの妙が生んだ、裸婦たちのみなぎるような生命感を讃える言葉を探した。

 
 ソファに座り、あるいは壁を背にして立ち、そして窓にもたれかかる裸婦たちは、どれもゴーギャンの描くタヒチの女性のような体躯を与えられ、自分の内なる叫びを必死になってその体躯の中に押し込めようとしているように思えた。

 

 それは、「自分の内なる(絵に対する)炎を抑えることができない」とライブハウスの中でうめいた彼女そのものに見えた。

 もしかしたら、モデルも彼女自身なのだろうか。


 そう思ったとたん、赤黒い肌を与えられた裸婦たちが、画家の分身であるかのように一斉にこちらに目を向けたような気がした。

 

 
 この話はこれで終わりである。
 それから、もう個展の招待状は届かなかった。

 たぶん、彼女は自分の “内なる炎” を封じ込めることができるくらい、幸せな結婚生活を送ることになったのだろう。
 
 『マンハッタン』のスチール写真を眺めると、僕はときどきそのパンフレットを手に取った彼女のことを思い出す。
 

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